人形
その日、私は妻に買物を頼まれて街に出ました。
道の端で寝ている人を見掛けました。
この御時世、若者は見た目が汚いものを嫌う傾向にあるようで、通り過ぎざまにその人へ唾を吐きかける者もありました。
その人は身動ぎ一つせず、じっとそのままで何かを抱えているようでした。
私はその人の側を通り過ぎようとした時、ふと見慣れないものを見掛けて、思わずその場に立ち止まってしまいました。その人の抱え込んでいる腕の隙間から、金色の――
その人はぎょっとしたように私を見、その拍子に手からそれが転がり落ちたのです。
私は一瞬目を疑いました。それは――
その人が到底持ち得ないような、立派なフランス人形だったのです。
私が惹かれたように手を伸ばすと、その人は何ともいえない青褪めた顔をして、必死でその人形を手元に取り戻そうとバタバタと手足を動かしました。
別に私はその人形を奪おうと思ったわけではありません。ただ、私はその人形をその人に返してあげようと思っただけなのです。否―それは言い訳でしょう。私は一瞬でもその人形を手に入れたいと思ったかもしれません。
私はそのまま動けなくなりました。ふと見ると、その人の足は片方膝から下がないようでした。
その人は私がその体勢で動かないのを、人形を奪う為だと思ったらしく、パクパクと口を動かしました。
「どうか連れて行かないでください。それは私の妻なのです――」
それはあまりに小さな声でしたが、私の呪縛を解くには十分だったようです。私は火にでも触れたように、ばっと手を引っ込めました。
その時その人は、本当に嬉しそうに微笑んだのです。
本来ならば、人形をその手に返してあげるべきだったのでしょうが、私にはどうしてもそれができませんでした。
もしその人形に指先でも触れたなら、その人のように手放せなくなってしまうような気がして。
目の前で、ほんの少し離れた処に転がった人形を必死で取り戻そうとしている姿は何とも哀れに映りました。私はお詫びのつもりで、妻の為に買った反物を人形の側に置き、その場を立ち去りました。
家に帰ると、風鈴が鳴っていました。
「ただいま……」
力の抜けたような声で奥へ声をかけると、妻がのんびりと出迎えてくれました。
「反物は? 買ってきてくださいました?」
妻の声は期待に溢れていました。私は苦笑しました。
「いや、すまない。また行ってくるから……」
「いいえ……。いつでもよろしいですわ」
妻は私の言葉を遮ると、にっこりと笑みを浮かべたのです。
「それより、外はとても暑かったようですね」
私の袖を引きながら、妻が何気なく言いました。その言葉に、私はやっとひどく汗をかいていることに気付いたのです。
「ああ……とても暑かった……」
私はあの時あの人を哀れと思いましたが、同時に何故かうらやましく感じたのです。
あの青い目の、フランス人形しか見つめていないような――あの瞳を。
了
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「蚊」
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