8話 お前
男は、か弱い老人に当たり散らして満足したのか、
はたまた疲れてしまったのか、肩で息をして、笑っているだけだった。
「中村さん!大丈夫ですか!」
カズヒコは、足元に突然飛んできた小さい老人に向かい呼びかける。
この人は、ジロウくんの父。
中村家の元大黒柱、中村トシオさんだ。
「ワシは大丈夫……、でも夜見さん、ちょっとウチのバカ息子をどうにかしてくれませんか」
「息子?ジロウくん1人だったはずじゃ?」
「隠していたんですよ……ウチの恥ですからね。
長男のイチロウって言うんです。
数十年こうして2階にひきこもり続けているんですが、
子供の頃からすぐ暴れだしてしまうので、その度にジロウはひどく怯えてしまって……
ワシも体が小さくて、なかなか手に負えなかったんじゃ」
中村家は、カズヒコがこの街に家を建て知り合った当時から3人家族という話だった。
実は、もう1人の息子が長い間隠されていたというのは、ほとんど誰も知らなかったであろう。
この家は、この地区一帯が新しく住宅街になる前からこの場所にあった。
ほかの家に比べて古いのはそのためだ。
中村家の本当の事情など、新しくやってきた住人たちは知る由もない。
「おい!ジジイ!ぼくの!ぼくのパソコンは!どうしたんだ!」
暗い部屋にずっと立っている中年の男、中村イチロウは体力が回復したのか、再び叫び始めた。
その様は、まさに子供の癇癪と言うほかない。
口調からすると、ジロウくんと同様に、この男も知恵遅れであるのだろうか。
このままでは、中村家の人たちが危ない。
そう思ったカズヒコは、部屋の中に自ら乗り込んでいった。
イチロウは引きこもっていた割にカロリーは十二分に摂取していたようで、かなり肥えていた。
こんな体躯の男が暴れれば、あの老夫婦はひとたまりもないはずだ。
しかし、カズヒコに比べれば力も劣るだろうし、ひとしきり暴れたあとなので体力もそう残っていないだろう。
「お前、この人に何をした」
「お前こそ誰だ!帰れ!帰れよ!」
イチロウが殴りかかってくる。
確かに大柄な男ではあるが、ずっと引きこもっていて、
老夫婦とジロウくんにしか暴力を振るわなかった内弁慶の男の拳は、カズヒコには弱々しいものだった。
カズヒコは殴りかかってきた手を抑え、イチロウの後ろに回り込んで羽交い締め(はがいじめ)にした。
羽交い締めとは拘束術の一つである。
相手の後ろに立ち、脇の下から腕を差し込み、相手の後頭部のあたりでガッチリとその両手を組む。
そのままなら腕を固めるだけであるが、
そこから腕で相手の首を強く前に押し付ければ、同時に首へのダメージも与えられる。
こんな男に遠慮はいらないとばかりに、カズヒコは思い切り締め上げた。
その少し後だった。
イチロウが泣き始めたのは。
「いたい。いたいよお。
なんでこんなことするんだよ、パソコン治してほしいだけなのに」
「じゃあ、あんなおじいさんに暴力を振るう必要はなかっただろう」
「だって、言うこときかないから……」
その口ぶりも、主張も、小学生と何ら変わらないもののように思えた。
「中村さん。とりあえず警察を呼びましょう。何をしでかすか分からない」
「いや、警察沙汰は避けたいんです。もうちょっとすれば落ち着きますから」
「そうは言っても……」
羽交い締めの状態では、相手とほとんど密着することになるのだが、
イチロウはずっと抵抗を続けていて、その力がなかなかに強いのと同時に、
体臭が非常にきついものであったため、カズヒコもそれなりに疲れていたのである。
玄関に入ったときから漂っていた臭いは、イチロウとその部屋のものだったのだ。
「もういいよ今日は。ごはん食べて寝る。」
イチロウの力が弱まったのを感じて、カズヒコはつられて羽交い締めを解いた。
「もう出ていって!またあばれたくなる!」
あまりにも幼稚な脅しにカズヒコはまた手を出しそうになったが、
中村さんに連れられ1階へと下っていった。
「いつからこんな生活を続けていたんですか?」
リビングには、中村家の他の2人もいた。
ジロウくんはずっと部屋の隅で怯えていたようで、おばあさんが付き添っている。
「20年以上ですなあ。あれが引きこもり始めたのは小学生の頃です。
元々、ジロウと同じで知恵遅れだったんです。
そこからいじめられて、引きこもって、
体だけがどんどん成長して、暴力を覚え、ネットを覚え……
もはや中年の男の器にガキ大将が入り込んだようなもんですよ。
私たちはたまったもんではないですがね」
「もう、お二人には手が負えないと思うんです。
然るべき措置を取られた方が、お二人、そしてジロウくんのためにも……」
「ええ、そうですがね、身から出た錆は自分たちでどうにかしたいんです。
今日はネットの工事で回線が止まってしまったらしくて
それで暴れていたんですが、普段は暴れたりはしないので……」
「そうですか……無理にとは言いません。
でもお二人も年ですし、ジロウくんも1人で生きていけるとは思えない。
先のことを考えておいたほうがいいと思います」
「そうなんですがね……うん、そうなんだよなあ……」
釈然としないまま、夕飯の時間が迫っていたのでカズヒコは中村家を後にした。
カズヒコは夜、ベッドの中であの哀れな老夫婦たちについて考えていた。
70歳を越え、もはや死にゆくだけの2人、そして知恵遅れの暴力的な兄と臆病で優しい弟。
普通の家庭に生まれ、普通の家庭を支えているカズヒコに、解決策など何も浮かばなかった。
それと同時に、あの中村イチロウという男は、非常に危険な男だと思った。
弱者に対しての暴力性が甚だしく強い。
いずれ、家族全員を殺すなんて事態を引き起こしかねない。
今日だってカズヒコが中村家に向かわなければトシオさんはあのまま階段から転がり落ちていた。
あの男は、要注意だ。
カズヒコの辞書の中には、今日出会ったばかりの中村イチロウという男が、危険人物として記された。