7話 何者
夜見カズヒコは、5人家族を支える頼れる父である。
12年前に高校の同級生である妻と結婚し、二人の息子と一人の娘を儲けた。
次男のコウジは小学2年生である。
妻に似たのか、とても可愛らしく華奢な体で、女児向けの服を着せてしまえば本当に女の子に見えてしまうほどだった。
「コウ、準備は出来たか?」
「待ってよ、お父さん」
2人は、元は真っ白だったのだろうが、洗っても泥が落ちなかったのであろう、ほんのり茶色く染まった野球のユニフォームを着ている。
毎週日曜はコウジの所属する少年野球チームの練習が朝からある。
カズヒコはチームの父母の中で唯一大学野球でプレーした経験があったため、非公式のコーチとして日曜だけ参加していた。
子供が好きで、野球も好きなカズヒコは喜んで参加していた。
また、チームの子供たちも優しいカズヒコを慕っていた。
練習はいつも小学校のグラウンドで行われる。
夜見家からは住宅街を抜けて10分程度の距離にある。
この辺りは新興住宅街で、京都よろしく碁盤の目の様に区画が整理されており、
小学校までの道はずっと直線で走るのに適しているため、
ウォーミングアップとしてよく2人で小学校まで走っていた。
落ち着いたペースで走っていると、近所の相田さんの愛犬のコロの鳴き声が聞こえてきた。
その愛らしい名前とは裏腹に大きいグレイハウンドであるが、よく躾けられていて、大人しい性格である。
しかし、最近飼い主である相田さんが入院してしまって、
相田さんのヘルパーのおばさんが世話をしているからかご主人に会えずに寂しいようで、
門の前に人が来ると近づいてきて吠えるようになった。
相田さんの家の前まで行くと、一人の男が怯えて立ちすくんでいた。
彼はジロウくんといって、近所では有名人だ。
中村さんの家の一人息子である。
彼は知恵遅れで、働いてはいないのだが、
一緒に遊んだりするなど子供の面倒見がよく、おっとりした性格で、みんなから愛されていた。
「ジロウくん、大丈夫だよ。コロはここから出られないんだから」
「ほんとに?」
「うん、ほんとほんと」
ジロウくんは優しすぎるのか、非常に怖がりだった。
家の近くに新築のアパートが建てられるとき、工事の音に怯えてしまって、完了するまで親戚の家に避難していたほどだ。
ジロウくんの両親も似たようなところがあるので、
世の中には色々な遺伝というものがあるが、怖がりな遺伝子というものもあるのだろうか、と
カズヒコは思っていた。
彼を家まで送り届けると、集合時間が近づいていたので学校まで急いだ。
カズヒコが本気で走ると、二人の間にはやはり大きな差が開く。
あと何年でコウジが自分より早く走るようになるのだろうと考えると、
カズヒコは息子の成長に心を躍らすのだった、。
今日は他学区のチームとの練習試合が入っていたので、
ウォーミングアップもそこそこに、試合の準備が始まった。
コウジはチームの大きな戦力とはいえないが、人数が少ないので必然的にレギュラーだった。
今日は9番ライトだ。
カズヒコは高校や大学でこそエースを務めた選手であったが、
成長期が遅く、中学校を卒業した頃でもまだ身長が153cmだったため、
中学校の間はベンチを暖める事の方が多かった。
きっと自分と同じで、高校生にでもなればチームの主力として活躍できるほど成長するのかもしれない。
カズヒコは、細身のコウジがたくましく成長する未来を思い描いた。
コウジは、試合で2本のヒットを打った。
2本とも、自分そっくりのフォームで、自分が得意だったライト方向への流し打ちだ。
自分のDNAが色濃く受け継がれているな、とカズヒコは嬉々として試合を見ていた。
「今日はよく打ったな」
「この前お父さんに教えてもらった通りにやったんだ」
「そうだな、いいバッティングだった。でも、エラーをしちゃったのはまずかったな。
今度は守備の練習をしよう」
「うん!」
家への帰り道、行く時とは逆に、2人はゆっくり歩いていた。
野球で疲れた体を休ませる目的もあるが、試合の反省や、2人だけの話などを楽しむ意味合いもある。
住宅街の真っ直ぐな路地を歩いていると、中村さんの家から怒号のようなものが聞こえてきた。
しかし、あの家には優しそうな老夫婦とジロウくんしか住んでいないはずだ。
あの3人があんな大きい怒号を飛ばすはずがない。
ひょっとすると、もしもの事があるかもしれない。
そう思い、カズヒコはコウジを先に帰らせ、お節介かもしれないが、中村家の様子を伺うことにした。
中村家の門扉を開け、玄関をノックする。
数回ノックするが、聞こえてくるのは言語の体をなしていないような叫び声と、
怯えながらもなだめようとする老夫婦の声のみである。
その異様な雰囲気に足がすくみながらも、
何か得体の知れない危機感を抱いたカズヒコはそのまま家の中へと足を踏み入れた。
玄関の鍵は開いていた。
ドアノブに手をかけ、ドアを少し引いた瞬間にその隙間から臭いがほんのり漂ってきた。
まるで、生ゴミでも放置しているかのような……。
カズヒコは、声のする方へ足を進めた。
どうやら、2階からのようだ。
階段を1段踏みしめるごとに、その臭いが強くなってくる気がした。
あの老夫婦は足腰はそこまで弱くもないが、わざわざ2階で眠るとは思えない。
ジロウくんも、あの異常なまでに怖がりな性質を考えると、1人で2階で寝ているとは思えない。
しかし、何故2階から声が聞こえてくるのだろう。
そう考えながら階段を登りきると、目の前のドアから小さいおじいさんが吹き飛んできた。
中村家のおじいさんだ。
危うく階段を転げ落ちそうになったところを、すんでのところで受け止める。
その奥には、肩で息をしている様子の見知らぬ中年の男が立っていた。