6話 あえなく
僕が裏路地に身を潜めてから、まもなく1時間ほど経つだろうか。
体内時計の精度に自信があるわけではないが、
数百mを人間が歩き切るには十分すぎるほどの時間が経った。
僕が見たあの男はきっと幻影だったのだろう。
1度死んだあとにもこんなにしつこく脳内にイメージを残すなんて、
なんていやらしい男なのだろうか。
きっと死の運命は回避できたのだろうが、その後のことがよく分からない。
生き残ったと判断されれば、ここにやってくるときのように光に包まれていつの間にか地獄へ戻って閻魔からのお褒めの言葉を預かるのか、
いつの間にか成仏してしまってすべての世界から僕という存在が完璧に消えてしまうのか。
一体どうなってしまうのだろうか。
とにかく、裏路地は窮屈で仕方ないので外に出ることにした。
もうここに脅威はない。
外に出て、適当に交番にでも行けばこの体はあるべき場所へ戻るだろう。
正直に言うと、この暗くて狭い裏路地が怖くて仕方なかった。
猫は狭い場所を好むというが、なんの安全の保証もされていないここは、
おそらく普通の人間であろう僕には畏怖の対象でしかない。
耳を澄ませてみても、神経を尖らせてみても、外に人の気配は感じられない。
きっと、閻魔とは異なる、人の良い八百万の神の誰かが僕を救ってくれたのだろう。
早足で表の通りへ向かった。
だが、僕が抱いていたのはあまりに脆く儚い幻想であったことに気付いたのは
その少し後の出来事であった。
あの男は、全てを見透かしていたのだ。
手のひらの上で延々転がされているに過ぎなかった。
奴はアリジゴクのように、陰でずっとずっと僕を待ち続けていた。
なんと貪欲で、執着心の強い男だろう。
僕は再び、まんまと惨たらしい悪意の渦へ飲み込まれていった。
「ずっと…待っていたのか」
男の柔らかく太い腕が僕の首にぐるりと巻き付き、凝固した筋肉が頚動脈を締め上げる。
意識が薄らぎ、もがこうにももがけない。
数回犯行を繰り返すうちに、より合理的な手段を取るようになったようで、
前は持っていなかった、何の装飾もないシンプルなナイフで僕の足を切り裂いた。
ただ、苦しみを与えたいがための単純なサディズムによる刃ではなく、
アキレス腱を裁ち切り、易々と逃げられないようにするための残忍で狡猾なものだった。
もし指一つでこの男の頭蓋骨を粉砕し、死に至らしめるほどの圧倒的な力があるのならば
腕を全力で振るい正当防衛として殺してしまうだろうが、決してそんな力はなかった。
あえなく膝から崩れ落ちる僕の背中に、衝撃と痛みが走った。
刺した。
刺された。
やはり、この男はいかれている。
痛みで顔を歪めているのなどお構いなしに、
二度、三度とナイフが背中に突き立てられた。
僕がこの前、拒絶の言葉を吐いたのがひどく堪えたのだろうか、あっという間に殺害へ及んできた。
この男の性欲にかかれば、物言わぬ体を相手にしても、問題なく絶頂へたどり着けるのだろう。
地面にうつ伏せに倒れ、
生暖かい血がドクドク流れていくのを背中で感じ、
男のベルトがカチャカチャと音を立て外れていくのを悟りながら、意識は遠のいていく。
ああ、いつものように視界が光に包まれていく。
また、失敗した。
今回はいつにもまして、
何か、大切なものを失った気がした。