11話 刃
僕はそれから、異臭の元となっていた部屋の片づけを手伝ったり、
ネットで仕事を調べて紹介したりしていた。
それはただ単純にイチロウに普通の人生を歩んでほしいというのと、
このまま頼りの両親が逝ってしまっては、
まさに世の中に野放しという状態になることを恐れた故の行動だった。
かなり長い間、まともに掃除もされず、
その辺に生活ごみが投げ捨てられた部屋の片付けというのは
非常に苦しいものだった。
夫妻に金があれば業者でも呼べたのだろうが、
年金で2人の息子を養う家庭にその金の余裕はない。
片付けは長い期間に渡って行われ、
僕も週に1度手伝いに向かった。
騒動から2ヶ月ほど経ったある日、
僕は中村家に片付けのために出かけた。
こつこつと片づけた甲斐もあってか、
玄関に入っても異臭はあまり感じられない。
おじゃまします、と言ってみても返事が無い。
基本的にこの家は鍵をかけていないので、
買い物か食事にでも行ったのだろうか。
2階に上がり、イチロウの部屋に入ってみても彼の姿はなかった。
最初、地面に散乱していたゴミはあらかた片づけられていたが、
こぼれたジュースのシミや食べかすなど、
床にこびりついてどうしようもないものもあった。
ゴミが消えた部屋を改めて見回すと、
机の上のデスクトップパソコンが目に入った。
おそらく10年は使われているであろうもので、
ディスプレイやキーボードには様々な汚れがついたままだ。
こっちも綺麗にしてやろうとウェットティッシュで
キーボードを拭き取ろうとすると、画面が明るくなった。
どうやら、電源が入りっぱなしだったようだ。
ディスプレイには、あるページが映っていた。
それが一瞬目に入った瞬間、
「おい、なにやってるんだ」
「あ、違うんだ。ちょっとこいつで汚れを拭き取ろうと」
「今のページを見たのか」
「い、いや、一瞬だったから何のページかは」
「ならいい」
本当はあのページが何なのか分かっていた。
一時期ネットで話題になった、同性愛者向けのポルノを載せたホームページだ。
それだけならば単なる性的嗜好であるし、大したことではない。
だが、表示されていた画像は、
小学生の子供、コウジと同じくらいの子供の裸の画像だったのだ。
自らがあの画像の子と同年代の子供を持つだけに、
彼の性的嗜好が少し引っかかった。
それから数週間が経ち、イチロウの部屋の掃除が終わった。
散乱していたゴミは全て片付けられ、
床についたシミこそどうしようもなかったが、
カーペットを敷いて見栄えも大分良くなった。
さらに、就職も決まった。
トシオさんが連れて行ったハローワークで、軽作業の仕事が見つかったのだ。
これで、イチロウもやっとまともな人生を歩むことが出来る。
就職が決まった後、彼は一言、
「ありがとう」と言った。
いろいろ力を貸した結果がすぐに出て、とてもうれしかった。
ある日、公衆電話からの着信が来た。
出てみると、イチロウからのものだった。
「どうしたんだ?電話なら家にもあるだろう?」
「お礼をしたくてさ……家からかけて聞かれたら恥ずかしいし、
公衆電話からかけてみたんだ。
お礼に、見せたいものがある。7時に河川敷に来てくれないかな」
夜の河川敷は、なかなか不気味な雰囲気である。
普段、この時間に河川敷に来ることはないので気づかなかったが、
手入れのされていない伸びっぱなしの草がやけに恐ろしい。
あの中から怪物でも飛び出してくるかもしれない。
そんな恐怖を感じながら僕はイチロウを待った。
「夜見さん」
いつの間にか、イチロウが後ろから近付いていた。
見たことのないほど、気持ちのいい笑顔を浮かべている。
「おう、やっと来たか、結構待った……」
イチロウは、確かに笑っていた。
しかし、手にしていたのは、そんな笑顔とは正反対の、
凶器に満ちた包丁だった。
「お前……」
「何してくれたんだよ。
せっかく人が何十年も知恵遅れのフリをし続けて
好き勝手に生きてきたのにさ。就職なんてさせやがって。
俺が本当にそうだと思ってたか?
あの出来損ないの弟と同じだと思ってたか?
違うよ、違う。
俺はあの家の帝王だったんだ。
ジジイを働かせ、しもべ全員を暴力で服従させる。
そんな生活を送ってたのによ、
お前みたいな強い人間を呼びやがって、あのジジイ。
何なら真っ先にあっちから殺してやりたいくらいだ」
「じゃあ、演技だったってのか、ずっと」
「そうさ。
あのジジイはそこそこ財産を貯め込んでる。
このまま死ぬまで待ってても路頭に迷うなんてことはなかったのさ。
それがだ、お前のせいで台無しだ。
しかも、人のパソコンを勝手に覗き込みやがったな?
俺がどんな性癖か分かったろう。
今までリアルに手を出せなかったし、
お前を殺して、お前のガキをやっちまうのもありかもしれないな」
イチロウの人生は長い長い演技だったのだ。
今、目の前で理路整然と話すのを見ると、
まともな人間でこそないが、知能は人並み、いやそれ以上あるように思えた。
「ふふふふ……でも、人を殺すのは初めてだ。
初体験、もらってもらうよ?」
自分が死ぬ前提で話しているのを見ると、
やはりまともな人間ではない。
しかし、このまま大人しく殺されてしまえば、
コウジの命まで危ない。
この男は、きっと本当に人を殺せる。
そう確信していた。
「ふざけるな、間違いを分からせてやる。
お前の人生は、全て間違っていた。息子にも手は出させない」
「おうおう、それでそうした。
また体一つでかかってくるつもりか?
俺は躊躇なくお前を刺せるぞ?」
「いや、死なないというだけだ」
僕は河川敷を走り出した。
灯りもなく、足元はよく見えないが、
大人しく殺されるよりはマシだ。
「逃がさん」
イチロウも後を追ってきた。
しかし、あの体型を見ると、自分より走れるとは思えない。
そう思っていた。
しかし、イチロウは薄ら笑いを浮かべながら、
じりじりと距離を縮めてくる。
まずい、河川敷から出なければ。
そう思った瞬間、
足元への意識が疎かになったのか、
窪みに足が引っ掛かり、こけてしまった。
イチロウはあっという間に追い付き、
包丁を振り下ろした。
「ぎあぁっ!」
足に激痛が走った。
かかとの辺りだろうか。
血もドクドクと流れ出ている。
足元の草が真っ赤に染まる。
「どうしてもというなら、5秒あげる」
「なに?」
「5秒カウントするから好きに逃げていいよ。
ちゃんと待ってるから」
「油断するなよ、小学生の頃はかけっこ早かったんだ。
逃げ切ってやる」
そう言い切って立ち上がろうとするが、
足に力が入らず、そのまま崩れ去ってしまう。
「ひひひひひ。逃げられるわけないじゃん。
アキレス腱切っちゃったんだから。
やってみたかったんだよねえ、一度」
右足はもう自由が利かない。
左足は普通に動くが、片足だけでは逃げようがない。
「許さんぞ……お前だけは……」
それが僕の最期の言葉となった。
背中を何度も包丁で刺される中、意識を失い、そのまま僕は死んだ。




