学ぶこと
「いらっしゃいませ!」
丸顔で温顔の50がらみの店長が極上の笑顔で迎えてくれた。
朝型人間の僕は、午前中に仕事をひと段落させると、軽い買い物に来ていた。
ここは家から3番目に近いコンビニだ。
利便性を考えれば1番近いコンビニに行くべきだが、僕はこの店をひいきにしている。
その理由がこの店長だ。
以前に、早朝の路上で何かのきっかけで立ち話をひたことがある。
脱サラして、以前は酒屋だった実家をコンビニし、実家を引き継いだというこの店長は、とにかく愛想がよく、恐縮してしまうぐらい丁寧だ。
空いた時間は若いアルバイトの店員を気遣い、腰の悪い老人が低い棚の品物をとるのに困っていると手を貸す。
殺伐として何もかもがものすごいスピードで動いていく21世紀というこの時代で、近代的な内装の資本主義の権化みたいなコンビニにこんな前時代的な店長がいるというのはそれだけで見ものだ。
(ちなみに彼の一人称は「手前」で、店を代表して話すときは「手前ども」だ)
「いやあ、今日も寒いですね」
「そうですね」
レジに商品を持っていくと、店長が極上の愛想で迎えてくれた。
この店で買い物をすると10銭ぐらい得をしたような気分になる。
「ありがとうございました!」
たかが500円ぐらいの買い物でそんなに丁寧にされるとこちらが恐縮してしまう。
今後もここを贔屓にしよう。
温顔な店長の笑顔に見送られ、店を出る。
すると、入り口で見慣れた顔とすれ違った。
「よく会いますね」
水崎さんは、落ち着いた声でそう言った。
彼女はアパートの隣人で、時折立ち話をする仲だ。
僕は28歳で、彼女は27歳だが、年寄りの多いこの街で同世代の人間はなかなかいない。
僕が管理人代理をしているアパートも、僕と水崎さん以外はほとんどが年金受給者だ。
僕も水崎さんも一人暮らしで、周りに同世代の人間はお互い以外いない。
きっかけは何だったか思い出せないが、自然と雑談する仲になった。
「せっかくですから少しお話していきませんか?」
出会いがしらに何秒か立ち話をすると、彼女はそう言った。
僕も特に急ぐ用はなかったので、
コンビニで買ったコーヒーを啜りながら
公園で立ち話をする流れになった。
「今日はどちらへいらしてたんですか?」
僕は水崎さんが何をしている人なのか良く知らないが、彼女はよく外出している。
それも規則正しい外出の仕方ではない。
僕と同じ自営業なのだろうか。
「学校です」
「学校?」
「ええ。母校の授業を聴講しに行ってました」
「へえ。そうなんですね」
そういえば、以前に受験勉強がどうのという話をしたような気がする。
結局、受験して大学生になるのではなく、聴講生になったようだ。
「どうしてまた聴講生にになったんですか?」
「私、いろいろあって大学中退してるんです。
あの時は、大したことじゃないんと思ってたんですけど、最近になって落ち着いてきてから、何かをやり残してるような気がして」
いろいろとはどんなことだろう?
1つ年下のこの若い女性は、僕のうかがい知れない何かを抱えているように、
話しているといつも思う。
「いろいろ」が何なのか気になったが、今、聞くのはあまり良くない気がした。
少し迷ったが、僕は無難な質問をすることにした。
「やり残したような?」
「ええ。
津田さん、大学は」
「大学?行きましたよ」
もう結構昔の話だ。
講義で聞いたことはあらかた忘れた。
「もうあらかた忘れちゃいました。
仕事の役に立つわけでもないし」
「ええ、そうですよね。
でもね、津田さん。
私、勉強するって役に立つとか立たないとか、そういうことじゃないと思うんです」
「と言うと?」
彼女は静かにほほ笑むと語り始めた。
「今日、西洋音楽史の講義を受けてきたんですけど……
和音を発明したのって数学者のピュタゴラスだったらしいです」
それは意外だ。
「ねえ、何かすごいと思いませんか?音楽の和音を発見したのが数学者だったって」
「確かに、何かすごいですね」
「でね、私、思うんです。
ピュタゴラスがハンマーをたたく音で和音を発見したことを知らなくても、確かに生活には困りません。
たぶん、仕事の役にも立ちません。
でも、何かを知るってすごく面白いと思いませんか?
私がやり残したのって、大学を中退してそういうものを知るチャンスを失ったことだと思うんです」
僕の頭の中ではハンマーを叩きながら、和音という概念について思いを巡らすピュタゴラスを思い浮かべた。
僕の中で、「和音」という概念と「ピュタゴラス」よいう固有名詞は別のカテゴリーの中に属するものだったが、水崎さんに言われると、その2つが同じカテゴリーに無理なく収まるように思えた。
「そうですね。
確かに面白いかもしれません」
「そう。面白いんですよ
私、勉強して新しく何かを知るっていうことは人生を豊かにしてくれると思うんです」
コーヒーを一口すする。
冬の空気に湯気を立ち上らせていたコーヒーは
いつの間にかその熱さをほぼ失っていた。
今日も寒い。
「寒くなってきましたね」
「ええ、じゃあ、私、そろそろ失礼します。
コーヒー、ごちそう様でした」
水崎さんはそう言うと、ペコリと頭を下げて去って行った。
勉強する面白さか。
言われてみれば、わかる気もする。
幸いにして僕は時間に融通の利く身だ。
なにかしてみようか。
大通りから子供たちの嬌声が近づいてくる。
もう学校も終わる時間か。
今日も平和だ