縁側のある家
人の関係は距離とともに減衰する。
世の中には遠距離恋愛だけどうまくいっているとか、離れてても親友だ、という人もいるようだが、少なくとも僕にとっては違う。
僕は28歳で、叔父の経営する古アパートで管理人代行をしながら一人暮らししている。
この年になると、周りの人間にも結婚している者が多い。
大学時代の同級生などたいがいは結婚して、中には小さな子供がいる家庭もある。
東京都の初婚平均年齢が30歳だというから、統計的事実はおおむね正しいといえるようだ。
僕は学生の頃、それなりに社交的なほうだったが、今、彼らとのやり取りは年賀状ぐらいのものだ。
そして、僕は自営業者だ。
会社を辞めて1年になるが、会社を辞めたら本当に人の会わなくなった。
だが、どうやら僕にはこの生活が性に合っているらしい。
人に合わないことで寂しさを感じる時もあるが、概ね大丈夫だ。
むしろ、会社員時代より健康になった気がする。
僕は会社員だったころ、若くして白髪ができていたが、辞めてしばらく経ったら白髪がなくなってしまった。
どうやら、会社勤めは僕にとって相当なストレスだったらしい。
そしてどうやら、僕は自分で思っているほど社交的ではなかったらしい。
特に明確な目標はないし、野心もないが、1日1日を健康に生きている。
そんなことを頭の片隅で考えながらパソコンに向かう。
僕は基本的に朝は早い。
会社員だったころはとにかく朝9時に職場に行くのが辛かった。
だから、会社を辞めたらダラダラと遅めに起きる生活になるものだとばかり思っていたがさにあらずで、
毎日、日が昇る時間にはちゃんと目が覚めている。
たぶん、朝が辛かったんじゃなくて、強制的に朝起きなければいけないのが気に食わなかったんだろう。
今はそう思う。
気づくといつの間にか夜になっていた。
集中していると時間が経つのが早い。
「少し歩くか」
在宅で仕事をしていると人に合わないし、外にも出なくなる。
それでは不健康すぎるので、気が向くと1日に1度は外に出ることにしている。
薄い扉を開け、外に出る。
一気に冬の冷気が流れ込んできて、思わず首をすくめる。
いつものように、家から少し離れたスーパーまで歩く。
この辺は何もないがその分、静かだ。
時代から取り残されたような長屋風の古い家が多く残り、その合間に小さな町工場が立ち並んでいる。
スーパーで安酒を買い、帰路につく。
特に趣味がない僕にとって、飲酒とたまに行く旅行は貴重な楽しみだ。
生活に余裕がないのでいつも発泡酒だけど。
「津田さん」
帰路の途中、薬品のにおいがする町工場の前を歩いていると、声をかけられた。
隣人の水崎さんだった。
「お買い物ですか?」
「兼散歩です。さっきまで仕事をしていて。在宅で引きこもってると体に毒なんでちょっと歩こうと」
「津田さんって、開業してらっしゃるんですよね?
個人事業主になってるってすごいです」
何の嫌味も他意も感じさせずに水崎さんはそう言った。
話していると少なからず不快な気分になってしまう人間が世の中にはいる。
会社という閉じられた社会にいた時、どうしてもソリの会わない人もいた。でも、仕事の話となるとコミュニケーションをとらなければならない。
僕が会社勤めを煩わしく感じていた理由の1つだ。
水崎さんは最初に会った時から感じがよかった。
この人の場合、生まれつきではなく、いろいろ経験してそんな風になったような感じがする。
彼女のことをほとんど何も知らないが、1つ年下のこの女性はどんな経験をしてきたんだろうか。
「すごいといわれてもなんだかピンとこないですね。
僕は、会社員はいやだっていう後ろ向きな気持ちからスタートしていま、こうやって生計を立ててるので」
「そうなんですか?」
「ええ、そうなんです。恥ずかしながら。目標とか野心とかそういう上昇志向からこうなったわけじゃないです。ちょっと恥ずかしいですね」
「意外です。開業する人ってみんなすごい野心みたいなのがあるのかと思ってました」
「全然。毎朝、アフィリエイトの報酬画面見て、1000円、2000円の違いにブルーになったり喜んだり。小さいもんですよ」
「今日はどっちなんですか?」
「いい方ですね。だから今日は酒が飲めます」
「いいですね。ささやかな喜び。お酒がおいしいってすごくいいことだと思います」
水崎さんは感じのいい笑顔でそう言った。
彼女とはごく取り留めのない世間話しかしたことがない。
これからもそうかもしれないし、僕と水崎さんは人生のただ1時を1時的に共有しているだけの存在なのかもしれない。
でも、彼女と取り留めのない話をするのは好ましい。
「水崎さんは?
目標とか、そういうものってあるんですか?」
僕は話の流れで試しに聞いてみた。
水崎さんは、「……そうですね」と少し考え込むといった。
「縁側のある家に住むことですかね」
「縁側のある家?」
「天気がいい日は縁側に出て日向ぼっこしながらお茶を飲んで、読書する。そんなのに憧れてます」
「いいですね。それ」
「ありがとうございます」
話していると、いつの間にかアパートに着いていた。
「では、これで。おやすみなさい」
彼女はペコリと頭を下げると2階に上がって行った。
ドアを閉めるバタンという音が聞こえる。
縁側のある家か。
いいかもしれない。
今日も平和だ。