冬の昼下がりと紅茶
とりとめない雑談です。
人は時計から解放されるとむしろ規則正しい生活を送るようになる
という話を聞いたことがある。
僕は会社員だったころ、もし会社を辞めたら毎日昼過ぎにおきてダラダラ毎日を過ごすのだろうと
漠然と思っていた。
でも、実際は違う。
むしろ会社員だったころよりも仕事をしている時間は長くなった。
僕は28歳で、アフィリエイトと穴埋め記事の執筆で糊口を凌いでいる。
生活は普通に考えれば苦しいが、特に衣食住に不足はなく事足りている。
伯父の経営しているぼろアパートの管理人業を請け負っているからだ。
管理人業の請負の対価として無料で済ませてもらう恩恵を受けているわけだ。
既に定年を迎えた伯父は、妻である叔母と共にそれなりの蓄えを使って
頻繁に旅行に出ている。
それで僕に管理人業を委託しているわけだ。
伯父夫婦は帰ってくるたびに両手いっぱいにお土産を抱え、僕もアパートの住人たちも
おすそ分けをもらう。
仲睦まじくて結構なことだ。
キーボードを打つ手を止めて、窓の外をみる。
外は綺麗な冬の晴天だ。
周りに高い建物がほとんどないので、綺麗に空が見える。
伯父がオーナーをつとめ、僕が管理人を代行しているこの瑞石装は
東京の冴えない下町にある。
築何十年も経つ古ぼけた長屋風の建物に囲まれたこのアパートは
周囲の環境に完璧に溶け込んだ外観で、カビ臭い歴史を漂わせている。
ドアをノックする音が聞こえた。
月末だ。
恐らく家賃の支払いだろう。
伯父夫婦はなぜか、口座振り込みではなく昔ながらの手渡しで家賃を受け取っている。
口座振り込みにした方が良いのにと何度か提案したことがあるが、
「めんどうくさい」
の一言で一蹴された。
「こんにちは」
ドアを開けると20代後半の髪の長い女性が立っていた
馴染みに住人の一人、水崎さんだ。
「寒いですね」
「ええ。本当に。耳がちぎれそうです」
詩的な表現だ。
水崎さんと初めてまともに会話したのはいつだっただろうか。
いまどき、アパートの大家と住人の間に交流など生まれない。
礼金とかいう不合理な制度は、大家が越してきた住人の面倒を見ていた古き良き時代の名残だ。
実際、僕も他の住人のことなど顔と名前ぐらいしか知らない。
会話も挨拶がせいぜいだ。
なにがきっかけだったか思い出せないが彼女とは時々こうして立ち話をする。
部屋に上がってお茶を一緒にしたこともある。
「えっと、家賃ですよね?」
「はい。おいくらですか?」
「水崎さんは……」
「家賃プラス光熱費と電気代が1900円です」
「では、これで」
彼女の差し出す封筒を受け取り中身を確認する。
きっちりちょうどの額が入っていた。
「ありがとうございます。ちょうどですね」
通帳に受け取りの印鑑を押して返す。
通帳と入れ違うように、彼女が手に持った袋を僕に渡した。
「あの、これ、良かったらいかがですか」
中身は赤いパッケージの紅茶のパックだった。
「見たことないブランドですね。輸入物ですか?」
「ええ。バリーズティーっていうアイルランドの紅茶です。
友達がたくさん送ってくれてよかったらどうぞ」
「良かったら上がっていきませんか?
休憩しようと思ってたところだし」
「ええ。喜んで」
彼女を部屋に招き入れる。
「マグカップありますか?」
「こうやってカップにカップにティーバッグを入れて……」
細い指でしずしずとマグカップに大ぶりなティーバッグを入れると彼女は言った。
「お湯を注いでその辺のお皿で蓋をします。
あとは3分まってください」
どこかでチンドン屋が通り過ぎていく音が聞こえる。
「紅茶を一番たくさん飲むのって、イギリスじゃなくてアイルランドなんですよ」
「そうなんですね」
そんなとりとめのない会話をしていると、
ちょうどいいころ合いになったようだ。
「出来上がりです」
彼女が言った。
マグカップに乗せた皿をどける。
カップの中は濃い紅色の液体で満たされ、
芳醇な香りが漂っていた。
一口、口をつける。
濃くてとてもおいしい。
「……おいしいです」
「それは良かった」
彼女は微笑んで言った。
そして、僕らはキッチンに並んで静かに紅茶を楽しんだ。
ゆっくりと時間が過ぎていく。
いつしかカップが空になると彼女が言った。
「お邪魔しました。では、また来ます」
「ええ、いつでもどうぞ」
そういうと彼女は靴を履き、部屋を出て行った。
チンドン屋が通り過ぎると、今度は石焼き芋の屋台が通り過ぎていく音が聞こえてきた。
もう一杯紅茶を入れ、啜る。
濃くてとてもおいしい。
今日も平和だ。
次は決めてませんが次回もこんな感じです。