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命の恩人

作者: 鉄下駄

一面が白で覆い尽された病室の中、一人の少年がベッドの上で眠っている。その顔には痛々しい火傷の痕が見える。

 そんな少年の顔を覗き込んで、椅子に座ったもう一人の少年の口から小さく溜息が漏れた。「……兄ちゃん」

 この顔を見つめながら、何度そう呟いただろうか。しかし、ベッドの上の兄は一向に目を覚まさないまま、三ヶ月の時が過ぎていた。

 少年の家は三ヶ月前に全焼し、両親は死亡、兄は重傷を負った。火災の原因は、当時多発していた事から放火と見られている。偶々家の外で遊んでいた少年だけが魔の手から逃れられた。

 放火事件の話は、少年の家を最後に、周辺の地域ではぱったりと聞かなくなった。止めたのか、それとも機会を窺っているのか、それは本人にしか分からない。

 少年は、今の状況に納得出来ない事が一つあった。自分の両親を殺した犯人はまだ捕まっていない。

その事実だけが少年の頭の中を、ぐるぐると駆け巡っていた。


     ※


病院から歩いて三十分。両親亡き今、自分を引き取ってくれている叔父の家が、少年の住まいだ。築何十年の古びた扉を開くと、直ぐに叔母が玄関までやって来る。

「亮太君。今日も燈弥の所に行って来たの?」

「うん。先生は命に別状は無いって言っているけど、三ヶ月も眠ったきりだからあんまり信用出来なくてさ」言いながら亮太は靴を脱ぐ。

「亮太君の気持ちは分かるけれど、学校くらい通っても良いんじゃないかしら? こんなに暗くなるまでずっと燈弥君を看ている事は無いと思うのだけど」叔母は心配そうに言う。現在の時刻は午後八時。亮太は早朝からこの時間まで、家にも学校にも居る事は無い。三ヶ月も続いている生活だが、中学生の亮太には極めて不衛生な物であった。

それでも亮太は首を横に振る。「兄ちゃんの目が覚めた時に、目の前に居たいんだ」そう言われると叔母は何も言えなくなってしまう。亮太はその事を知っていた。

「もうご飯は出来ているのかな?」話を変える為にそんな言葉を口にする。叔母はぎこちなく微笑んだ後、頷いた。

居間に出ると、叔父と目が合う。会話は無い。叔父は亮太の行動に口を出す事は無かった。そんな叔父に対して、きっと自分の気持ちを尊重してくれているのだと、亮太は勝手に考えている。鞄を置いて、台所で手を洗うと、叔父はのんびりとした動きで椅子に座る。

「いただきます」叔父は亮太よりも食べ始めるのが早い。まるで会話をする機会を少しでも少なくしようとしている様だと亮太は思っていた。


     ※


 何時もの時間に目が覚めた亮太は、てきぱきとした動きで布団を片付けると、居間にある鞄を持ち上げて家を出る。

早朝の冷たい空気が眠気覚ましに丁度良い。亮太はその場で深呼吸した後、辺りをきょろきょろと見渡す。人が居る様子は無い。

確認が終わると、亮太は病院とは別の方向に足を向けて歩き出す。亮太の一日は動いている時間の方が多い。病院に居るのはほんの一、二時間の短い時間だった。



 まず始めに足を運んだのは何も無い開けた空き地だ。二ヶ月程前までは、ここに黒ずんでぼろぼろに崩れた家があった。亮太の家があった場所だ。残骸の回収作業がされていた頃には毎日通っていたが、今では三日に一度くらいの頻度になっている。

足元を見ても焦げた雑草が見える訳でも無く、あの時の面影は一つも見当たらない。家族と一緒に笑い合っていた頃が嘘の様だと来る度に亮太は思う。

 亮太は、空き地の真ん中に座り込んで、少しの間、何も考えずにボーっとする。

「…………来る訳無いか」三十分くらい経ってから、そう呟くと、亮太は立ち上がって、ズボンに付いた汚れを掃う。

 犯人は現場に現れるという言葉を昔、ミステリードラマで聞いた事がある。しかし、所詮はフィクションの話かと鼻で笑った。

 その場から歩き出してふと考える。自分は放火犯を探しているが、そいつを見つけてどうしようと思っているのだろうか。仕返しでもするのだろうか、問い詰めでもするのだろうか、具体的な事はあまり考えていなかった。

 いまいち自分のやっている行動に意味があるのかは良く分かっていない。しかし、とにかく亮太は放火犯という物をこの目で実際に見てみたかった。どんな奴が、どんな方法で、どんな感情で、他人の幸せを壊そうとするのかを知りたかった。

「急に話し掛けたりしたらどんな反応するんだろうなぁ?」興味は尽きない。まるで自分の幸せを壊されて出来た穴を、相手の存在全てを使って埋めているかの様だ。

 居ないなんて事は許されない。自分の家が、赤く鮮烈な光の中に包まれているあの光景が、偶然なんかで生まれたなんて事は絶対に認められない。亮太にとって、放火犯は居なくてはならない存在だ。

絶対に、自分に、世間に、知らしめなければならない。自分の両親を殺した人間は奴だと証明してやるのだ。これが出来なければ元の生活になんか戻れる気がしなかった。


     ※


 時刻を確認して、もう人が増え始める頃だと亮太は思う。今日は休日でもない為、登校する生徒達の姿も、ちらほら確認出来る。冬の始まりの季節だからか、制服の上に厚手のコートを着たその姿は不自然に膨らんでいて何だか奇妙に見えた。

 コートの裾から見える黒い制服を見た亮太は、三ヶ月もの間、離れている学校と言う場所が、面白い位に遠い場所に感じていた。

(たった三ヶ月前には、同じ場所で同じ授業を受けていた筈なのになぁ)それすらもどこか他人事の様に感じてしまう。自分の不健康な生活が、過去の感覚まで蝕んでいるのだろうかと思う。

 亮太は中学一年生で、燈弥は中学三年生。共に同じ学校に通っていたが、今では二人とも学校に通わなくなってしまった。亮太のクラスの担任が、何度か家庭訪問に来た事もあったが、肝心の亮太が家に居ない為、長くは続かなかった。

 燈弥の担任は、こっちに気をつかっているのか、訪ねて来る事は今まで一度も無い。偶に燈弥の病室に置かれている果物が増えたりしているので見舞いには来ているのかもしれない。

それを昼食にしている自分にとっては好都合だが、受け取る本人があの状態なのだから、見舞いを渡す側も気分良く渡す気が起きないではないだろうかと亮太は感じていた。

道を歩きながら白い息を吐く。どうにも気分が優れない。外の気温が下がる度に、この鬱屈とした気分が更に沈んで行く。寒さは行動力の天敵だ。歩を進める足にも上手く力が入らなくなる。

 初めは勇んでしていたこの放火犯探しも、今となっては惰性で続けているだけの様にも思えて来る。それでも止められないのは湧き上がる興味の所為であろう。亮太にとってその目標は、これ以上に無い位の存在なのだ。ある意味、自分を救ってくれる様な存在として見ているのかもしれないとすら考えている。

 そう考えると、この行動がとても前向きな物と捉えられるようになる。だから亮太は、最近放火犯の事を、救いの対象として見る様にしているのだ。この生活から抜け出させてくれる唯一の存在、そう言ってみるとあながち間違いでもないのかもしれないと、亮太は不気味にほくそ笑んだ。


     ※


 本格的な捜索は午後になってから、というのは最近決めた決まり事だ。午後になるまでのこれからの時間は、別の事に回す事にしている。今、亮太はその準備の為に、鞄に突っ込んでいた折り畳み式の箒を使って、周辺にある落ち葉を片っ端からかき集めていた。

 固く細かい繊維が地面に擦れ、ザラザラと小気味良い音が鳴る。実に有意義なひとときだ。落ち葉を集めている間は、何も考えなくても済む。まるで何も考えずに過ごして居られた三ヶ月前の自分が帰って来たように感じられる。

 落ち葉を集める場所は人気の無い裏路地。普段は粗大ごみ置き場などに使われているが、清掃業者が来るのは月に二度と、頻度が少ない為、人が訪れる事は滅多に無い。隠れて何かをするのには最適の場所であった。おまけに壁に囲まれているので落ち葉が風に飛ばされる心配も少ない。

 亮太は、自分の膝くらいの高さまで集まった落ち葉をしばらく見つめた後、背中から鞄を降ろして中を探る。取り出したのは百円ライターと、様々な種類の虫が入ったペットボトルだ。

 ペットボトルをじっと見つめて、中の虫の大半が生きているのを確認してから地面に置く。ライターを手に取り落ち葉の山へと近づけていくと、指を動かして火を点けた。

 穴が開いて行く様に一枚の落ち葉が焦げていったかと思うと、近くの落ち葉に次々と引火して、すぐさま大きな焚火に変貌する。空気も乾燥しているので消える心配は無さそうだった。

 亮太は少しの間、その焚火に当たって暖を取ると、おもむろにペットボトルに手を伸ばす。白色の蓋を取ってその辺に投げ捨てると、そのペットボトルを口に付ける――のではなく、焚火の上で逆さまにした。

 引っ繰り返った重力に、中の虫達は下へ下へと落ちて行く。初めは窮屈では無い上の方に居た虫が、真っ先に火の中に飛び込んで行くのを見て、世の中は割と平等に出来ているのかもしれないと、訳の分からない事を考える。

 その後すし詰めになった虫達が、狭い出口付近で固まっているので縦に振って落としていく。結局は全ての虫が火の中に入る事となった。

 ペットボトルの中身が全て無くなったのを確認して、亮太は視線を焚火に移す。その中の虫達は、火の無い場所を探し求めて懸命に動き回っている。しかし、虫の殆どが落ち葉を掻き分け下に潜ってしまっている。これでは助かる物も助からない。

「……どうしよう。罪悪感が湧かないな」その光景を見ながら亮太は呟いた。燃やす対象を虫にしたのがいけなかったのだろうかと、思案する。かと言って猫や犬だったら大声で鳴くのが面倒だ。

それならばハムスターなら丁度良いかもしれないという考えが出る。格安の物なら百円程度で買えるし鳴き声も猫や犬よりは小さいだろう。実際やるかどうかはともかく、頭の隅に入れて置く事にする。そもそもこの行為を続ける事によって目的が達成する事が出来れば、対象を変える必要も無い事だ。

「取り敢えず楽しいと思える物じゃないね」今回の検証で、自分に放火をして喜ぶ様な性癖が無い事は証明されたと亮太は頷く。

ゆっくりと立ち上がると、ふと焚火の近くでうごめく何かを発見して視線をずらす。何かと思えば、足をもがれて跳ぶ事が出来なくなったコオロギであった。その姿は良く見ると不自然に黒ずんでいる部分があり、運良く焚火に入らなかった物では無く、奇跡的に焚火の中から脱出出来た物だという事が分かる。

亮太は右手を伸ばしてそのコオロギを拾い上げる。焚火から出て来たばかりのそれは、痛みを感じる程に熱を発していたが、落とさない様に我慢した。

ジタバタとぎこちない動きで手から逃れようとするコオロギを見つめる。「羨ましいよ。俺が一番なりたかった状態だ」指に力を込めてコオロギをすり潰すと、熱された体液が更に痛みを与えて来た。

 それを感じながら亮太はある情景を思い浮かべる。燃え上がる家の扉から狂った様に飛び出す自分、三ヶ月前の理想の姿だ。あの時どうして自分は火事に巻き込まれなかったのだろう。そうすれば今の状況よりは、自分が被害者面する事を許せる気がする筈なのだと悪態を吐く。

 やはり世の中は不公平だと考え直した。


     ※


 今日の昼食は、燈弥の病室に見舞いの品として置かれていたリンゴが一つだ。食べる時にナイフが無くても済む物が好ましい亮太にとって、中々都合の良い食べ物だ。唯、如何せん頻度が多く、味にマンネリを感じてしまう。冬も近いのだし、ミカン等を持って来てくれても良いのにと思ってしまう。無料で貰った食べ物にケチを付けるのもどうかと思うが、見舞いはリンゴという意外性の無い思考に陥ってしまっているのはどうにも非生産的だ。それに放火で昏睡している患者に、赤い物を送るのもあまり感心出来ない。この意見は当事者である亮太が言うのだから信憑性があるだろう。

兎にも角にも亮太はリンゴに飽きていた。

食べ終わった後、残った芯をそこら辺の地面に投げ捨てると再び歩き出す。生ごみだから環境汚染の心配は無いと、若干無責任な言い訳をする。

昼になるまでに歩いてやって来たのは、隣町だ。自分の住んでいる町では放火の話を聞かなくなったので、仕方なく行動範囲を広げた訳だが、まだ地図と睨めっこしなければ何処に何があるかも良く分からない状況だ。

しかし、知り合いと出くわす危険性が無いのは有り難い。学校に行かないで放火犯を探しているなんて事を知ったら、恐らくリアル過ぎて笑いも出ないだろう。それを知っているからこそ、隣町まで足を運ぶのは一石二鳥の作戦だ。少なくとも亮太自身はそう思っている。

 亮太は手頃な住宅街を見かけると、周りに人が居ないのを確認しながら一軒一軒を調べて行く。調べる内容は勿論、防犯対策の有無だ。放火し易い家と、し辛い家をA、B、C、D、Eの五段階評価で審査していく。評価DとEの家は地図に印を付けて、監視の対象となる。そこで放火犯が見つかれば儲け物だ。

 鞄から取り出した地図と睨めっこしながら、自分の付けた印の家を探す。昨日、新しく印を付けた家はどこだっただろうかと、視線を泳がせていると、五分程で発見した。

 亮太は改めて周りを確認する。人が近づいて来ている様子は無い。ゆっくりとした足運びで庭に入り込むと、窓から家の中を覗き込む。

 見えるのは中年の男性と女性が一人ずつだ。こちらに背を向けてテレビを眺めている。如何にも警戒心が足りないというのが分かる。

 こちらに気付く危険性は薄いと判断した亮太は、特に隠れる様な動きはせずに、窓の前を通り過ぎて行く。亮太が庭の奥側に辿り着くと、壁の直ぐ近くに置かれた自転車が目に入り、思わず溜息を吐く。

「これは駄目だな」そう言って地図と赤ペンを取り出し、評価をDからEに下げる。

この家の人間は自転車が意外に燃えやすいという事を知らないらしい。亮太から言わせてもらえば放火して下さいと言っている様なものだった。

 一通りの確認がし終わった後、自転車に防火スプレーでも吹きかけてやろうかと鞄に手を伸ばそうとした瞬間、この家の玄関が開く音がする。亮太は咄嗟に窓の方を見ると、先程の二人が居なくなっていた。

 庭に侵入したのがばれたのだろうかと、亮太は慌てて目の前にある物置の中に隠れる。耳を澄ますと「それじゃあ行って来る」という低い男性の声が聞こえた後に、扉の閉まる音がする。

 それを聞いた亮太は、どうやらばれた訳では無い様だと一安心すると、暫くした後に、何者かの足音が庭の方に近づいて来ているのが分かった。

 男性は出かけに行った様だし、それならば女性の方だろうかと思考を巡らせていると、物置の直ぐ近くで、重い物を地面に置く鈍い音が聞こえて来る。

(今度は……、水の音か?)次々と聞こえて来る音が変わる事に対して亮太は少し不可解な顔をする。

物置の前の人物は、余程その作業に没頭しているのか、声を上げる事は無い。

(…………うん?)暫くの間、聞こえていた水音が止んでから、亮太はどこからか漂って来る臭いに気付く。鼻を突く様な特徴のある刺激臭。その臭いはこの時期ならば誰しもが嗅いでいる臭いだ。

 臭いの正体に感付いた亮太は小さく笑みをこぼす。

 音を立てない様に扉を少しだけ開くと、くたびれたグレーのスーツを着た男の姿が目に入る。男の横には青いポリタンクが置かれており、その手には一本のチャッカマンが握られている。

(思った通りだ!)たった今、目の前に放火犯が居る。しかも犯行の真っ最中だ。亮太にとって、考えうる中で最良の状況が展開されていた。

 高鳴る鼓動を押さえつけながら、嬉々とした表情で男の様子を見守る。充満する臭いからして後はチャッカマンで火を点けるだけ。決定的な瞬間がじっくりと見られる最高の機会だった。

(焦らさないで良いから早く行け!)膨らんで行く期待に自然と呼吸が荒くなる。

 男の指が引き金に掛かり、チャッカマンの噴射口から赤い炎が飛び出す。

「やっぱり駄目だっ!!」その前に男の口からそんな言葉が漏れだした。

(……あれ?)期待していたものとは真逆の光景に、亮太は少しだけ思考を停止した後、表情を曇らせる。

 すっかり興醒めさせられた亮太は思わず物置の扉を乱暴に開け放つ。「なんだよ意気地なし!」

「な、ななっ!?」物置の前に居たその人物は、予想もしなかった場所から人が現れた事に、間抜けな声を漏らす。

 それを気にせずに亮太は、目の前の人物の顔を見る。良く見ればさっきまで家の中に居た中年男だ。それから横に置いてある青いポリタンクをチラリと見やると、如何にも面白くなさそうな顔をする。「おじさん、この家の人でしょ? 燃やすの? 自分の家」

 目の前の男は状況が掴めていないのか、亮太の言葉に反応しない。それを見た亮太は構わず煽り続ける。「その様子だと保険金目当ての放火とかかな? 家なのか奥さんなのか両方なのかは知らないけどさ。あんまり詰まらない理由で放火なんかしない方が良いよ?」

「だ、誰だよお前!? 勝手に入って来るなよ!」勝手に物置の中に入っていた初対面の人間に忠告された事が面白くないのか、中年男は声を荒げる。威嚇しているつもりなのか、手に持っているチャッカマンを向けて来ているのが妙に滑稽だ。

 不法侵入に関しては、完全に開き直った亮太は悪びれる様子も無い。そんな事よりも辺りに充満しているこの臭いが不快で堪らなかった。

「放火も碌に出来ない中途半端な放火犯に言われても何も後ろめたくないね。その様子だと、どうせ理由もくだらないだろう。そして、踏み込む勇気が無い癖に行動だけして一人で勝手に納得しようとしていたんだろう?」容赦無い罵倒に中年男は顔を真っ赤にする。そのまま人体発火でもすれば一石二鳥なのにと亮太は鼻で笑う。

「何だと!? 何も知らない癖に何様のつもりだ!?」

「人生に挫折した中年男の事なんて知らないし知りたくもないね」亮太はそう吐き捨てると、ライターを取り出して火を点ける。

「うっ……」

「やっと静かになった。安い覚悟で放火なんて大それた事をしようとするからこうなるんだ。俺は中途半端な奴が放火を試みようとしているのが一番嫌いなんだよ」風で揺らめく火をじっと見つめたままピクリとも動かなくなった男を見て亮太はニヤリと笑う。

自分の家を燃やした奴が、こんな安い人間と同じ様に見られるのが我慢ならなかった。

 亮太はライターをゆっくりと降ろすと男を睨み付ける。「迷っているくらいなら俺が燃やしてやる。どうなんだ? 燃やすか? 燃やさないのか?」

「や、やめっ……」

「はっきり言え!!」

「止めて……、下さい!」目に涙を溜めながら男は懇願する。

それを見た亮太はライターのスイッチから指を離すと、ポケットに仕舞う。「それで良い。二度と放火なんて考えるな」

 男は立って居られなくなったのか、その場に崩れ落ちると、言葉にならない声を上げる。

 亮太は男の横にあるポリタンクを持ち上げると、まだ中身が入っている事を確認する。「これは貰って行くよ。おじさんにはもう必要の無い物だ」

 男からの返事は無い。亮太はそれを了承の沈黙と受け取った。


     ※


 重いポリタンクを何時までも持っている訳にもいかない亮太は、一旦家に帰る事にした。

 玄関の扉を開いて適当なスペースにポリタンクを置くと、中に入ろうとする事もせず、外に出ようと開いたままの扉に手を掛ける。

「待て」

 掛けられると思わなかった制止の声に、亮太の動きが止まる。首だけを回して振り向くと、滅多に会話をする事が無い叔父が立って居た。

「何か用?」珍しい事もあるものだと思って返事をすると、叔父は黙って手招きをする。

 亮太は怪訝な顔をして、面倒臭そうに口を開く。「大した事無い用なら帰って来てからでも良いでしょ? 病院の面会時間は結構短いんだからさ」

「いつも六時くらいに病院に行っているらしいな。昨日の昼に、燈弥を見に行った時に看護師さんから聞いたよ」叔父が言うと、亮太の動きが止まる。

そんな様子を見ても叔父はその表情は崩さず、「少し話があるんだ」と再び手招きをした。

亮太は無言で扉を閉めると、小さく頷いた。靴を脱いで居間の方へと向かうと、テレビも点けられていない静かな部屋に、机を挟んで二枚の座布団だけが敷いてある。

先に叔父が座ると、亮太もその向かいに座る。重苦しい雰囲気から、無意識に正座になっていた。

 叔父は小さく息を吐いた後、ポケットから煙草とライターを取り出し火を点ける。「別に身構える必要は無い。お前が嘘をついている事に対して説教をする訳では無いからな」

「それじゃあ、話って何だよ?」そう言うと、叔父は肺に取り入れた煙を吐き出す。亮太は不快な臭いに顔を少しだけ歪ませた。

「単刀直入に言おう。お前がこの家に来てからの行動は全て知っているつもりだ。地図を持ってあちこちを歩き回っている事や、他人の家に忍び込んでいる事、放火犯を探している事もな」

亮太は何も答えずに叔父の顔を見つめる。

「お前が放火犯を探すのは自由だ。それを理由に学校に行かないのも目を瞑ってやろう」そう言って再び煙草を吸う。机の上に灰皿は無く、先から零れる灰は、机に小さな山を作っていた。

「だが、もう三か月が経った」煙草を一本吸い終えてから、叔父は睨みを利かせる。「何か分かったか? 何か変わったか? 時間が経っただけだろう? 全部現実逃避なんだよ。お前のやっている事は」

「……何が分かるんだよ」

「……何か言ったか?」耳にはしっかりと入ったが、叔父はわざとらしく聞き返す。それが亮太の怒りの引き金となった。

「あの場に居なかった癖に、俺の何が分かるっていうんだ!?」一度吐き出したら止まらない。相手の入り込む隙間も無く、亮太の口は動き続ける。「目の前で家が燃えて、父さんと母さんの悲鳴が聞こえた。でも俺は動けないんだ。熱気と恐怖で自分が前を向いているのかすら分からなくなった。崩れて真っ黒になっていく家を見ている内に、やがて悲鳴すら聞こえて来なくなった。その時の俺の気持ちも分からない癖に、無駄なんて言っているんじゃねえよ!!」全ての怒りを乗せたと言っても過言では無いその叫びの後、短い沈黙があってからライターの点く音が聞こえて来た。

 亮太が顔を上げると、一本の煙草をくわえたまま、空になった箱に火を点けている叔父の姿があった。

「そんなもの知らねえよ」燃え上がる箱と叔父の悪魔の様な顔が亮太の目に映っていた。

 火が指に触れる直前で箱を放すと、机の上に落ちた箱を右手で叩き付ける。火傷の痛みが気になっていないのか、叔父は右手に目も向けずに亮太を見つめる。「世の中知らない方が良い事ってのもあるもんだ。お前、自分の家が燃えた時に家の中に居なかったらしいな?」

「そ、それがどうしたんだよ?」

「これは仮の話だが、もしお前の兄貴が家を燃やした張本人だったらどうするつもりだ?」

「何を馬鹿な事を!」

「仮の話だって言っているだろ。どうするつもりなんだ?」

「……放火した理由を聞くさ」

「まぁ、妥当な所だな。くだらない理由だったらどうする? 復讐でもするのか?」

「そんな事はしない。唯、それ相応の罪は償ってもらうだけだ」

「けじめって奴か」叔父はさほど興味も無さそうに呟く。「それは全く知らない奴が犯人だった場合も変わらない訳か?」

「変わらない。俺は父さんと母さんを殺した奴が、生きている事が不満な訳じゃない。何食わぬ顔して過ごして居る事が不満なんだ。だから、犯人を見つけるまでは普通の生活に戻るつもりは無い」

 叔父は亮太の顔をチラリと見やると、くわえたままの煙草に火を点ける。「それを聞いて安心した。お前が復讐の為に動いていないと言うのならそれを信じよう」叔父は言いながら煙草の煙を吐き出す。

「えっ?」亮太は叔父の顔を見つめる。その表情は、この家に来てから初めて見る、笑顔だった。

「初めてお前がこの家に来た時、本当に兄貴の子供なのかと疑った。兄貴は根っからのお人好しで、困っている人間は見過ごせない人間だったからな。だが、お前がしていたのは、兄貴なら絶対にしない真逆の行動だ。だから試す事にしたんだ。お前が本当に兄貴の子供として育てられた人間なのかどうかをな」

「それで、どうだったんだよ?」

「合格だ。お前は兄貴の子供だよ。犯人を許すなんてお人好しを見せられたら信じるしかねえさ」叔父は苦笑いしながら灰皿を取り出し、吸殻を集めていく。

 亮太は全身から力が抜けて行くのを感じた。まさか、自分に関わり合うのを極力避けようとしていたのではないかと思っていた人間が、ここまで考えていたなんて思いもしていなかった。

 叔父は、甥としての亮太を誰よりも気に掛けていたのだ。それを知った亮太は、奇妙な衝撃を受けていた。

「でも、どうして今日なんだ?」

「うん?」

「この話をするなら今日じゃなくても良かった筈だよな? 俺の事を見極めるなら、もっと時間をかけても良かったんじゃ」

「…………」亮太の言葉に、叔父はもっともだという顔をする。たった三ヶ月と言わずに、半年でも一年でも良かった筈である。勿論、叔父もそれを承知の上であった。

「理由はある。実は今日、お前が出かけた後に病院から電話が来たんだ」

「電話?」病院からという言葉に引っ掛かり、亮太は目を見開く。

「ああ、そうだ……。だからこそ、お前の覚悟を聞いておく必要があった」

「……まさか」

「燈弥の奴、目が覚めたらしい」

 待ち望んでいた筈の兄の目覚めの報告は、予想とは違い何処か重苦しいものを感じさせていた。


     ※


 午後三時半。何時もの時間よりも二時間半も早い事に、若干の違和感を感じながら、亮太は病院までやって来ていた。

 燈弥の病室は三階の奥にある。エレベーターを降りて通路を進んで行くと、途中の椅子に叔母が座っているのが目に入った。

「おばさん。こんな所でどうしたのさ?」

「ああ、亮太君。燈弥君の事を聞いて来たのね? 会ってあげて。部屋の中に居るわ」叔母は燈弥の居る病室を見る。その声色は何処か疲れた様な声だった。

「燈弥がどうかしたの?」

「どうしてそんな事を聞くの?」やはり声に張りが無い。亮太は目を細めると、「何となく」と返してみる。

「…………。燈弥君とね、あんまり会話が続かなくて。まだ慣れてないからなのかな? でも、亮太君が私達の家に来た時と少し違うっていうか。何か様子が変なの」

 困った様子で言う叔母を見て、亮太は少しだけ家に帰りたくなる。叔父が言った仮の話が現実になるのではないかという恐怖心が膨らんで行く。

「変ってどういう風に?」亮太は恐る恐る叔母に問い掛ける。それを聞いた叔母は、一瞬目をパチクリとさせた後に、思い出す為に上目遣いになる。

「何か、そわそわしているの。ずっと落ち着きが無くて、私の顔をじっと見つめていると思ったら、急に何十分も目を合わさなくなったりして」

 それを聞いた亮太は、まるで野生の小動物みたいな様子だなと思う。確かに亮太が叔父の家に初めて来た頃は、口数こそ少なかったが、警戒する様な事は無かった筈である。まるで目の前の人間が、自分に対して害意を持っていないのかを見極めているかの様な態度はとった覚えなど無かった。

「分かった。とにかく、兄ちゃんと話をしてみるよ」何にしても、会わなければ判断のしようがない。亮太は病室の方に向かって歩いて行く。

 椅子に座ったままの叔母は、少しだけ不安そうな顔をしているが、亮太は小さく頷いて任せてくれと意思表示した。

 病室の前までやって来て、ゆっくりと扉を開く。音も立たずに開いて行く扉の途中で、上体を起こしたままベッドの上に居る燈弥と目が合う。

「りょう……た?」

「久しぶりだね。もっとも、俺は毎日会いに来てたし兄ちゃんの方はずっと寝ていたから実感無いだろうけど」言いながらベッド近くにある椅子に腰掛ける。

「叔母さんとは少し話したんだって? 混乱してるかもしれないけど、良い人だからさ。別に警戒しなくても大丈夫だよ」

 燈弥は暫く黙り込むと、小さく頷く。「少しの時間、一緒に過ごして何となく分かった。あの人は、良い人だと思う」

 それを聞いて亮太はホッと胸を撫で下ろす。「それを聞いたらおばさんも喜ぶよ。そうだ、直ぐに帰ったかもしれないけど、おじさんとも会ったんだよね?」

 亮太がそう言うと、燈弥の身体がピクリと跳ねた。それを見た亮太は首を傾げる。「どうかした?」

「……亮太、そのおじさんの家に、住んでいるんだっけ?」

「あ? ああ。そうだよ。俺だけじゃなくて、兄ちゃんも退院したら一緒に」

「御免、無理だ」

「……え?」その瞬間、空気が凍りついた音が聞こえて来た気がした。機械の様なぎこちない動きで視線を動かすと、布団の端を握りしめながらうつむく燈弥が見える。

「無理って、何が?」

亮太が聞くと、燈弥は視線を合わせずに口を開く。「俺は亮太と一緒に暮らせない」

「ど、どうしてさ!?」突然何を言い出すのだと、亮太がベッドに身を乗り出すと、燈弥はパジャマのボタンを外して亮太に見せる。

「俺の身体を見て何か違和感が無いか?」

「違和感?」そう言われて注意深く見てみると、肌が綺麗過ぎる事に気が付く。顔にはどの角度から見ても目に入るくらいの火傷の痕があるというのに、胴体の部分には目立った痕が無かった。

 パジャマのボタンをとめて、燈弥は亮太の顔を見つめる。「家が火事になって、炎に囲まれた時にさ、お父さんが俺に覆い被さったんだ。俺を守る為に、自分の事なんか形振り構わず助けてくれたんだよ。でもさ、顔だけは覆いきれなかったんだ」言いながら顔の火傷を撫でる。「だけど、そのお蔭で俺はある人と目が合ったんだ」

「ある人?」

「おじさんだよ。窓の前に立って、家の中を覗いていた。俺が意識を失う時までずっと」

自分の頭の中の何処かで、築かれつつあった小さな幸せが壊れた音がした。


      ※


 燈弥から叔父の話を聞いた後、気が付くと亮太は叔父の家の前に立って居た。休む事も無く走って来たからか、肺は悲鳴を上げており、荒い呼吸を抑える事が出来ない。

「おじさん!」玄関の扉を開くと、亮太は叔父の事を呼ぶ。返事は無かったが、靴がある為、外出している訳では無い事が分かる。

居間の方に向かってみると、テレビを見ながら新しい煙草の箱を開けている叔父の姿があった。その横には空になった煙草の箱が六箱も転がっている。居間は換気も何もしていない所為で、一呼吸でもすればむせてしまうくらいに空気が悪かった。

「おう、帰って来たか。久しぶりに兄貴と話した気分はどうだ?」亮太の方に視線を向けずに叔父は尋ねる。亮太の緊迫した様子には気付いていない様だった。

 亮太は少しだけ気分を落ち着かせると、机の上にあったテレビのリモコンを握りしめて、電源のボタンを押す。「嬉しかったよ。忘れかけてた兄ちゃんの声もはっきりと思い出した」

 叔父は電源を切られたテレビを見つめながら、煙草に火を点ける。「結構な事じゃねえか。これでお前の背負っている重荷の一つが無くなる訳だな」

「残念だけど、新しい重荷がまた出来たよ」言いながら亮太はリモコンを放り投げる。

叔父はその音を聞いても振り返らない。

「兄ちゃんはさ。おばさんとは直ぐに仲良くなれそうだったよ。今は少し混乱しているけど、きっと一週間もすれば慣れると思う」

「そうか、それは安心した。まぁ、目覚めて行き成り新しい家族だなんて言われたら仕方ないか。お前も初めの一ヵ月くらいは口数が少なかったしな」

「でもさ、はっきり言っておじさんと仲良くなるのは無理だと思う」少しだけ空気が張り詰めた気がした。

叔父は口から煙を吐き出すと、「そうか」とだけ呟く。驚いた様子は無かった。そう言われるのが当たり前だとでも言いたげに、いつも通りのんびりとした動作で煙草を吸っている。

「驚かないんだな」

「お前達を引き取るという話が来てから、覚悟はしていた事だからな。それで、お前はどうなんだ?」

「俺?」

 叔父の言葉に問い返すと、叔父はやっと亮太の方に向き直る。「お前は俺と仲良く出来るのか?」その顔に表情は無かった。

 亮太はこの場から逃げ去りたい衝動に駆られるが、それを抑え込んで叔父の顔を見つめる。

「どうして……、どうしてだよ!?」叔父に怒鳴るのはこれで二回目。しかし、一回目とは全く違う感情が働いている。

 叔父は小さく溜息を吐くと、灰皿の中に煙草を押し付ける。「お前達は知らないだろうが、俺は兄貴に結構な額の借金をしていてな。兄貴は返済の催促こそして来なかったが、俺にとっては気分の良いもんでは無かった訳だ」

「借金……? そんな事の為に……」

「小っちゃい事だっていうのは自覚しているさ。だが、俺は誘惑に負けたんだ。正式な手続きもしていない借金は、借りた相手が消えればそれだけで無かった事になる。俺は兄貴と金を天秤にかけて、金を選んだ最低の人間って訳だ」言いながら叔父は乾いた笑みを浮かべる。それは全てを諦めた様な態度だった。

「父さんの事を知っているのはおじさんの筈だろ!? なのにどうしてこんな事を!?」

「それが重荷なんだよ」叔父の声色は飽くまで静かだ。しかし、亮太に言い返す隙を与えてくれない奇妙な圧力があった。「何でも笑って許すっていうのは、それだけで救われちまう。俺が行動するまでも無く、兄貴の方だけで解決する。身体が透明な沼に沈んで行くんだ。全身が沈んでも気付く事も出来ない。それが俺にとって、息苦しくて仕方ねえんだよ」

「そんなの――」

「――ああ、自分勝手な言い分だ。さっきも言っただろう? 最低なんだよ。俺って人間はな」

「…………けるな」

「だから聞いたんだよ。お前は俺と仲良く暮らしていけるのかってな」

「ふざけるな!!」怒号と同時に、亮太の右手が叔父の顔に突き刺さった。初めて本気で殴った人間の感触は、思った以上に固く、自分の手にも痛みが広がっていく。

叔父は殴られた勢いのまま床に倒れ込むと、視線も動かさずに天井を見つめている。

「暮らせる訳がないだろ! 父さんや母さんを殺して、兄ちゃんに消えない傷を作った人間なんか顔も見たくも無い」

 予想していた通りの怒りの言葉に、叔父は無意識に目を瞑っていた。闇の中で亮太の言葉が反響し、暴れ回る。顔の痛みと熱は際限なく増大していき、やがて感覚すら無くなってくる。

「何時までそこで倒れているつもりだよ」永遠に続くのではないかと感じられる程の沈黙が続いた後、やけに澄んだ亮太の声が聞こえて来た。

 叔父は重い瞼を開くと、自分を殴りつけた亮太の右手が、今度は開いた状態で目に飛び込んで来る。それが自分に対して手を差し伸べているのだと気付くのに少しの時間が掛かった。

「まさか、俺を許すつもりなのか?」

「そんな訳無いだろ。兄ちゃんに頭を下げて、その後に警察に自首して貰う」

 それを聞いた叔父は目を見開く。「ふざけるんじゃねえ。俺は殺されても良い覚悟で自白したんだ。そんなぬるい償いで納得出来る訳が――」

「――あんたが納得するとかはどうでも良い! これだけ好き勝手やったんだ。罪の償い方は被害者である俺が決める。碌に償いもせずに死ぬなんて逃げる様な事させてたまるかよ!」知らぬ間に会話の形勢が逆転していた。叔父の都合なんて知った事では無い。亮太は己の信じる事をするだけだ。

 差し出した右手に、より一層の力を込める。「さぁ、俺と一緒に病院に行くぞ。まず兄ちゃんに面と向かって謝るんだ」

「はっ、はははは……」思わず笑い声が漏れてしまった。どうやらどうしようもない程の馬鹿に出くわしてしまった様だと叔父は思う。亮太の目に映っているのは、父親と母親を殺した放火犯では無い。間違った道に進んでしまった家族だ。

「おじさん!」

 その純粋な呼びかけに、叔父は恐る恐る手を伸ばしていく。その距離は段々と縮まっていき、二人の指と指とが触れ合ったその瞬間、パチンッ、と大きな音が響き渡り、亮太の手は横に勢い良く弾き飛ばされた。

「やっぱりお前は兄貴の息子だよ」

「えっ?」

 何が起こったのか分からなかった。何故か自分の右手がジンジンと痛み、目の前に悪魔の様な笑みを浮かべた叔父の顔がある。

「言っただろ? その優しさが重荷なんだよ」そんな叔父の声が聞こえた瞬間、亮太の顔に衝撃が走った。

「うっ!?」抵抗する事も出来ずに亮太は倒れ伏す。状況に頭がついて行かない。その隙に叔父は亮太の上にまたがり、右手で首を押さえつける。

「そんな甘ったるい考え方を持っているから俺みたいな屑に足元をすくわれるんだよ。自分の常識が誰にでも通用すると思っている。俺はそれが嫌いなんだ」叔父は左手にライターを持つと、火を点けて放り投げる。火はあっという間に燃え広がり、赤い光が内部を満たしていく。

「煙草の臭いで気付かなかっただろうが、家の中にガソリンを撒いておいた。お前が持って来た奴だ。覚えているだろう?」

「うぐっ、がぁ……!」亮太は必死に抵抗するが、上から押さえつけられた状態ではどうする事も出来ない。

「安心しろ。兄貴を殺した罪は俺の命で償ってやる。だが、俺一人で死ぬのも寂しいからな。お前も一緒に死んでくれるだろ?」叔父の目は突き刺す様に亮太の顔を凝視し、世にも恐ろしい形相をしている。他人の笑顔が恐ろしいと感じるのは初めてだった。

「お前は誰よりも兄貴に似ているよ。何があっても俺を許して、最後には俺に良い様に利用される。血っていうのは本当に恐ろしいもんだ!」

「ふぐっ……、ぐががが……!」亮太の頭の中には、今まで自分の中にあった怒りとは、全く別の怒りが湧き上がっていく。目の前の人間に対する純粋な憎しみ。そして為す術が無い事による自分への失望。この二つの感情だけが満たされていく。

 目には涙が浮かび、悔しさと苦しさで顔はくしゃくしゃに崩れる。叔父はそれを見て愉快そうに笑う。

「良い顔だなぁ。その顔が普段から出来れば、俺もこんな事をせずに済んだんだよ!」どこまでも自分勝手な男は、首を絞める両手に一層の力を込めながら叫ぶ。

「と…う……ざん…」薄れていく意識の中、亮太が最後に口にしたのは、自分と同じ感情を抱いて死んで行ったであろう父親の事だった。


     ※


「……うた」誰かの声が聞こえて来る。

「……ょうた」その声は次第に鮮明に、大きくなっていく。

「……亮太!」その声が自分の名前を呼んでいるのだと理解出来た時、亮太の両目がゆっくりと開く。

「起きた! おばさん、亮太が起きたよ!」まだ目が光に慣れていない中、聞き覚えのある声が大きく響く。

「亮太君。良かった、気が付いたのね?」叔母の声が聞こえて来ると、亮太の意識が一気に覚醒した。ぼやける眼で声のする方を向くと、燈弥と叔母の顔が見える。

「燈弥? おばさん?」反射的に声を出すと、その小ささに自分で驚く。眠っている内に、喉が弱くなった様だ。

「まだ無理をしない方が良いよ。五日も眠っていたんだからさ」三ヶ月も眠っていた燈弥が言う事かと亮太は小さく笑う。

「でも本当に良かった。まさかまた家が火事に遭うなんて思いもしなかったから」

 叔母の火事という言葉を聞いて、亮太の頭に気絶する前の記憶が一気に蘇る。「おじさんは!?」

「それは……」亮太の問い掛けに、燈弥はばつの悪そうな顔をして叔母に視線を向ける。

 亮太もその視線につられて叔母の方を向くと、叔母は複雑な顔をして口を開く。「助からなかったの……。全身に火傷が広がって、とても助けられる状態じゃなかったみたい」

「そう、なんだ……」

「でも、良いの。あの人が身をていして亮太君を守ってくれたんだから。妻として誇らしく思うわ」

「……えっ?」思いがけない言葉をかけられて、亮太は思わず声を漏らしてしまう。叔母が何を言っているのか理解出来なかった。

 困惑する亮太の肩に燈弥が手を乗せる。「俺も誤解していたみたいだよ。俺が見たのはきっと勘違いだったんだな」

「燈弥……? 何を言って――」

「――俺の時の父さんと同じだよ。おじさんがお前に覆い被さったお蔭で炎に焼かれずに済んだんだ」

(フタリトモイッタイナニヲイッテイルンダ?)次々に燈弥と叔母の口から出て来る叔父を褒め称える言葉に、頭の中が真っ白になって行く。

「これからは、おばさんと燈弥君と亮太君の三人で暮らして行きましょうね。お義兄さんとお義姉さん、そしておじさんの分まで精一杯長生きしなくちゃ」

「勿論!」

「…………」声が出て来ない。まるで別の世界に迷い込んでしまった様だった。夢なら一刻も早く目覚めて欲しいと切に願う。


『世の中知らない方が良い事ってのもあるもんだ』

 あの日、燈弥から真実を知らされる前に叔父が言っていた言葉が頭の中で満たされていた。


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