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006

「やってくれたな。よりにもよって、このタイミングでだ」


 苦り切った声に、デスクに座る男は反応を返さなかった。ただ積み上げられた書類を手に取り、顔も上げないまま、いっそ機械的に事務処理を続けた。

 男――エレイセル・ヒューズ・ジルセスはそのデスクに座るには若すぎ、威圧感や威厳というものに欠けていた。ただ、虚勢を必要としていないのだということを納得させる、泰然とした空気を持っていた。血や階級ではなく、これまでの仕事や実力に由来する空気を。それこそが、後ろ盾を失ってもなお、彼が軍で重要な地位に据えられ続けている理由だった。

 答えないヒューズに苛立ってか、デスクの前で、こつこつと落ち着きなく足音が動き回る。


「血縁の不祥事だ。王はこれ幸いとお前を拘束しようとするだろう。時間の問題だ。……嗅ぎ付けられている可能性は低いが、奴は元王子派の――特に、お前の一挙一動に神経を逆立てている。どんな屁理屈を持ち出すか……」


 ヒューズは書類に目を通しながら、淡々と応じた。


「問題はない。すでに状況は整っている」

「馬鹿を言うな」

「事実だ。……私一人が消えたところで、すべきことが滞りはしない」

「ヒューズ!」


 咎めるような声に、ヒューズはようやく顔を上げた。

 眼鏡をかけた強面の旧友が、よりいっそう悪人顔になっているのを長め、なお淡々と言葉を返す。


「ログイットは、まとも(、、、)な男だ。私やお前とは違う」

「……だから何だというのだ」

「あいつが見過ごせないと感じたのなら、人道的には認容すべき余地があるということだ。早晩、こうなるだろうとは思っていた」

「なぜ放任した? お前が釘をさしておけば、あいつは従ったはずだろう」

「だからこそだ」


 その言葉は、妙にはっきりと輪郭を持っていた。

 口をつぐんだヒューズに、苦り切った諦めのため息が落ちる。


「今さら、失敗は許されんぞ。あまり不確定要素を盛り込んでくれるな」

「必ず成し遂げるさ。殿下も、それを望んでいた」


 抑揚のない口調が、不意に熱を帯びた。

 不思議な安心感を与える声だった。表面だけなら温度のない男が発する、確信めいた言葉は、感情論で動く人間をも常に巻き込んできたのだ。

 かくして歴史は動き出す。止めようもなく、変化を望み、生き残るためだけに。

 逃れようのない変換点が、すぐそこまで来ていた。


 


 


 


 


 


 これまでの人生の中で、ユラに与えられた物はそう多くなかった。

 孤児とはそういうものだ。ただ同時に、同じように貧しかった周囲を見ては、縛るもののない自由を実感することもあった。

 暴力を振るう父親に怯えることはなかったし、治療費のかかる家族を抱えていたわけでもない。食事は十分ではないが飢えることはなく、規則まみれの修道院は彼女の能力を認めて、望むままの教育を注いでくれた。間違いなく幸運だった。


 ただ、それでも――自分自身しか存在しない人生は、いつもどこか寄る辺ないものだった。


 充実していた時間がなかったわけではない。

 ずっと一人だったわけでもない。

 どちらも一度だけ、手に入れたことがある。

 それは、努力の末にたどり着いて手に入れた、居場所と呼べる唯一の場所だった。


 真新しい研究所はガラス張りで日当たりがよく、研究に行き詰まったときには微睡みそうになるような空間だった。

 実際に昼寝を決め込んでしまうマイペースな古株がいて、それを見つけだしては叱りとばす神経質な事務屋がいた。

 やたらとユラに絡んでくる短気な同僚がいて、それを徹底的に言い負かそうとしているところに、双子の女の方がおっとりと煽りに来る。

 激怒する同僚をあわてて宥めに入るのは、苦労性を絵に描いたような双子の男の方だ。

 いつの間にか大騒ぎになってしまった様子を面白がっているのは主席技師の王子様で、老齢の室長はいつも穏和な笑顔を保ったまま、癖の強い部下たちをさりげなく誘導した。


 懐かしくて、暖かい。

 そればかりではなかったはずなのに、それでも、未だに思い出しては苦い気持ちになる。

 ――手放したのは、自分の選択だったというのに。


 


 おかげで目覚めは最悪だった。

 ぼんやりと瞬きを繰り返し、抱えるように身を丸めた。ぎこちなくひきつる呼吸を平坦に戻していく。涙腺が壊れたかのように涙が流れていた。悲嘆に暮れるでもなく、嗚咽を漏らすこともなく、夢の残滓を引きずりながらぼんやりと泣いた。


(ああ、もう。馬鹿じゃないの……いったいいつまで、こんな……)


 あとどれくらいの間、こうやって泣きながら目覚めるのだろうか。

 記憶も罪悪感もやがては薄れて消えていく。それを待ち望んでいるのか、それとも恐れているのか、今のユラには分からない。ただ風邪のせいにして、夢うつつの中、ぐずぐずと泣き続けた。


 熱が引き、部屋を出たのは、翌日の夕方だった。

 譲渡したはずの外套は結局手元に戻ってきたわけだが、とても使えるような状態ではなかった。申し訳程度にストールを羽織って扉を開け、吹き込んできた冷たい風に一瞬目を瞑る。

 そして、目に入った光景に思わず顔をしかめた。


 箒を持ったログイットが、ユラに気づき、安堵をにじませて笑いかけた。


「よかった。体調はもういいのか?」

「……何してるの?」

「何って、掃除……いや、それを聞いてるんじゃないよな。しばらく、ドクターを手伝う事になったんだ」


 苦笑いするログイットは、エプロンに手袋に三角巾に箒という完璧な格好だ。

 あまりにその姿がしっくりきて、ユラは呆れ顔で応じた。


「ドクターも物好きね」

「はは……できるだけ、迷惑をかけないように努力するよ。彼にも、君にも」

「期待してるわ」


 ユラは肩をすくめて返し、階段を降りていく。

 その背中に、ログイットが声をかけた。


「これから仕事?」

「そうよ。お説教ならお断り」

「いや、そうじゃなくて……行ってらっしゃい。気をつけて」


 ユラは虚を突かれて振り返った。

 ほとんど生まれて初めて、そんな言葉を聞いた気分になったのだ。

 驚くユラに、ログイットは不思議そうな顔をしている。ユラはしばらく唖然としていたが、何か返さなければ行けないような気になって、眉間に皺を寄せた。


「い……行ってきます」


 口にしたとたん、猛烈な気恥ずかしさに襲われた。

 階段を駆け下りたい衝動をぐっと押さえてきびすを返す。

 振り返るものかと主張するようなその背中を見送り、ログイットは何とも言えない感情に口元を緩めた。

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