005
家主の趣味を元に設計されたフラットは、四角い建物の中央を、広い階段がまっすぐ上る形になっている。
スペースの無駄とも言えるが見栄えはいい。帰ってきてこの階段を見上げることを日々の楽しみにしている家主は、部屋の明かりに笑みを浮かべた。
ノックして扉を開けると、がたりと大きな音がした。部屋の中はすっかり冷え切っていた。微睡んでいた様子の青年が、緊張を顔に浮かべて家主を出迎えた。
「やあ、元気そうでなによりだ。怪我の具合はどうだね?」
「おかげさまで……ありがとうございます」
「今夜も実に冷えるな。暖炉を使っても良かったのに、薪の場所が分からなかったかね」
「いえ。そこまで甘えるわけには……」
「おやおや。ユラに言づてを頼むべきだったな」
青年は恐縮したように、ありがとうございますと繰り返した。
腹部の切創は内蔵にこそ達していなかったが、決して軽い怪我ではない。丁寧に張り付けられていた癒合布は、破損した細胞を無理矢理つなぎあわせるだけのものだ。細胞の再生は、あくまで自然治癒力に頼るしかない。
ドクターは患者を安心させるような笑みを向け、帽子を取った。
やもめ暮らしも慣れたもので、コートもマフラーも手早くハンガーに片づけてしまう。
「さて、君はこれからどうしたい? 一度は拾った縁だ、ある程度の希望には沿おう。このまま立ち去ってもいいし、自己紹介を始めても構わない」
軽い口調の問いかけに、青年はわずかな逡巡を挟んで応えた。
「……ログイット・キリク・ジルセスです」
「ログイットだね。私はラルフ・ボイトン。このフラットの大家で、市立病院の医者だ。大家さんでもドクターでも、好きなように呼んでくれたまえ。さて……話をする前に、腹ごしらえをしたほうがいいな。目が覚めてから、何も食べていないだろう?」
空腹を指摘され、青年――ログイットは決まり悪げに首筋を掻いた。
怪我を負っている上に、ただでさえ大立ち回りをしたばかりなのだ。身体が燃料不足で悲鳴を上げている。
「とはいっても、すっかり無精していてね。大したものは出せそうにないのだが」
「……あの、もしよければ、何か作りましょうか」
「君が?」
「はい。凝ったものはできませんが、スープくらいなら」
ドクターは目を丸くしたが、快く台所を貸し渡した。
ほどなくして用意された夕食は、当初の予定よりも遙かにきちんとした「食卓」になっていた。飴色のスープに、焼き直したパン。サラダには、チーズとベーコンを混ぜている。彩りよく、食欲をそそる匂いだ。
まずスープを口にして、ドクターは感心したように頷いた。
野菜の風味が柔らかく溶け込んでいる。塩加減がほどよく、じんわりと染み込むような優しい味だった。
「これは旨い。調理人でもしていたのかね?」
「いえ、ただの家庭料理で……」
ログイットは苦笑いで返した。
しきりに感心するドクターに他意は見えない。実際の仕事がそんな平和なものとはかけ離れていることが、含みを持って聞こえてしまったのだろう。
のんびりとスープを口に運びながら、ドクターは話を切りだした。
「ユラから話は聞いたかね」
「一通りの状況説明は受けました。……刃物はそのまま、机の上に置かせていただいています」
「片づけて構わないよ。並べておくのも物騒だ。使う場面がないのが一番だが、丸腰では落ち着かないだろう?」
そうでもないと言うに言えず、曖昧な笑みを浮かべた。
毒のない皮肉が端々に混じっているが、悪気というよりは茶目っ気のようなものだ。どうにも憎めない。
「それにしても、ただの野菜スープも腕一つで変わるものだな。ろくな材料もなかっただろうに……大したものだ」
「ありがとうございます」
「……まだあるかね?」
「はい」
手放しの賞賛を受け、ログイットははにかんだ。
特技といえるほど大層なものではなくとも、作ったものを喜んで食べてもらえるのは嬉しいものだ。空になった皿をドクターから受け取り、おかわりをよそいに席を立った。
「この時間だと、ユラはまだ仕事から戻っていないだろうな。残念だ、彼女にも分け前を受け取って欲しかったのだが」
「仕事、ですか? こんな時間に……?」
ユラがこの部屋を覗いたのは夕方だ。それから仕事に出たということだろう。
そういえば、昨夜遭遇したのも恐ろしく遅い時間帯だった。
眉を寄せるログイットに、ドクターは肩をすくめることで共感を示した。
「そう、こんな時間にだ。何度言ってもそこは直らなくてね」
「深夜の作業が、必要なのでしょうか」
「少なくとも業務上の必要性はないだろうね。街路灯の修繕だよ。彼女は魔工技師だ」
魔工技師とは、魔法工学の専門家だ。ログイットも職の存在は知っていたが、決して身近なものではない。
「市から仕事を請け負っている分、時間を自由に使えるものでね。昼に出歩くのがどうしても嫌らしい。困ったものだ」
「……俺が言うのもおかしいとは思うんですが……危なくはないですか」
「それには心から同意するが、本人が大丈夫だと言い張っていてね。君もよく実感しただろう?」
昨晩の失態を揶揄され、ログイットの顔に熱が上った。
武器を持っていながら、見事に返り討ちにあってしまったのだ。ただ、それは自分の甘さのせいだとも思っていたので、少し釈然としない気分もある。
「ついでに言うなら、以前にも似たような事があったんだ。そのときは、まあ、もうちょっとたちの悪い輩だったんだが……少々やりすぎてね。過剰防衛で警吏からお叱りを受ける羽目になった。夜中にふらふら出歩く方も悪いと言われたことに相当腹が立ったようで、意固地になって現状に至るというわけだ」
ログイットは苦笑いを返した。彼女らしいと思わせてしまう空気が、ユラにはあったからだ。
気づけば、話がすっかり逸れている。
自ら本筋に戻すのもおかしな気がして、無難な話題を選んだ。
「お恥ずかしながら、街路灯に修繕が必要だということも知りませんでした。そんな仕事があるんですね」
「何でも損耗は避けられないものさ。まあ、この街は特殊だ。なにしろ《傘》があるからね」
街の上空に据えられた《傘》は、ガンプリシオを常夜の街たらしめているものだ。
魔工事故による汚染から街を守るため、《神殿》が構築した防御壁だが、同時にいくつかの副次的な作用をもたらした。
ひとつは日照だ。汚染物質と日光を切り離すことができなかったため、《傘》は一切の光を吸収してしまう。ただ、水分はそのうちに入らないようで、その名に反して雨や雪は素通りして降り注ぐ。
もう一つは、魔法術式の分解だ。術式は平常でも自然に損耗していくものだが、《傘》の下ではその分解が早まることがわかっている。
その二つが重なって、地味だが重要な問題となるのが、街路灯だった。
人は本能的に光を求める生き物だ。ただでさえ突然の大事故でパニックを引き起こしていたガンプリシオにおいて、照明の確保は、心情的にも治安の面からも最優先事項として取り扱われた。
ドクターの説明に頷き、ログイットは相手の博識ぶりに感嘆した。
この街に来て二年になるが、街の具体的な仕組みを知っている人間は少ない。多くは日々の生活に精一杯で、そんなところにまで頭を回せないのだ。
ドクターは特に誇るでもなく、顎を撫でながら時計を見上げた。
「まあ、昨日の今日だ。彼女も、そう無理はしないと思うが……」
その言葉を見計らったかのように、門が開く音がした。
三杯目のスープをよそいに立っていたログイットは、つい窓の外を覗いた。果たして噂の女性が、ケープから雪を払っているところだった。
「お帰りかい?」
「そのようです」
ログイットは頷いて、スープの皿をドクターの前に置いた。
先ほどは分け前云々という話をしていたが、彼女を呼ぶのだろうか。自分から言い出すのも妙で、なんとなく落ち着かない気分になりながら椅子を引く。
そのとき突然、壁の向こうから、何かが滑り落ちる音がした。
そして、何かをしたたかにぶつけるような音も。
テーブルの上に、何とも言えない沈黙が落ちる。
先に席を立ったのは、ログイットだった。
扉からそっと顔を覗かせると、案の定、ユラが階段に蹲って膝を押さえていた。
どうやら足を滑らせたらしい。立ち上がろうとしないので、心配になって階段を下りた。
「……大丈夫か?」
「……見ない振りをするのが、紳士ってものじゃないの」
顔を上げないままの憎まれ口に、ログイットは思わずドクターを振り返った。
ドクターは無言で首を振った。それに背中を押されるようにして、ユラの額に手を当てる。
驚いて上げられたユラの顔は、最初から赤かった。
「なっ……!」
「……やっぱり、熱がある。出かける前から出てたんじゃないか?」
「か、勝手にさわらないでよ」
邪険に手を払うも、口調には覇気がない。
立てずにいるようなので困り切っていると、ドクターが大仰なため息を吐いた。
「ログイット。その風邪っぴきを運んできてくれ。食事と薬を取らせよう」
「あ、はい……ええと」
「……いい。自分で歩けるわ」
抵抗は無駄だと判断したらしい。ユラは苦り切った顔で膝を払った。
抱き上げるには気が引けていたので、ログイットはほっとして細い腕を取った。ユラは嫌そうな顔をしたが、振り払うようなことはしなかった。
体調が悪いのは間違いないようで、彼女はスープを半分ほど残した。いかにも体が怠そうなのに、眉間にくっきりと皺を作っているのがなんだかおかしい。そうしなければいけないという義務感にかられてでもいるのだろうか。
ドクターが処方した薬を苦そうに飲み干すと、ユラはおぼつかない手つきで硬貨をテーブルに置いた。
「薬代。ごちそうさま」
ドクターは肩をすくめた。対価を求めていなくとも、受け取らなければ納得しないのはわかりきっている。
「風邪には睡眠が必要だよ、ユラ。ゆっくり休みたまえ」
「どこの誰のせいよ……」
そのままふらふらと扉に向かうのを、ログイットがあわてて追いかけた。また階段で転んではいけない。
二人の背中を、ドクターは実に愉快げに見送った。
追い払われず、無事に部屋の前までユラを送ることができただけでも快挙だ。そうとは知らず、戻ってきてもまだ気がかりにしている様子のログイットを見て、ドクターが堪えきれずに笑い声をたてた。
「何ですか?」
「いやいや。ありがとう、お礼を言うよ。大したものだ」
ログイットは首を傾げながら、はあ、と返した。
ドクターはまだ、くつくつと笑っている。
「さて、先ほどの話の続きだが……私もここのところ多忙で、大家の仕事が難しくなっているんだ。それを手伝ってくれるなら、しばらくの間、一室を提供しよう。どうだい?」
破格の条件に、ログイットが目を見張る。
事情を話さなくてもいいという態度を崩さないまま、ドクターは笑顔で返答を待った。