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033

 ログイットは貴人の躯を見下ろし、短く息をついた。

 警護官が自失状態のユラを支え、屋外へと避難させていく。一瞬だけ警護官と目が合った。体格こそ比べ物にならないほど屈強だが、女性らしい細やかな気遣いができる人物だ。うまくケアしてくれるだろう。


 人を殺すのは初めてではない。

 それでも、後にくる鳩尾の重苦しさは、いつまでも変わらないままだ。


 廃棄された信仰の眠る場所は形骸を残したままで、光景を非現実的に美しいものにしている。高窓の長い影を目でたどり、時間の経過を推測した。

 時計を見るつもりにはなれなかった。

 吐き出すことのできない重さを抱えたまま、もう一度ゆっくりと嘆息したとき、打ち捨てられた聖堂に奇妙な二重声が響きわたった。


「何をため息ばかりついているんだい?」


 神経が一瞬で張りつめる。刃を翻したログイットは、ぎくりと身を竦めた。

 なにしろその声は、他でもない、床の生首が発したものだったからだ。


「なかなかいい反応だね。嬉しいよ」


 クランヘルムはそう言い、愉快げに笑みまで浮かべて見せた。

 何度見直しても頭部だけである。どう見ても生きていられるはずがない状態だ。

 しかし、よく見れば、頭部からの出血があまりに少ない。

 まさか頭を落としてなお倒せないとは思わなかった。苦々しさを押し込めて無表情を保つログイットに構わず、クランヘルムは滔々と話し続ける。


「そう警戒しなくてもいい。種明かしをするなら、ただの延命処理の成果だ。保存しておいた酸素と血と秘密の何かを使ってごまかしているだけだからね。放っておけば約九分で死に至る。――ああ、うまく声帯を残しておいてくれて助かったよ。代替手段は用意していたけれど、その場合の残り時間は四分だった。人間が首だけで生きていけるようになるには、あと数百年は必要だろうね」


 そんな時代は来なくていいと、心から思った。


「……目的は何だ」

「ただの雑談さ。末期(まつご)のね。まだ死ぬ予定ではなかったのだが……まあ、死んでしまったからには、さすがに諦めるしかない。残念ながらここまでだ」


 ログイットは苦々しい思いで口をつぐんだ。そう簡単に切り替えられるなら、なぜ生きているうちにそれができなかったのだと、文句の一つも言いたくなる。


「俺よりも……彼女に、何か言うことはないのか」

「何を言っているんだ、可哀想じゃないか。こんな光景を見たら心に傷を負ってしまう。その点、君は僕を殺した張本人だからね。この状態の会話に付き合わせることに良心も痛まない。――さて、感想はどうだい?」

「……ひどい悪夢だ」

「それは重畳。少しは意趣返しになったなら、このざまを晒した甲斐があるよ」


 ログイットのこの上ない渋面は、異端の天才のお気に召したようだ。

 この軽妙さでユラに向かってぺらぺらと喋ってくれたなら、心の傷を深めるどころか、絶望も悲嘆も馬鹿馬鹿しく思えるようになったのではないか。

 一度無表情を崩してしまうと、気持ちを持ち直すことは難しい。

 ログイットはため息を一つ落とし、剣先を突きつけたまま言った。


「話は終わりか」

「自分の立場がよく分かっていないようだね。僕を殺したことで、この先、神殿の支配はさらに続くだろう。搾取され管理された歪な世界だ。……おかしな話だとは思わないか? 《神殿》が絶対的な強者であることができるのは、魔力の源泉を支配しているからだ。逆を言えば、それだけで《神殿》は八百年の停滞を築き上げたんだ」

「それだけで八百年の平穏が得られるなら、人類の大半は、それを歓迎するはずだ」


 口上めいたクランヘルムの演説を、ログイットはため息混じりに遮った。


「子供の頃から思っていたことがある。……悪い王様がいなければ、英雄は存在し得ない。《神殿》がある程度まともな支配を続けていく以上、貴方は所詮、異端者以外のものになることなどできない」


 神殿は圧制を敷いているわけではない。確かに世界のすべてをその力で支配しているが、建国当初のお題目は今も生きたままだ。

 戦争の抑制、差別の撤廃、貧困からの救済――管理者気取りだと非難したところで、大多数の人間がその支配を受け入れるやり方をしている。


 クランヘルムが目を眇めた。

 この状況でも表情筋が作用するのだから、まったくもって無駄な技術力だ。


「ああ、まいったな。これほどまでとは。君は完璧な――体制の犬だ」


 興味を失った冷ややかな目がログイットを見上げる。

 そろそろ、この悪夢も時間切れだろう。


「最後に一つだけ、君に呪いの言葉をあげよう。……彼女(リッテ)は君を許さない。自分自身を許せない。彼女はおそらく絶望の裡に沈むだろう。そう……他ならない、君の手によって」


 ログイットが息を詰める。

 憤りが腹の底を焼いたが、今度はもう、それを顔に出すことはしなかった。


「……そんなことにはさせない」

「うん? 何か、打つ手でも持っているのかな」

「貴方が心配する必要のないことだ」


 感情を殺したログイットの返答に、クランヘルムは薄く笑った。

 高窓から差し込む日は傾き、燃えるような赤い色へと変わっている。

 謳うような声が嘯いた。


「――そうか。ならば、一足先に地獄で待っているとしよう。

 再び相まみえる日が楽しみだ。君がこちらに来た暁には、思う存分、嘲弄してやろうじゃないか!」

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