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031

 場の空気が冷たく張りつめた。

 護衛役に残った警護官は契約通りにユラの意向を汲んで動きを見せなかったが、跳ね上がった警戒心が肌を刺すほどの密度になっている。

 うまく動かない唇をわななかせ、ユラは半ば無意識に、かぶりを振っていた。


「何を言って……」

「そんなにおかしなことかい?」

「私は、あなたを裏切ったのよ……?」

「構わないよ。何度でも裏切ればいい。僕は何度でも、君を許す」


 正気の沙汰ではない。

 クランヘルムは差し伸べた手を降ろさず、柔らかく微笑んでいた。

 ひどく甘く、いたわるような声だった。ぶれるような二重音声が鼓膜を揺さぶり、ユラに痛みを与えていく。


「わかっているよ。君がこの二年、どんな風に生きてきたのか。……後悔してはいけない、孤独だと思ってはいけない、間違ったことなどしていない。幸せになってはいけない。不幸でいてもいけない。そうやって――息を潜めるようにして生きてきた」

「っ……」

「そんな君にこそ、この先を見て欲しい」


 ユラは近づいてくるクランヘルムを呆然と見上げ、目の前に差し出された赦しの手に、顔を歪めた。


「この世界はあまりに歪だ。《神殿》は国々を支配し、発展を拒み、変化を抑制している。泥のような安寧ですべてを覆って、欺瞞と偽善で塗り固めている。そんなものは、正しい人間のあり方ではない。この強固な檻を壊すためには、それに見合う力が必要だ」

「……クランヘルム……」

「他の誰でもない、君に見せたいんだよ。僕が作り出す美しいものを。そして、その先にある新しい世界を」


 空中に舞う埃が細かく光を弾き、白い姿の現実感を失わせていた。

 終末の笛を吹く天使というものがもしいたのなら、きっとこんな形をしていた。

 その意味するものは一つ。《神殿》が世界を統治する前、魔工兵器の開発競争で滅びかけた、暗黒時代の再来だ。

 ユラは唇を結び、握りしめた拳を心臓に押し当てた。

 もとより、言葉で説得できるとは思っていなかった。まだ、無力感に苛まれるには早すぎる。


「……あなたにとって、私には、それだけの価値があるということ?」

「博士! いけません!」


 背後から、警護官がたまらず声を上げた。

 黒装束が床を蹴り、彼女に襲いかかる。体格では互角だ。応戦せざるをえなくなった警護官が、焦りを浮かべて再びユラを呼んだ。

 その声は確かに聞こえていた。けれど、それに答えることはできなかった。

 さしのべられた手はあの日と同じだ。何も変わってなどいない。精一杯の虚勢をかき集め、その手を取る。無機質めいたクランヘルムの顔が、深い笑みに染まった。


「そう。それでいい。この歪な世界を、僕は――」

「昔から」


 感情のない口上を遮った。胸の中に沈殿していく重いものが、そのまま声の苦さになった。


「昔から、そうだったわ。あなたはいつだって正しいことを言っていた。だから、誰もがあなたを信じていた。……だけど、私には……それが本音に聞こえたことは、一度だってなかったのよ」


 ひやりと冷たい風が頬を掠めた。

 これが夢などではなく、紛れもない現実なのだということを確かめるため、ユラは挑むように言葉を続けた。


「あなたは、単に《神殿》が嫌いなだけよ。自分が作りたいものを妨げるものを嫌って、取り除きたいと思っているだけ。……それが引き起こす結果なんてどうでもよくて、ただ自分の欲求をかなえたいだけ。崇高な理想なんてものは、あなたにとってただの道具でしかないわ」

「辛辣だね。以前は聞けなかった、君の本音かな」

「そうね。そうだった。……言ったって聞かないって思いこんで、結局、自分可愛さに口をつぐんでいたわ」


 けれど、もう逃げないと決めた。

 どうしても受け入れられないものがある。彼を止めたいと心から願っている。

 それならば、適当に受け流すのではなく、今度こそ言葉を尽くすべきだった。


「ねえ、クランヘルム。その新しい世界を作るために、一体、何人殺すつもりなの? ……数千人? 数万人? ……それとも、数百人に抑えてみせるって、そう言う?」


 クランヘルムは答えなかった。

 人の色ではあり得ない紅紫の目を眇め、静かにユラを見返す。


「でもそれって、ただの数字なんかじゃないわ。そのほとんどの人間は、あなたと関わり合いのない人たちよ。普通に生活して、日々働いて、家族を守って、仲間と笑い会って、誰かを愛してる。そんなささいな暮らしをしている人たち。……そういう人たちを踏みにじることが、必要な犠牲だなんて、言わないで。お願いだから」


 自分のものよりも大きな、節くれ立った男の手を両手で包む。

 祈るように額へ押し当て、強い決意を持って瞼を伏せた。


「それでも理想を捨てられないっていうなら――私が、忘れさせてあげる(、、、、、、、、)


 手の中に握り込んだ、三枚の葉と片皿天秤の徽章を中心に術式が展開した。

 二人を中心にして、構成が円筒状に広がる。懐かしい色合いの青だ。

 頭上を仰いでいたクランヘルムも、それに気づき、ゆるく目を眇めた。


「……《青い箱》と同じ色だ。構成にも相似点がある。……美しいな」


 媒介はユラの体内にある。術式だけで作り上げた青い籠は、相手を逃がさないためというよりも、外界から隠すためのものだ。

 外から声が上がったが知ったことではない。ここで、横やりを入れさせるわけにはいかない。

 ログイットがこの場にいるというなら尚更だ。彼は取引内容の遵守よりも、おそらくユラの身を優先する。


「『忘れさせる』か。……なるほど。脳の記憶領域を弄る作りだな。記憶も人格も知識も――すべてが白紙に戻る。ついでに言うなら、この状況では君も道連れだ。思い切ったものだね」

「……自分でも馬鹿だと思うわ。これくらいしか思いつかなかった」

「これで僕の動きを封じたつもりかい?」

「まさか。あなたは私と違って、本当の天才だもの。隠し玉はいくらでもあるでしょ。……だから、私にできることは、あなたにお願いすることくらい」


 体中が軋んでいる気がする。痛み止めの効果はとうに切れていた。

 苦痛を押し殺しながら、ユラはクランヘルムの目を見据えた。


「これまでの私を全部あげるわ。何もかもすべて。……だから、お願い。私を選んで」


 伸ばされた手がユラの頬をそっと撫ぜる。

 耳元で、二重音声がささやいた。


「――残念だよ、紅樒(リッテ)。君に、その手の自己犠牲は似合わない」


 ぶつんと物理的な音を聞いた。

 背中を突き飛ばすような衝撃が体内を走り、呼吸が止まる。声にならない声が喉の奥から押し出された。


「かはっ……!」


 目の前が霞んだ。

 何が起きたのか分からない。立っていられず床に頽れたユラは、鳩尾を押さえて、ひきつるような呼吸を繰り返した。

 先ほどまで確かに稼働していたはずの術式が分断されていた。ユラの胴は不思議とくっついたままだというのに、内部に仕込んでいたものだけが、完全にその構成を二分され、意味をなくしている。

 どうやって、と、疑問が先に立った。

 それが解消するより早く、後ろから腕を掴み上げられた。

 いつの間にか背後にいた黒装束が、力任せにユラを立たせる。苦痛に呻いたユラは、黒い布の向こうにあるのが仮面だということに気づいた。


グエル(、、、)。女性は丁重に扱うものだ」


 クランヘルムが告げた言葉に、ユラは大きく目を瞠った。

 呼吸が消えてしまったかと思うほど、思考が真っ白になった。


「グエル……?」


 働かない頭が記憶を呼び覚ます。

 特徴的な常緑樹の匂い。日溜まりと喧噪。

 それは、郷里の第六研究室で、犬猿の仲だった男の名だ。《神殿》の監視下にあるはずの男の名だ。

 姿は似ても似つかない。彼はもっと小柄で、おしゃべりで、感情をむき出しにする性質の人間だった。こんな人形のような男ではなかった。

 それなのに、確信してしまう。

 ここにいるのは、間違いなく、彼自身だと。


「……そんな。まさか……」

「そう。入れ物(、、、)は違うけれど、中身は間違いなくグエル・キヴァ・アンダートンだ。本体は神殿の監視下にあるが、こうして時間を有効活用しているというわけさ。面白いアイデアだろう?」

「人間の……死体を、使ったのね……?」

「その通り。魔工で神経系を再構築した。防腐加工をするだけでは運動の負荷に耐えられないから、金属で補強しているんだ。憧れの、鋼の身体を手に入れたというわけだよ」


 ユラの反応を愉しむように笑っていたクランヘルムは、ふと目を凝らすようにして首を捻った。

 黒装束の左腕が、無惨に肩から切り落とされていることに気づいたためだ。


「ん、片腕を持って行かれたか。……ずいぶん手練れがいるようだね」


 そう言って向けた視線の先では、ログイットが大剣を構えて立っていた。

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