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 その廃教会は、郊外に続く街道を少し外れた場所にあった。

 人目につくほど街中ではないが、向かうこと自体が目立つほど街外れでもない。人や物を運びこむのに適した潜伏場所だ。

 近くまで車で乗り付けての道のりだったが、鍛えていない上に体調不良を抱えるユラの身には堪えた。汗だくにも関わらず顔色は蒼白で、予定しない休憩を挟む羽目になったほどだ。

 明らかな足手まといだったが、ユラ以外の人間は誰一人として苛立ちを見せなかった。それどころか警護官の一人は、体格とは裏腹の女性らしい細やかさで布に水にと世話を焼いた。完全に、警護対象者としての丁重さだった。


 二十分程だと言われた道のりを一時間近くかけて歩ききり、たどり着いた信仰の廃墟は、赤煉瓦を所々欠けさせながらひっそりとその場に立っていた。

 慎重に罠の有無を確認しながら中へと足を踏み入れたが、いずれも解除されていた。


「……これも動いてないわね。歓迎されてると思っていいのかしら」


 小さく呟いたユラを、隊長がその場に留めた。


「奥で声がする」

「それって――」

「先客があるようだ」


 崩れた資材や砂で足場が悪い。

 息を詰めて中央広間に向かった。立ち並ぶ円柱は在りし日の姿を残しているが、木製のベンチはまるで折りたたまれたかのように潰れていた。高い窓から冬の陽光が差し込み、どこか退廃的な美しさを作り出している。

 近衛を連れた王と対峙する、白装束の人物は、淡い笑みを浮かべ、主人然としてその光景の中心に立っていた。


「どういうことだ、クランヘルム! 貴様、汚染指数は危険値を下回っていると言ったではないか!」


 白装束はゆったりと唇の端を釣り上げた。

 長い髪も、襟のついた長い外套も衣服も靴も、そして顔も、亡霊のような白さを持っている。笑みに細まるその目だけが、異様に鮮やかな本紫に染まっていた。

 後ろには数日前にユラのフラットを襲った黒装束が影のように立っている。日中でも、フードの奥の顔は見えず、不気味な存在感を放っていた。


「それを言ったのは僕ではないだろう? 国王陛下お抱えの魔工技師もどきが、お望みのとおりに出した数値だ。信頼するほうがどうかしている」

「貴様……! 予への恩を忘れたか、この逆賊めが!」

「おやおや。お望み通り、《傘》を破壊してみせたというのに……。良かったじゃないか、《神殿》の鼻はあかしてやれたはずだよ。歴史に名を残したことだろうね。……その末期がどうなるかは、僕の知るところではないが」


 悪意が滴り落ちるような嘲笑だった。

 音が回る違和感に、ユラは唇を結んだ。この距離でも不快感で耳が痛い。音が重なっているような、響き合っているような、奇妙な声だったが、そう感じているのはユラだけのようだ。

 様変わりしているクランヘルムの姿に、指先が冷たくなる。背筋をかけのぼる緊張をどうにか抑えこもうとしたとき、隊長が苦々しく吐き捨てた。


「馬鹿な……よりによって、王がここにいるなど……」


 ユラは怪訝に思って顔を上げた。支援者が国王である可能性は察知していたはずだが、それにしては焦りがある。

 聖壇の前では、近衛が剣を抜いていた。


「神をも畏れぬ狂人めが! 予を愚弄した罪、とくとその身に刻んでくれるわ!」


 王が吼える。クランヘルムは静かに微笑み、小首を傾げるようにして先を促した。


「短気なことだ」


 黒い影が動いた。金属が軋むような異音とともに、襲いかかる近衛の一人を跳ね飛ばす。

 人間ではありえない膂力で宙を飛んだ近衛が壁に叩きつけられるまでの間に、クランヘルムが無感動な笑みで右手を閃かせた。

 炎の柱が上がり、高い天井に絶叫が響き渡る。火を消そうともがく姿はあまりに異様で、戦意を凍りつかせるに足る不気味さだった。


「ば……化け物め……!」

「それは大層な呼び名だね。種も仕掛けもある、ただの手品さ。……火事を起こしてもいけないな。そろそろ消火しておくとしよう」


 次の瞬間には、黒焦げになった人間の氷像が床に転がっていた。

 人形めいた白皙の顔が、薄く笑う。


「さて、話の続きを聞こうか?」


 ――悪夢のような光景だった。

 止める間も、割って入る間もなかった。鳩尾に重苦しさを覚え、ユラは拳を押さえつけて吐き気を飲み込む。

 険しい顔で思索を巡らせていた部隊長が、短く息を吐いた。


「バレーノ博士、我々は王を保護する必要がある。手数を減らすことにはなるが……」

「……いい。構わないわ。気を引いてみる?」

「頼めるか。一班は私とともに、王の保護に当たれ。二班は本部に状況を報告。三班はバレーノ博士を援護。――状況はより困難だ、くれぐれも深追いするな」


 部下の面々が頷いて返す。

 一つ、深く息を吐いて、ユラは膝を伸ばした。

 半ば剥がれたタイルの上を歩き、真正面から姿を見せる。

 ユラに気づいたクランヘルムが、紫眼を笑みの形に緩めた。


「待っていたよ、僕の紅樒(リッテ)。久しぶりだね。変わりないようで、とても嬉しいよ」


 邪気のない声に、怯みそうになった。

 変わりない口調で、昨日別れたばかりのような笑顔だった。だが、変わっていないはずはない。魔素の影響だろう。虹彩も、髪も、記憶にあるものとは全く違う色をしている。一つに束ねた白い髪は、たった二年という歳月では考えられないほどの長さだ。

 しつこく請われて使うようになった馴れ馴れしい口調と呼び方をまだ使っていいものかが悩み所だ。

 不安と警戒感を掻き立てられながら、ユラは結局、昔どおりの憎まれ口で返した。


「……あなたは色々、変わったみたいね。ずいぶん真っ白になってるじゃない」

「そうなんだよ。魔素による影響は、加色混合のようなんだ。光と同じだね」


 思わず興味を惹かれたが、視界に入った氷漬けの死体に、状況を思い出した。

 そして、自分の立場も。

 大きく息を吐き、ユラはかつての上司を見据えた。


「結構なお呼び出しをもらったけど、来客中だったみたいね」

「ただの暇つぶしさ。すぐに終わらせるよ」

「お帰りいただければいいだけの話でしょう。……殺す必要なんてないじゃない」


 クランヘルムはゆったりと首を傾げたが、王の方へ翳した手を動かすことはなかった。


「思っていたよりも、大所帯で来たようだ」

「一人でくるほどの度胸はないわ。……私のしたことを考えれば、出会い頭に殺されても不思議はないもの」

「まさか。そんなことはしないよ」

 

 本心だろう。フラットの場所を突き止めておきながら、殺しもしなければ、浚いもしなかった。

 相手の考えを読み、逃げ道を塞いだ上で、自ら選ばせる――クランヘルムらしいやり方だ。

 床にへたりこんだ王のもとへ、隊長が駆け寄った。近衛の生き残りを助けて王を退かせようとするも、手勢が増えたのを見た王は譫言のように喚き始めた。


「陛下、ここは危険です。お下がりを!」

「何を言う、早く奴を殺せ! 見たであろう、このような化け物……野に放てば災厄となるぞ!」


 劣勢をものともしない発言に、ユラの顔から血の気が引いた。

 クランヘルムが、くつりと笑う。


「やれやれ。君の思いやりは、相変わらず報われない運命にあるようだ」

「やめて!」


 ユラが叫んだとき、鋭い金属音が響いた。

 再び出現した炎は、大きく狙いを外して空を舞う。外套を傷つけることさえできなかったナイフが、床に落ちた。クランヘルムがそれを見下ろし、無表情にバルコニーを仰ぐ。


「そこかな」


 今度は爪先を踏み鳴らす。二度目の音でバルコニーの中に破裂音が響いた。

 ユラは焦燥も露わに振り返った。


(ログイット……!)


 別働隊がいるとしたら、おそらく彼以外にない。もうもうと上がる土煙の中では、悲鳴が聞こえることも、姿を見つけることもできなかった。

 相手の隙を見極めた隊長が、有無を言わせずに王を聖堂から連れ出す。クランヘルムはそれを止めるそぶりもなく、バルコニーを眺めていたが、やがて無表情に呟いた。


「――手応えがない、か。逃げられてしまったかな」


 涼しい顔で言う姿に、ユラの背中が冷たくなる。

 かつてのクランヘルムは、自らの手で人を殺すような真似はしなかった。作り上げた禁術が夥しい数の死体を作ることは知っていても、大した感慨もなく人を殺せる人間ではなかった。

 この姿が、ユラの裏切りが引き起こした変化なのか。

 絶望感に、目眩がした。


「泣きそうだね、紅樒(リッテ)


 困ったような顔で、クランヘルムが言った。


「……誰が……」

「本当に変わらないな。君は昔から、意外と他人に甘いんだ」

「……こんなものを見せたくて、私を、呼んだの」

「まさか」


 差し出された手のひらを、信じられない思いで見つめた。

 愕然と目を瞠るユラに、クランヘルムは非現実的な笑みをゆったりと深めた。


「君を迎えに来たんだよ、僕の紅樒(リッテ)。もういい頃合いだろう。……そろそろ、僕の元へ帰っておいで」

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