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 朝日がすっかり昇ったころに目覚めたユラの一日は、まず吐き気を飲み込むところから始まった。

 胃どころか、喉元に違和感が残っている。睡眠不足で頭も痛い。強張った掌でのろのろと腹を押さえ、ベッドの上で丸くなった。

 とても動ける状況ではなかった。焦燥にかられながらも、ただ時間を浪費した。

 このまま眠ってしまいたかった。

 ただ、それが本末転倒だということも分かっていた。


(……駄目……こんなことしてる、場合じゃない……)


 のろのろと身支度を整え、化粧を整えて、部屋に備えられていた鏡の前に立つ。

 顔色の悪さは化粧でごまかせた。術式の影響を受けやすい頭髪や虹彩の色にも、そう大きな変化はない。

 一つ一つ確かめ、ユラはようやく胸を撫で下ろした。

 そっと部屋を出てキッチンに向かい、グラスを拝借して水を汲んだところで、テーブルの上の書き置きに気付いた。

 ログイットのものだろう。癖のない素直な字が、ユラの分もパイを焼いてあるので、よかったら食べてほしいと告げていた。


 食欲はなかったが、そのまま無視してしまうのも気が引ける。

 棚からパイを一切れもらい、行儀悪く立ったままそれに齧り付いた。林檎はコンポートでなく作り置きのジャムを使っているようだ。この辺りがログイットの言った「手抜き」なのだろう。

 味はよくわからないままで、美味しいのか不味いのかも判断ができなかった。

 予想通り、味覚も麻痺しているようだ。どうせなら、痛覚が鈍って欲しかった。

 そういえば、と、不意に思い出した。家主であるドクターはログイットの料理の腕を絶賛していた。男やもめの寂しい食卓だったとはいえ、あれほど褒めるからにはそれなりのものだったのだろう。

 ユラはそこまで感銘を受けた記憶がないが、思えば、スープを振る舞われたときも風邪っぴきで、味などろくにわからなかったのだ。そういう巡り合わせなのかもしれない。


 やがて家政婦の女性が家を訪れた。

 ログイットから話は聞いていたというが、見知らぬ部外者であるユラを見る目には、隠しきれない警戒心があった。

 お貴族様の邸宅に、どこの馬の骨ともしれない女がいるのだ。気持ちは十分に理解できる。

 夜更かしをしていたティティが、まだ眠っていることは幸いだった。早々に準備を終え、迎えの訪れを聞いて部屋を出る。

 子供部屋の扉の前で、ふと、足を止めた。

 今朝のログイットが、同じ行動を取っていたことを、思い出していた。


(……ああ、そうか……。こんな気分だったの)


 中に立ち入ることはできない。起こしてしまっては厄介だ。けれどその眠りが健やかなものであるかは気がかりで、祈るような思いも少しだけあった。

 扉にそっと手を触れ、ユラはそっと目を伏せた。


(ごめんね)


 迎えの人物は丁寧な物腰の女性警護官だった。要人を相手にすることに慣れている風情で、ユラにも押しつけがましさのないエスコートを見せ、順調にジルセス家を離れた。

 車はやがてシティの中心部に出たが、ひどくざわついていた。

 いつものことなのか、それとも何かの異常事態なのか、ユラには判別がつかない。どことなく落ち着かない空気を感じながら視線を巡らせていると、軍人らしき一向がそこかしこに見られた。

 軍服というのはわかりやすいシンボルだ。しかし、何よりもユラがまじまじと彼らを凝視してしまった理由は、その「乗り物」にある。


「……馬って……ずいぶん前時代的ね。久々にこんな数を見た気がするわ」

「軍では、まだ一般的な移動手段なのです」


 警護官が答えた。訝しげな態度がおかしかったのか、固かった表情が少しばかり、苦笑の形にほぐれていた。


「自動車の最高速度は馬の三分の一ほどです。平時ならば問題ありませんが、戦場では未だ使い物になりません」

「……ああ、そうか。速度ね……」


 妙に説得力のある口振りだった。警護官の前歴は警吏や軍人が多いらしいが、彼女は後者なのだろう。女性ながら線の細さはなく、鍛え抜かれた体躯はその辺の一般人など比較にならない立派なものだ。

 《神殿》が世界を統べるようになったこの八百年ほど、戦争が違法化されたことで、各国軍の戦闘経験は無きに等しくなっている。最も直近の戦争は、他ならぬガルフォールトが起こしたものだ。継承者を失ったセレズ公国の継承権をユグノアと争ったものだが、当然のごとく《神殿》が介入し、ガルフォールトは何一つ得ることなく終わったという。この国が禁術に手を染めた遠因だ。王は議会に背いても、セレズが諦められないらしい。


「どうしてこんな、やたらに軍人がうろついてるのかしら」

「世情不安に対する示威行動ではないでしょうか。……正確なところははかりかねますが、昨今の陛下のご意向からは、そのように推測されます」

「……なるほど」


 いよいよ末期といった様相だ。ユラはため息を吐き、立派な軍服姿の兵士たちから目を逸らした。

 たどり着いたのはごくありふれた共同住宅だった。新しくはないが、古びてもいない。中心街に近く、便利な立地で、隣人の姿も知らないような生活をしている住民が多いという。まるで列車強盗の打ち合わせだと、妙な連想をしてしまった。

 隊長格の男は、ニッツフェンの警護官の一人だった。他の面々も大体同じであるようだ。当の本人の護衛は誰がやっているのだろうと、内心首を捻りながら握手に応じた。


「指揮官のディトーだ。ご協力いただき感謝する、バレーノ博士」

「どうも」


 作戦内容はすでに打ち合わせを済ませている様子だった。ユラがいては話しにくい内容もあったのだろう。十名足らずの人員を見渡したユラに、隊長が重々しく口を開いた。


「博士から提供のあった場所を調査した。廃棄された古い教会だ。現在は国有地となっているが、再利用計画が頓挫して解体されていない。人の出入りの痕跡も確認された。図面上は地下があるので、そちらを改装して利用している可能性が高い。ここが潜伏場所と見て間違いないだろう」

「廃教会……」

「何か?」

「いいえ、それらしいと思っただけ。良かったわ。あながち罠でもなさそう」


 クランヘルムの行動原理はその雄弁さとは裏腹に、いつもたった一つだ。宗教嫌いというそれに尽きる。

 肩をすくめたユラに納得したかどうかは知らないが、隊長は言葉少なに同意した。


「作戦は十五時に開始する。目的は、第一に、クランヘルム・ゼスト・アーネルとの交渉。第二に、交渉が決裂した場合の身柄確保。可能な範囲で交戦を避ける。それで構わないな」

「ええ。……後は、そうね。一応、術式の解説でもしておきましょうか」

「術式?」

「そうよ。こういうの」


 ユラは甲を上にして両手を差しだした。爪に乗った白い色を見て、男は眉を寄せる。


「これが、何だ?」

「加工した魔素を塗ってるの。効果は神経毒」

「……魔工の軍事利用は禁じられているはずだが」

「軍事利用はね。私は軍人じゃないもの。ただの護身用よ、死ぬほど痛いけど死なないし。まあ、要するに何が言いたいかっていうと、あっちは法を守る気なんて全くないってこと。神殿が禁術の使用を抑制しようにも、国や軍じゃないから効力がないもの。大所帯じゃないなら、なおさら、相手は魔工に頼ってくると思う。普通の戦争じゃありえないから、予想していないと対応が難しいでしょうね」

「具体的には?」

「例えば、出入り口に熱線を発生させれば、トラップにもなるし警報にもなる。毒物や電撃でも有効ね。火を噴く、氷の矢を降らせる、刃物を飛ばす……準備期間がある以上、制限はないも同然ね。おとぎ話の魔法使いができることは、大体できるんじゃないかしら」

「……とんでもないな」


 男が初めて表情を動かした。ほんのわずかな変化だったが、想像するだに厄介だと感じたのだろう。


「わざわざ呼び出した以上、端から殺しにかかってくるなんて非合理的なことはしないと思いたいわ」

「……こちらの動きを予想しているとすれば、楽観視はできんな」

「罠については、注意深く観察すれば魔工の痕跡が見つかるはずよ。人間が頻繁に出入りしているなら、解除条件は複雑にできないはず。その場で解析するわ。……でも、対面での攻撃だとそうはいかない。戦闘にならないのが理想的ね」

「交戦した場合、付け入る隙はどこだと考える」

「……おとぎ話と違うのは、スイッチとコントロールが必要だってこと。脳内のイメージで操作するなんて真似は現実的じゃないわ」

「つまり、動作や音声が必要になるということか。実質はただの飛び道具に過ぎん」

「そういうこと。まあ、目に見えない分、厄介なのは変わらないけど」


 人間は機械と異なり、計算通りに緻密な動作を行うことはできない。宙にまっすぐ線を引いたつもりでも、その線には歪みや角度のズレが含まれる。たとえ1ミリのズレでも、実際に現れるズレは大きなものだ。

 前提知識さえ持っていれば、対応は不可能ではない。


「ログイットはこの件を知っているか?」


 予想外の名前が出たので、ユラは訝しげに眉根を寄せた。


「……話した記憶はあるわ。それが何?」

「後ほど我々に合流する予定だ」

「ちょっと待ってよ、打ち合わせなしで大丈夫なの?」

「別の作戦行動につく予定なので、問題はない。腕は確かだ」


 そんなことを問題にしているわけではない。

 ユラは釈然としない思いで頭を振ったが、男は意見を受け入れる様子を見せず、廃教会の図面に目を戻した。


「面積や痕跡から見て、潜伏人数は多くとも十人ほどだろう。その飛び道具が提供されているとすれば、厄介だが……」

「それはないと思うわ。クランヘルムが、ガルフォールト王を信用しているとは思えない。ただの潜伏場所で雇い主ってところでしょ。……敵対しても構わないと思っていなければ、《傘》をこんな形で解体したりはしないわ」


 ユラの言葉に、重々しい空気が漂った。

 《神殿》に追われる身である以上、安全な拠点と資金源は非常に重要だ。

 それを投げ出すということは、ガルフォールトの利用価値に見切りをつけたということでもある。


「……既に、新たな支援者を得ている可能性が高いな」

「だから、ここで止める。絶対に、次には行かせない」


 彼が望んでいるものは、戦争ではなく、禁術をもって《神殿》を壊滅させることだ。

 暗黒時代が遠い歴史となって久しい。滅亡がないかわりに大きな繁栄もありえない、支配が行き届いた安寧の時代を破壊し、覇権を望む国家にとって、クランヘルムの技術は大きな魅力を持つだろう。――彼らはその過程で引き起こす惨事を、必要な犠牲だと嘯くのだ。

 指揮官の目を真っ直ぐに見据え、ユラはもう一度、はっきりと告げた。


「止めてみせるわ。だから、手を貸して」

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