027
夜明け前のシティをくぐり抜け、人目を忍んで案内された部屋は、ログイットに違和感を覚えさせた。
広い部屋だった。殺風景ではあるものの、内装は王城の一室らしい広さと重厚な雰囲気を持っている。牢代わりにはとても見えない。この部屋に幽閉された仮初めの主が、あまりにも平然としていることも一因だろうか。
早朝の薄明かりの中、ランプの灯りだけで資料を読んでいた兄は、まるで自分の執務室にいるかのような自然さで顔を上げた。
「戻ったか。ログイット」
尖りのない声に、ログイットははっとして足を進めた。
顔立ちこそ似た兄弟だが、二人が人に与える印象には大いに差がある。兄であるヒューズは存在感の強い男だった。目立つことをするわけではないが、不思議と人の目を引くのだ。
「負傷したと聞いたが、その様子なら問題はないようだな」
「ああ。……すぐに手当を受けられたから」
ログイットは無意識に、傷の塞がった腹を押さえた。
傷の応急処置は、教会側の手によるものだ。
直接口には出さなかったが、ヒューズは既に把握しているようだった。鷹揚に頷くのを見てログイットはそのことを察し、苦いが沸き上がるのを感じた。
「……ごめん、兄さん。俺のせいで、こんな……」
「ログイット」
強い口調の呼びかけが、謝罪の先を奪った。
「お前は、自分の選択を悔やんでいるのか? その程度の覚悟で命令に背いたのか」
ぐっと唇を結び、ログイットは視線を落とした。
喉を握り潰されたような圧迫感に、視界がぐらりと揺れた気がした。
兄をこんな苦境に追い込んでしまうことを、考えもしなかったとは言えない。引き起こしてしまった結果を悔いていないとは言えない。
それでも、脳裏を過ぎったいくつもの姿が、萎縮で丸まりそうなログイットの背中を支えた。
「……子どもが、いたんだ。ティティと変わらないような年齢の子どもが、大勢」
あの常闇の街にありながら、教会で暮らす子どもたちは、型にはまった行儀よさがなく、誰もが表情豊かだった。ほとんどは小生意気で好奇心旺盛で、年若いログイットはよくいたずらの標的にされた。大人しそうな女の子でさえ自分の意見を飲み込まず、ひねくれたことを言う男の子でさえ自分の未来を信じていた。
そんな子どもたちを育ててきた大人が、悪い人間であるはずがない。そう思わせるほどに伸びやかだった。たとえそれが計算によるもので、ログイットが見事に騙されていたのだとしても――あの笑顔だけは信じていられた。
「考えが足りなかったことは、正直、後悔してる。それでも俺は……間違ったことをしたとは、思っていない」
「ならばいい。軽々しく自分の決意を否定するな」
上司にどれだけ訴えても聞き入れられなかった感覚を、兄はあっさりと受け入れた。
今回の件でもっとも被害を受けたのは他ならぬ兄自身だ。
困惑して立ちつくすログイットに、ヒューズは淡々と言った。
「よく見ろ。俺が悲嘆に暮れているように見えるか? 思っていたよりも好待遇で、拍子抜けしただろう」
笑えない冗談を淡々と言うので、ログイットは表情に困った。
「いや……拘束されたって聞いてたから、こう、牢屋みたいなところに入れられてるのかとは思ってたけど……」
「拘束ではなく軟禁だ。零落しようが、一応は貴族の端くれだからな。証拠もないうちから粗略に扱えば、貴族層の反発を買う」
ログイットは改めて実感した。己の貴族層としての自覚不足は、間違いなくこの兄の影響だと。
実におかしな話だった。ヒューズはログイットと違い、十にもならない頃から本家に養子として迎え入れられたのだ。多感な少年期のことである。それにも関わらず、兄には少年の頃から、自分の立場や状況をひどく客観的に捉えるところがあった。
愛想はないがひねくれてはおらず、口数が少ないわけでもない。まるで他人事のような冷静さが面白かったのか、兄の周りには妙に人が集まった。
そのうちの一人が、ガルフォールトの今は亡き第一王子だ。
彼の信頼を得たこともあり、兄はいつの間にか淡々とした顔で軍の事務方の重要ポストに上り詰めていた。ログイットにとっては仰ぎ見るような存在だ。
一身にジルセス家のややこしい厄介さを背負い続けてくれた兄は、かけがえのない家族であると同時に、決して越えることのできない壁でもあった。
手にしていた冊子を机に戻し、ヒューズは至極真面目な顔で続けた。
「個人の感想を言うなら、活字とコーヒーがあれば、場所は問題にならない。元来、俺は怠惰な人間だ。引きこもって面倒が起きないならそうしたいと常に考えている」
「……兄さん、その言い方だと、ニッツが聞いたら怒鳴ると思う」
「同感だ。あいつは何故ああも几帳面なのか、理解に苦しむ。幼少の砌から誰に対しても小言係だった」
本人が聞けば血管の一本も切れそうなことを言い、ヒューズはほとんど空になったカップを揺らした。
資料の表題は「公園整備計画の歴史的推移」。相変わらずの乱読家であるようだ。
「ところで――セシロトにいた技師を、家に置いているようだな」
唐突に話が変わり、ログイットはわずかに息を詰めた。
無意識の警戒が目に浮かぶ。
「……それもニッツから?」
「言っただろう、あいつは几帳面だ」
「取引の内容も――」
「強引な手ではあるが、悪くはない。博士の望みはクランヘルム王子の生存だ。その点において我々と利害が対立することはない。一つ問題があるとすれば、お前だ。ログイット」
「俺?」
「お前はどうしたい」
ログイットは目を伏せた。
あのとき感じた、鳩尾が重くなるような感覚と、どろりとした暗い感情を思い出していた。
「俺は……彼女を、守りたいと思っている」
口にした言葉は嘘ではなく、だが、上滑りしているように感じた。
ヒューズは真意を推し量るような目でログイットを見据えた。
ひどく長い沈黙に思えたが、実際には数十秒ほどの時間だったのだろう。
ふと、ヒューズが窓を仰いだ。
「……夜が明けるな」
虚を突かれて顔を向けると、白んだ空に太陽の色が見えた。
冬のシティが、遅い朝を迎えようとしていた。
「そろそろ頃合いだ。この先の予定はすべてニッツフェンに伝えてある。あいつの指示に従え」
「……わかった。全力を尽くすよ」
きびすを返したログイットを、ヒューズは温度のない声で呼び止めた。
「ログイット。現状、この国がお前に与えてやれる自由は多くない。……いざというときの覚悟は決めておけ」
どちらの覚悟かは、言及しなかった。
ログイットが頷いて返し、部屋を出る。
残された男の細いため息は、誰にも聞かれることはなく、朝日の気配に消えていった。
兄弟に気を使って同席しなかったニッツフェンは、ログイットの顔を見るなり、しごく不機嫌な顔のまま「遅い」と一言投げてよこした。
「すまない、ニッツ。無理を言った」
「……話はできたか」
「ああ」
ニッツフェンは何か言いたげに眉値を寄せたが、時計を見ると、ため息とともにきびすを返した。
「言っていた通り、午前中は代議院の公聴会だ。この度の王の暴挙について、お前の証言が必要になる。時間ぎりぎりまで想定問答だ」
「わかった。最善を尽くすよ」
「……まあ、今回は神経を尖らせることはないだろう。炎に薪をくべてやるだけだ」
不穏な言葉だったが、ログイットは反駁せず頷いた。
王との対立はもはや避けられない。ログイットが公に姿を見せることが兄の不利になる懸念はあったが、彼らはあえてそれを選んだ。攻撃に打って出るということだ。ログイットにできるのは、せめて与えられた役割を忠実に果たすことだけだった。
ログイットの顔を確かめ、ニッツフェンは先を続けた。
「……例の特別作戦班の行動開始時刻は一五時だ。部隊編成には入れていないが、お前がその気なら、バレーノ博士の護衛役として、同行を認めるよう言ってある」
「ありがとう。そうさせてもらう」
ログイットの泰然とした様子に、ニッツフェンが眉を顰めた。
不明瞭な違和感があった。
「そういえば、ニッツ。公聴会の件もそうだけど、情報局の査問も受けないうちから、他機関の作戦に参加して問題にならないか?」
「情報局とは調整済みだ。……じき、それどころではなくなる」
「わかった、任せるよ」
ニッツフェンが急に足を止めた。
つられるように立ち止まったログイットの胸に指を突きつけ、険しい表情にふさわしい低さでささやく。
「いいか、ログイット。何としてもバレーノ博士を守れ。決して死なせるな。彼女の証言こそがガルフォールトの切り札だ。万一、彼女がクランヘルム王子につくようなことがあろうとも、必ず、生きたまま奪い返せ」
その警告は、まるで、迷いをねじ伏せようとするかのような響きを持っていた。
威嚇に似た声にもログイットは戸惑いを見せず、目を伏せるようにして頷いた。
「……ああ。そのつもりだ」




