026
ジルセス家は閑静な住宅街にあった。緑豊かな町並みは美しく、治安のよさを見て取ることができたが、高級住宅街といった格式高い雰囲気ではない。
到着を告げられて、ユラは意外に思いながらその家を見上げた。
緑の屋根とオフホワイトの壁をもつ、ごく一般的な家屋だった。
「ずいぶんコンパクトなお宅ね……」
「そうか? これでも掃除が結構大変なんだけど」
「お貴族様の邸宅には見えないって意味よ」
「ああ、そういう意味か」
ログイットは納得したような苦笑を見せ、よく手入れされた門を開けた。
「もともと分家の生まれだし、本家も借金だらけだったから。貴族って言われてもいまいち実感がわかないな」
「……あの子はいかにもいいとこのお嬢さんって感じだけど」
「だったら嬉しいよ」
純粋に喜んでいるような口振りに、ユラが首を傾げる。
ニッツフェンに引き留められていたティティが、ぱたぱたと小走りに駆け寄ってきた。
「ニッツは何だって?」
「『はしゃぎすぎて、ねつをださないように』ですって。しつれいしちゃう。そんなにコドモじゃないわ」
「十分小さいじゃないか」
「もう、ロギー君まで! レディーにしつれいだわ!」
ぷうっと頬を膨らませ、ティティはユラの手を引く。
渋面でそれを見送ったニッツフェンが、ログイットに真顔のまま釘を差した。
「ログイット、今日は十分に休養を取っておけ。いいな」
「え? ……ああ、わかった」
ログイットが不思議そうな顔でうなずく。ユラだけが揶揄に気づき、ログイットの足を踏みつけたくなった。
締め切った家屋は、こもった空気の匂いがした。ランプをつけ、手分けして窓を開けて回る。憲兵に踏み込まれたという話だったが、特に家の中を荒らされた様子はなかった。
ただ一カ所、家主の書斎を除いては。
扉を開け、顔を曇らせたログイットに、ユラは気付かない振りで声を掛けた。
「キッチン借りるわね。夕食ができたら呼ぶから」
「いや、お客さんにそんなこと……」
「ティティがお腹を空かせてるのよ。それとも何? 他人にキッチンを使って欲しくないってこと?」
「そうじゃないけど」
「だったらいいでしょ。……そんな顔見たら、あの子が心配するわよ」
ログイットは頬に手を当てた。自覚はないが、そんなにひどい顔をしているだろうか。
ユラは返事を求めず、肩をすくめて階段を下りていく。
気を遣われたのだと気付いたときには、もう声を掛けそびれてしまっていた。わずかな違和感が胸の中にわだかまって沈んでいく。どれだけ上の空だったのかを実感し、ログイットは苦い息を吐いた。
記憶にある兄の書斎は、置かれている物に統一性がなく、妙に雑多で、そのくせ整頓された印象の部屋だった。淡泊で几帳面な性質がそのまま表れているような場所だった。そして今、保たれていたバランスは無惨に崩されて、単なる混沌だけが残っている。
本棚からは全て本が取り除かれ、その大半が持ち出されているようだった。重厚だがシンプルな机も引き出しが開け放しになっている。カーペットもひっくり返り、写真を外された写真立てが写真をかぶせた状態で無造作に重ねられていた。
部屋の様子をゆっくりと確かめ、ログイットは目を伏せて拳を握りしめた。
自分が犯した失敗が、他人に土足で踏み入れるような真似を許したのだ。ティティが怒るのも無理はない。――本来ならば、兄はもっと酷い扱いをされていてもおかしくない筈だ。捜索が目的なら、それこそ壁紙を剥がさないばかりの勢いで、もっと徹底的に調べ上げただろう。嫌がらせが目的であった場合も同じ事だ。それを考えると、この部屋の様子はいかにもおざなりで、どこか中途半端だった。
床に積まれた本を拾い上げ、本棚に戻していく。残されているのは図鑑や児童向けの冒険書、料理本など、兄の仕事にも、外見にも、陰謀めいた話にもまったく結びつかないようなものばかりだ。小難しい戦術論や技術書に混ざっていたそれらを見た憲兵の顔を想像して、少しだけ笑った。
心の整理をつけながら一通りの片付けを終えると、ティティがログイットに笑顔を見せた。
「ロギー君、いいタイミングだわ! よびにいこうとしてたの」
「そうか。ごめん、ユラ、手伝えなくて」
「別にいいわよ。味の保証はしないけど」
借り物のエプロンを外しながら、ユラは肩をすくめた。
その言葉とは裏腹に、テーブルに並んだ料理は食欲をそそるものだった。湯気を立てる大皿のグラタンと飴色のスープ、庭のハーブで作った簡単なサラダに炙ったパン。あまり家庭的なイメージのなかったユラがこれを作ったのだと思うと、どうしても意外に感じてしまう。
この三人でテーブルを囲むというのも、なんだか不思議な気分だ。
くすぐったいような感覚が腹の底をくすぐるようで、ログイットは緩みそうになった口元を引き結んだ。
「いただきます!」
「あわてて食べないのよ。火傷するから」
「はあい」
ここのところこまっしゃくれてきたティティが、ユラの言うことには素直に頷く。微笑ましい光景を何となく複雑な気持ちで眺めながら、ログイットは取り分けられたグラタンを口に運んだ。
マッシュポテトに絡んだホワイトソースから、香辛料の風味が広がってくる。優しい塩加減にチーズの味わいが重なって、意識しないうちに感想がこぼれ出た。
「うまいな」
「ほんとね、すっごくおいしい!」
手放しの賛辞を受け、ユラが照れくささをごまかすような顔で横を向いた。
「おだてたって何も出ないわよ」
「いや、お世辞じゃなくて。本当にうまいよ」
「ねえねえロギー君、ユラすごいのよ。おりょうりね、ぜーんぶ、きっちりはかってるの!」
「へえ、そうなのか? すごいな」
「ね!」
ログイットが首を傾げるのを見て、ユラは目を眇めた。
「……ねえ。何か意外そうな口調に聞こえるんだけど」
「そういうわけじゃ」
「じゃあ何? はっきり言いなさいよ」
「……いや、台所があんまり使われていなさそうだったから、あんまり料理はしないんだろうと思ってて……」
提示されたのが印象ではなく根拠だったので、ユラはぐっと言葉に詰まった。
「面倒なだけで、できないわけじゃないわ」
「……そういえば、やたら色々とスケールがあったな……。ああ、だから『面倒』なのか」
「うるさいわね、だって適量とか少々とか嫌いなのよ! 味が変わるんだもの!」
怒るユラを宥めながら、ログイットはキッチンの様子を思い返した。
普通の皿形質量計にとどまらず、メジャーカップやスプーンスケール、果てはメスシリンダーに温度計まで。店でも開けそうな充実の品揃えだ。
魔工構成の課程で使うのだろうかと思っていたのだが、よく考えてみればあんなところで金属粉や硫化物質を計っていたら大変だ。この反応を見ても、どうやら料理に使っていたらしい。もはや調理と言うより調合の印象だ。
「もうちょっと適当でもいいんじゃないか? 手の抜き方を覚えれば、料理ってそんなに面倒でもないと思うんだが」
「別にこれで困ってないわ」
「出来合いばっかりじゃ栄養が偏る。ドクターも心配してた」
「大きなお世話よ。子どもじゃないんだから」
「でも、風邪を引いてたじゃないか」
「あれは……! 誰かさんを運ぶなんて重労働をやったから、疲れて湯冷めしただけよ!」
「えっ、そうなのか? ごめん!」
ぽんぽんと投げ合うようなやりとりにティティは目を丸くしていたが、ログイットがあわてて謝るに至って、鈴を振るような声で笑い出した。
「やだもう、おかしい。こういうの、ふうふげんかっていうんでしょ?」
「なっ……ティティ!?」
「やめてよ、夫婦とか! いつそんなものになったの!」
真っ赤になりつつもきっぱりしたユラの否定に、ログイットがショックを受けたような顔を見せて、ティティをさらに笑わせた。
賑やかな食事は、ユラにほのかな感傷を覚えさせた。
もう遠い昔のことのようだ。ただの昼食会がほとんど宴会の様相を呈してしまうのは、もっぱら酒好き一人のせいだったが、責任者である王子がそれを許すのだからどうしようもない。一度始まってしまえば、その日はもう仕事にならなかった。
こんな風に思い出してしまうのは、きっと馴れ合いすぎたせいだ。
だとしたら、今日のことも――いつか、鈍い痛みになるのだろうか。
「ユラ?」
呼びかけにはっとして、ユラは目を瞬いた。
食事はとうに終わり、ソファに座ったユラの隣で、ティティが不思議そうに小首を傾げていた。
随分と上の空になっていた気がする。
ログイットが片付けを申し出たことは、うっすらと覚えていた。
細く息を吐き、ユラはティティと目を合わせた。
「ごめん。ぼんやりしてたわ。何?」
「あのね、いっしょにおふろにはいりましょ!」
水場から、ログイットが皿を滑らせた音がした。
どうやら割れなかったようだ。
ユラはため息をつくと、眉間を押さえ、きっぱりと答えた。
「『ちっちゃな子どもじゃない』んでしょ。一人で入りなさい」
「えぇー……」
「甘えすぎ。駄々こねても聞かないわよ」
口をとがらせたティティは、いかにも不満げだ。
どこでこんなに懐かれることになったのか、ユラにはさっぱり分からなかった。煩わしいとは思わないが、なんとなく、こんな状況は自分に相容れないもののような気がしてならないのだ。
「わがまま言わないで、早く寝なさいよ。疲れてるんだから夜更かししないの」
「だって、まだねむくないもの」
「あのねえ……」
ユラはため息を落とし、くしゃくしゃとティティの頭を撫でた。
妥協案としてティティが寝付くまで添い寝することになったのだが、その日のティティの入浴はまさに烏の行水だった。思わず小言を言ったログイットが、聞こえないふりをされて消沈したのは言うまでもない。ジルセス家の小さなお姫様は、どうやらいくぶん早い反抗期を迎えてしまったようだった。
ログイットとの馴れ初めを聞きたがるティティの問いかけを受け流しながら、ユラは少女のとりとめない話に付き合った。
幼い子どもの話題は、思い出話ではなく、もっぱら最近のことばかりだ。友達のこと、通いの家庭教師のこと、近所の老夫婦が飼っている犬のこと、料理を覚えたいと思っていること。くるくると変わる話題についていくのに精一杯で、素っ気ない相槌ばかり打っていた気がする。気がついたときには、しゃべり疲れたティティが、船をこぎ始めていた。
「ほら、もう眠いんでしょ。明かり消すわよ」
「……やだ。ねむくないもの……」
とてもそうとは思えない。
苦笑いを滲ませて、ユラは小首を傾げた。
「まったく。……変な子ね。何がそんなに気に入ったんだか」
眠たげな目をゆったりとしばたきながら、ティティはぼんやりと答えた。
「ユラは……うそを、つかないもの」
「……え?」
「わたしがこどもでも、あまやかしたりしないもの。ごまかさないで……ほんとうのこと、おしえてくれるから……」
納得するとともに、ユラの胸には複雑な気持ちが生まれる。
そっとため息を押し殺し、眠たげな少女の髪を撫でた。
「やっぱり子どもね」
「……むー……どうして? どういうところが、こどもなの?」
「言葉をそのままにしか受け取れないところよ。……大事な人には、危ない目に遭って欲しくないから、どうしても色々と考えてしまうの。下手なことは言えないわ。私が言うことって、結局のところ、無責任で勝手なことなのよ」
ユラの言葉の意味をうまく掴めないまま、ティティはきゅっと眉根を寄せた。
「……ユラは、わたしのこと、すきじゃない?」
「馬鹿ね。だったら、ここにいないわ。私はそこまで優しくないわよ」
「……だって、こわいの」
「こわい?」
「ユラ、どこかに行っちゃいそうだから……」
泣き出しそうな声の震えに、ユラは声を呑みこんだ。
傍にいるとは言えなかった。幼い子どもが相手でも、だからこそ、無責任な約束を口にすることはできなかった。
「……まったく。心配性は血筋なのかもね」
「だって」
「早く寝ちゃいなさい。悪い夢は見ないわ。何も、心配なんていらないの」
一歩一歩階段を下りながら、ユラは細く息を吐いた。
どうにも自分らしくない。引きずられているような気がして落ち着かない。
原因は何だろう。感傷か、好意か、それとも代償行為か――どれであっても素直に認められる気はしなかった。
明かりがついたキッチンに足を向けると、ログイットが腕まくりを戻しながら訊ねてきた。
「ティティは寝た?」
「ええ」
「ありがとう。助かったよ」
ほっとしたようなログイットの言葉に、ユラは頷くことで答えた。
キッチンには甘い香りが漂っていた。
「今まで片付けてたの?」
「いや、ティティのご機嫌取りにパイを焼いてた」
「……呆れた。しっかり休めって言われてたくせに」
「はは。だから、だいぶ手抜きなんだけど」
ログイットは苦笑して頬を掻いた。
ユラが返事を飲み込んだことで、沈黙が生まれる。ティティという潤滑剤がなくなると、とたんに、空気がぎこちないものになった。
どこかが噛み合っていないような、お互いに探りあっているような感覚で、不安が生まれる。
距離を詰めたいのか、それとも安全圏にいたいのか、自分自身にもわからなかった。
「……結局、巻き込んだのは、私の方だったわね」
「俺は、巻き込まれたとは思ってないよ」
「ありがとう。あなたたちには感謝してる。こんなに、落ち着いていられるなんて思わなかった。……明日じゃ言えないかもしれないから」
「ユラ……」
「それだけ、言っておきたかったの。おやすみなさい」
淡い微笑みを残し、ユラは客間に足を向けた。
部屋の鍵を掛け、上着の内ポケットから襲撃者の残留物を取り出す。つるりとした透明な石の表面に刻まれた、三枚の葉と片皿天秤の紋様が――否応なしに過去へと引き戻す形象が、わずかな熱を放っていた。
どこまでがクランヘルムの計算のうちなのだろう。
これは、裏切りになるのだろうか。
(……どっちだって、やることには変わりないけど)
重苦しさを振り切るように顔を上げ、この家に持ち込んだ荷物を開いた。布のバッグではなく、大きな銀色のスーツケースの方だ。整頓して詰め込んだ試験管ケースの中から手際よく順番に魔素を取り出し、術式を構築していく。設計図は既に頭の中で完成していた。
分断された術式の構成はいくら押さえても増大する。合計十八個にも及ぶ黒いガラス質の球体を作り上げる頃には、物音もしないほど夜が更けていた。
知らず緊張に詰めていた息を大きく吐き出すと、誘導用の術式をまず手に取った。
顎を伝って落ちた汗が、硝子玉の表面に滴る。水を汲むことを思い出して、膝を叱咤しながら立ち上がった。
完全な固形物を飲み込むのは、予想していた以上に難儀な作業だった。
三十分ほどかけて十八個すべてを嚥下し、眦に滲んだ涙をぞんざいに拭う。疲れ切って、閉じたスーツケースに覆い被さった。
瞼の奥に、意味を持たない構成式が残像のように浮かんだ。夢現の意識がそれをなぞる。なぜだか、いつか見た、古い禁術のことを思い出した。
――僕は、こういうものを作りたいんだよ。
あのときのクランヘルムは、どんな声音で紡いだのだったか。純粋とは言えない憧憬か、それとも野心を滲ませていたのか。道を決めさせた言葉だったというのに、もう思い出せない。
――世界を変えるんだ。他でもない、僕たちの手で。
重い体を叱咤しながら起き上がると、どうにか靴を放ってベッドに倒れ込んだ。
身体の節々が熱を持って、軋んだ音を立てているような気がする。
こみ上げてきた嘔吐感に、ユラは口元を押さえた。
吐き出したところで術式は出てこない。設計図通りに細胞へ展開された術式を構成する魔素は、そのほとんどが重金属だ。無害化の術式と組み合わせているとはいえ、後遺症が出ないかどうかは賭に近い。
胎児のように身を丸めて、ユラはひたすら苦痛に耐えた。
とても眠れそうにはなかったが、それでも多少眠りに落ちていたらしい。明け方ごろ、扉の前に人の気配を感じて、意識が浮上した。
ノックはなかった。
しばらく立ち止まっていた足音が、やがてはっきりとした目的を伴って遠ざかっていく。
丸くなるように身を屈め、枕に顔を深く埋めた。
夢は、見なかった。




