024
ガンプリシオの都市規模では、保安体制のしっかりしたホテルなどそう多くはない。
両者の宿泊場所は新館と本館の違いだけで、こんなに近くにいたのかとニッツフェンに渋い顔をされた。
五年ぶりにガンプリシオの街に浮かんだ月は、くっきりと丸く、鮮明な暈がかかっていた。
シティへの出発は明日の朝に決まった。時刻は既に夜半近く、行き交う人の数はごく少ない。それでもざわつくような不安感が漂っているように思えたのは、この街が抱く、先行きへの不安によるものだろうか。
ユラの護衛役として選ばれたのは、ログイットと年嵩の警護官だった。
自分で運ぶつもりだった荷物も取り上げられてしまったので、どうにも手持ち無沙汰だ。極めつけには沈黙が、手のうちようがないほど気詰まりなものになっていた。
往路はこれでも話しかけてみたのだ。だが、警護官は恐ろしく慇懃無礼でとりつく島がなかった。さらにひどいのはログイットだ。生返事ばかりで会話にならない。ろくに目を合わせようとしない。だというのに物言いたげな視線を送ってくる。ただでさえ堪え性のないユラは早々に匙を投げ、復路は往路にまして、ぴりぴりした無言のものとなっていた。
新しく取った部屋は本館の最上階だった。警備上の都合だろう、ニッツフェンたちが使っている部屋のすぐそこだ。
荷物を運び込み、部屋を後にしようとしたログイットの腕を掴み取り、ユラは警護官にお仕着せの笑顔を向けた。
「この人、ちょっと借りるわ。いいわよね?」
警護官は無表情のままユラを見たが、止めはしなかった。
困惑するログイットを奥の部屋に押し込む。凭れる形で扉を塞ぐと、ユラは腕を組んで眦をきつくした。
「さっきから何なのよ、その態度。言いたいことがあるなら言えばいいじゃない」
「……いや……」
「どうせ、危険だからやめろってお小言でしょ」
ログイットが息を詰め、虚を突かれたように眸を揺らした。
不可解な動揺だった。まるで、言われるまで思いもしなかったというような。
ユラは眉をひそめ、声のトーンを落とした。
「違うの?」
「いや……」
「相談もなしに決めたから、怒ってるとか?」
「……いや。君を守るのは、俺の勝手な意志だ。君が配慮する義務はない」
怒ってるじゃない、と内心でこぼした。
言いたくなる気持ちは理解できたのだが、ふと、違和感に気づいた。
ログイットが皮肉でこんな言い方をするだろうか。
何かがおかしい。何かが、致命的に噛み合っていないような気がしてならない。
うつむいた顔がよく見えない。熱でも計ってやろうかと伸ばした手が、音を立てて掴み取られた。
ユラは思わず身を竦めた。捕まった手は軽く引いても抜けず、ログイットの短いため息が、やけに響いて聞こえた。
「……どうして、そこまでするんだ」
「え?」
「君を逆恨みして襲ってくるような連中だぞ。そいつらを生かすために、どうして君が、わざわざ危険を冒すような真似をするんだ」
その声に非難めいたものを感じ取り、ユラはさらに眉根を寄せた。
「逆恨みじゃないわ。彼らにとって、私はまぎれもなく裏切り者だもの」
「……君は、正しいことをしたはずだ」
「正しければいいってものじゃないでしょ。……私、説得しなかったの。これはいけないことだなんて、やめようなんて一度も言わなかった。最初から、裏切るって決めてたからよ。リスクを嫌って、何食わぬ顔で仲間面して、黙って姿を消して、《神殿》に売り渡したの。……後悔するつもりはないし、復讐されてあげるつもりもないけど、憎まれる理由はあるわ」
「違う。それでも、君が憎まれるのは間違ってる。君が、負い目を感じる理由なんか……!」
ログイットは顔を上げない。押し込めようとしてできなかった激情に、心が動いた。
握られた手が少し痛かった。心配されることに慣れていないユラには、その痛切さを、どう受け止めればいいのか分からなかった。
迷ったあげく、苦い笑みを浮かべた。
逃げであり、ごまかしだった。
「……あなたの中の私って、びっくりするくらい善人みたい」
「ユラ」
「違うの。そんな綺麗な話じゃない。……ただ、無理だって思ったのよ」
ログイットの目が、探るようにユラを見た。
「あの人が死体の山を作るのも、あの人が誰かに殺されるのも、私はどっちも耐えられそうにない。どっちに転んでも、きっと私は、まともに生きていけなくなる。きっともう、笑えなくなる。……それだけよ。ただのわがままで他人を巻き込んでるだけ。美化するのは無理があるのよ」
「だけど、君は――」
「自己犠牲じゃないわ。……責任感は、少しあるかも。でも、ほとんどはただのわがままなのよ。……誰も死なないですんだら、ドクターの言うとおり、前を向ける気がする」
「……相手が、君の説得に耳を貸すと思うのか」
「勝算のない賭なんてしないわ」
先に目を逸らしたのは、ログイットの方だった。
ユラは慎重に、次の反応を待った。
彼の諦めが必ずしも納得を意味しないということは、ここに至ってさすがに理解している。だからこそ、不義理を承知でニッツフェンに話を持ちかけたのだ。力ずくでひっくり返されることがないように。
ログイットも、それは気づいているはずだった。
握られていた手がようやく放された。聞こえるか聞こえないかの掠れ声が、低く耳朶を打った。
「そんなに、大切なのか」
簡単には答えられない問いかけだった。
責めるような響きに、ユラが目を落とす。
「……どうかしら。正直、わからないわ。苦しいばっかりで」
「それでも、気持ちは変わらないんだな」
「そうね。私を守ろうなんて奇特な人間に、こうしてひどい仕打ちをするくらいにはね」
軽口に流そうとして失敗した。せめて逃げないようにと目を逸らさず、ログイットを見つめ返す。
「……ごめんなさい。でも、譲れない」
それ以上続けられる言葉はなかった。
立ち去ることもできないまま、沈黙が続く。
ユラはログイットの服を指で摘んで引っ張り、無言のまま彼の肩口に額を押し当てた。
驚くような、迷うような沈黙の後、ログイットの手がユラの背中にそっと触れた。
確信に近い予感があった。きっとこの先、ログイットがユラを守ろうとすればするほど、ユラは彼を警戒しなければならなくなる。だからこそ、彼の譲歩を引き出す必要があった。嫌気がさすほど、打算的な甘えだった。
慣れない感覚に涙が滲みそうになって唇を噛んだとき――不意に、扉が小さなノックを受けた。
「……ユラ……おきてる?」
舌っ足らずな声が扉越しに訊ねた。
とっさにログイットを突き飛ばしたユラは、出てこないでと手振りで示しながら慌てて扉を開けた。
果たしてそこに立っていたのは、枕を抱えたナイトドレス姿のお姫様だった。
「どうしたの、ティティ。目が覚めた?」
「おきたら、ユラがいなくって、さみしくなっちゃって……ごめんなさい」
「別に謝ることじゃないわよ。むしろ助かったっていうか……」
「え?」
「何でもないわ。おなかすいたんでしょ。ホットミルクでも飲んで、もう一回寝なさい。……眠れるまで、傍にいるから」
素直に頷くティティを確かめ、ユラはログイットを振り返った。
ひらりと手を振って返すログイットの顔は、いつもと何一つ変わらない、無害そうなものだった。




