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023

 「話があるの」と切り出したユラに、ニッツフェンは所用が済むまで会議室で待っているよう提案した。

 ティティを関わらせたくないのはお互い様だ。重厚な広い会議室の中で、ユラは一人、時間を持て余していた。

 ホテルの窓はすべて厚布で覆われていた。まるで最初から用意されていた飾りのような顔をしているので、ついじっと眺めてしまう。やたらと丁寧な仕事に、日常を保とうとする人間の姿まで見た気がした。

 厚布の向こうも、今は心慣れた暗闇だろう。

 頬杖をついてぼんやりしていると、不意にドアがノックを受けた。

 顔を見せたのは、金髪碧眼の青年だった。


「やあ、お疲れ! 今日は大活躍だったね」


 相変わらず警護官の服を纏っているものの、護衛される側だというのは既にはっきりしている。ティティが名前を呼んでいたような気もするのだが、なにせ混乱の中のことだ。思い出すことはできなかった。


「……どうも。何か用?」

「これからニッツと密談だよね。私も混ぜてもらおうと思って」

「どうぞ、お好きに」


 無愛想な承諾を返し、ユラは再び顔を背けた。

 この一行で最も重要な人物の言うことだ。相当嫌がらなければ同席は拒めないだろう。

 会話を拒否するユラの肩を、立ったままの男が指先でつついた。


「何――」


 かみつくような勢いで振り返ったが、顔の前に掌を突きつけられて、思わず身を引いた。

 気勢をそがれたその一秒で、花が咲いた。

 比喩でも何でもない。焦点が結べるぎりぎりの近さに現れたのは、紛れもなく赤い花だ。その花は瞬きをする間に、小さな火花をいくつも散らして泡のように消えた。

 呆気に取られるユラに、金髪の警護官は三枚目じみた笑顔を見せた。


「よーしよし。眉間の皺、なくなったね」

「……手品ってわけ? 一体何なのよ、あなた……」

「あはは、職業病ってやつだね。私に一番しみついてるのって、大道芸なんだよ」

「はあ?」


 ユラはまた、訝しげに眉を寄せる。

 そのしかめ面に全く怯まず、青年は自分を指さして、にこやかな笑顔で続けた。


「生まれたときは王子様、大人になったら大道芸人。ついでにときどき演奏家とか絵描きとか詩人とかを兼業して身銭を稼ぎつつ、とりあえず今は短期契約で警護官ってわけ。芸達者でしょ?」

「……王子?」

「うん、そう」

「……冗談にしては面白くないんだけど」

「あっれえ。ひどいな、全部本当のことなのに」


 感情の読めない笑顔には、全く傷ついた様子もない。

 ユラはため息を吐いて窓に目を向けた。

 《神殿》がこの男を指して意見を求めたのは、最初からその正体を知っていたからだろう。だからこそ理解できない。自分が知る王族も大概常識からかけ離れた人物だったが、この青年が王子なのだとすれば、セシロトに負けず劣らずガルフォールトも先行きが暗い。


「――そうしないと、生き残れなかったからさ」


 ひやりとする声に、ユラは再び青年を見た。

 道化が仮面を外したような顔で目を細め、彼はおどけて肩をすくめた。


「うちの王様は玉座が大好きでね。できうるかぎりいつまでもしがみついていたいから、邪魔になった長男をあの世に追い払ったって寸法さ。それをアリーナ席から見ていた次男は恐れをなし、尻尾を巻いて逃げ出した。……でもまあ、逃げ切れるもんでもなくてね。結局ここに戻ってきてる」

「なんで私にそんな話をするのよ。完全に部外者なんだけど」

「大した理由はないよ。単に話したくなったからかな。君には、一方的に共感を抱いてるんだ」

「……どういう意味?」


 胸に渦巻いていた訝しさが、心の底で尖った警戒心に変わる。

 目を眇めたユラに、彼はことさら軽い口調で答えた。


「君も、逃げてきた口だろ? それで、私と同じように逃げ切れなかった」

「勝手なこと言わないで。別に逃げてきたつもりはないわ」

「それならすまなかった。……私はただ、逃げたいのなら手を貸すよって言いたかっただけだよ」

「勝手にそんなこと言っていいわけ? 協力を求めてきたのは、あの陰険眼鏡の方なんだけど」


 王子が盛大に吹き出した。そのまま腹を抱えて笑い転げるのを見て、ユラは首を捻る。そんなに面白いことを言っただろうか。


「言うねえ! ぴったりだ!」

「……適当に言ったんだけど。本当に陰険なの?」

「さあ? 私は彼に思うところがあるからね。ちょっとすっきりしたよ。……えーと、それで、君に手を貸す理由だけどね。さっき言った、同族意識が一つ。もう一つは、ティティ嬢を助けてくれたことへのお礼だよ。あの状況で迷いなく他人を優先するなんて、なかなかできるものじゃない。おかげで、お姫様が軽傷で済んだ。ありがとう」

「……あなたにお礼を言われる理由はないと思うけど」

「私が子ども好きっていうのもあるけど、まあ、すっごく遠い親戚なんだよ。彼女のミドルネームは僕の案だったりする。高祖父母が一緒でね」

「それって――」

「あ、ログイットは違うよ。母方の家系の方ほうだから、安心して」

「安心って!?」

「……で、あの子の母君は、その血のせいで亡くなったようなものなんだ」


 まともに文句を言う隙もなく投げかけられていた言葉が、急に不穏になった。

 相手の調子に飲まれかけていたユラは、落差についていけず無言になる。


「リフィカ・コーディア・ジルセスは、優秀な病理医で、従軍経験もあった。何より、ほんのちょっとだけ王家の血を引いていた。死んでも構わないくらいに、ほんの少しね。――だから、ガンプリシオの魔工事故傷害調査団の御旗にされたんだ。王家への不満を逸らすために」

「そんな……」

「ただの人身御供だっていうのに、彼女は、それが自分のなすべきことだと受け入れたそうだよ。恩恵なんてひとっかけらも受けちゃいないのに。自分が重篤な状態になるまで、患者の治療と研究に追われて……。……まだ三歳だったティティ嬢から、王家が、母親を奪ったんだ」


 まるで、告解のような囁きだった。

 透き通るような碧眼がユラの奥底にある共感を引きずり出す。記憶にある感覚に、意識して感傷を振り払った。

 ここまで聞いても、この王子がユラに内情を話す理由がわからなかった。既にユラは協力を申し出ている。怒りの共有は組織の結束を強めるというが、そんな周りくどい真似をするようなタイプなら、もっと最初からもっともらしい話の進め方をするはずだ。


「すごいよね。私には無理だと思ったよ。彼女より私の方がずっと重い責任を背負ってるはずなのに……呑気な次男坊だったからね。首根っこを掴まれるまで逃げ回ってた。向き合う気になるまでも、呆れるくらい時間がかかった」

「……それで」

「っと、ああ、そうじゃなかった。つい私の話になってしまったけど……要はさ、彼らが抱えているものを、君に知っておいて欲しかったんだ」

「だから、どうして私に話すの」


 拭えない違和感に、もう一度訊ねた。

 淡く目を細めて笑った青年に、答えるつもりがあったのかどうかは分からない。

 ノックの音に扉が鳴って、ニッツフェンがようやく姿を現した。後ろにはログイットも付き従っている。

 立ち上がったユラは、眉を顰めてログイットを見た。


「遅くなってすまない。二十分ほどしか時間が取れないが、大丈夫だろうか」

「それはいいけど……ちょっと、人が多すぎない?」

「……保安上の問題もあるが……では、ログイットを外で待たせ――」


 皆まで言う前に、王子がログイットの肩に腕を回した。


「まあまあそう言わないで。私達は黙って壁になってるから、ほら、いないものと思ってくれればいいんじゃないかな」

「えっ、殿下……!?」

「こーらロギー君、お忍び中だっての。そうだ、扉を守ってるってことでどう? 誰か近づいてきたら迅速に対応できるしさ!」

「……だ、そうだが。どうする?」


 うんざりしたニッツフェンの確認に、ユラは細く息を吐く。

 そして、返事の代わりに話を切り出した。


「面倒な種類の話よ。取引がしたいの」

「……内容を聞こうか」

「今回の事件……セシロトの残党が関わっている可能性があるってことは、そっちの人から、聞いてるわよね?」


 直接的な問いかけを、ニッツフェンは一拍置いて肯った。

 セシロトの存在を報告すること自体は、ログイットから了承を求められていた。無報告でいられる内容でもない。ユラとの関係をどうごまかしていたのかは知らないが――薄々、察してはいるだろう。

 冷たくなる指先を握り、ユラはまっすぐに男の悪人顔を見据えた。


「居場所の手がかりを持っているわ。罠である可能性を踏まえた上で、あなたたちに提供してもいい」


 ニッツフェンが切れ長の目をこの上なく瞠り、何かを言いかける。

 なぜすぐに話さなかったのか。今になって話す理由は何か。ユラの素性は、本当に彼の推測どおりなのか。そんなところだろう。

 苦虫を噛みつぶした顔で苛立ちを飲み込み、ニッツフェンは低い声で訊ねた。


「対価は?」

「三つよ。まず、現地には私を同行させて。最初の交渉権は私に。それから――可能な限り、殺さないで」


 射竦めるような視線を受け止める。

 お互いに腹の内を探る、重苦しい沈黙が、広い室内を支配した。


「……第三条件が不明瞭だ。その場に居合わせた全員をどのような状況下でも生かして捕らえろという意味なら、受け入れかねる」


 ユラは意外に思って男を見上げた。人を何人か殺していそうな顔で、予想外の誠実さだ。

 条件の曖昧さは、彼の側にとって有利なものであるはずだ。ユラを真っ当な取引相手として扱うのでない限り、認識を摺り合わせるような手間は取らない。


「判断は、任せるわ。状況が許す限りでいい。努力して。……あなたたちにとっても、証人は有用なはずよ」

「妥当な意見だ。……いいだろう、条件を呑む」


 分の悪い賭ではないと思っていた。神殿にとって目下の最重要危険人物が関与していた可能性は、ガルフォールトにとって一筋の光明だ。首謀者が国内の人間である以上、責任転嫁は無理でも、外的要因の大きさを主張することはできる。そこに手土産が加われば、状況はぐっと好転する。

 安堵を表に出さないよう、音を出さずに息を吐いたユラは、ログイットの硬い表情に気づいていなかった。

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