019
「ちょ……ちょっと待ってよ。あなた、ティティだっけ? どうしてここに……」
困惑ぎみの問いかけに、少女はぱっと表情を明るくした。
「よかった、わたしをごぞんじなのね? わたし、ロギー君をむかえにきたの。おねがい、レディー、わたしをロギー君のところにつれていって!」
大きな目がきらきらとユラを見上げる。話に聞いていた通り、物怖じしない子どもだ。
手をしっかりと捕まえられたまま、ユラは天を仰いだ。
そこにあるのは、何一つ変わらない、真っ黒な天蓋でしかなかったのだが。
「……とりあえず、わかったから。ちょっと落ち着いて」
「ええ!」
とてもいいお返事だった。こんな街中で、追われている人間の名前をフルネームで口にした割には。
どうこの場を凌ぐべきか、ユラは無表情の下で必死に考えた。
ログイットは今、「身内」と会っているところだ。ユラがこの場でこの子を振り払ったところで、じきに会うことはできるだろう。――だが、こんな子どもがたった一人でこんな場所にいて、何のトラブルも起きないと楽観するのは、さすがに無理だった。
しっかりとユラの手を捕まえたまま、じいっと見上げる眼差しに根負けし、ユラは細く息を吐いた。
「ガンプリシオまで一人で来たの?」
「ニッツおじさまといっしょよ?」
「……そのニッツおじさまって人は、その辺にいるのよね?」
「ううん。今はおしごと中なの」
頭を抱えたくなった。つまり、保護者は不在というわけだ。
この呑気さ、確かに通じるところがある。まぎれもないログイットの血縁だ。
「……わかった。『ロギー君』もお仕事中だから、まだ戻ってこないと思うわ。それまで……そうね、お茶でもどう?」
「うれしい!」
言葉通り、花の咲くような笑顔が返ってきた。初対面の相手に対して、警戒の欠片もないらしい。
ユラはため息を飲み込んで、小さな手を握り返した。
手袋越しでも小さな手は柔らかく、ひどく温かく感じた。子ども体温というものだろうか。
足を向けた時計台近くの公園は、市民の憩いの場だ。いくつかのワゴンには親子連れの姿が多く、今日が祝祭日だったことを思い出した。
以前この場所に来たときには、日照が足りず荒れた芝が寂しげに残骸を残していた。今はすっかり撤去されて、代わりに花をモチーフにした色鮮やかなタイルが敷き詰められ、洒落たシェードの公園灯がその色彩を皓々と照らし上げている。
(……まさか、あっちの関係者に見つかるとは思わなかったわ……)
どこかでログイットといるところを見られたのだろうが、ガンプリシオは常夜の街だ。人を捜すには困難が多いし、ましてやユラは普段なら昼に出歩かない。これを不運と取るか幸運と取るかは微妙だった。
幼い子ども一人きりだということがユラの警戒を薄めていたが、同時に別の意味で引っかかりを覚えた。いかにも育ちのよい子どもが一人でふらついて無事でいられるほど、ガンプリシオの治安はよいものではないのだ。
(一体どういう育て方をしてるのよ。危機感が足りないっていうか……あの過保護ぶりなら、口うるさくなってそうなものなのに。全然効果が上がってないじゃない。甘やかしてるの?)
ここにはいないログイットに文句を連ねながら、ユラはひたすら、少女の凝視に耐えていた。
――そう、見られているのだ。
ベンチに座った二人の間には焼き栗の包みがある。ガンプリシオでは一般的な屋台のおやつだ。小さな手にはティーラテのカップも持たせているのだが、つぶらな青い目は飽きることなく、じいっとユラを見て、離れようとしなかった。
見られている。
とにかく見られている。穴が開きそうだ。
食べるものを与えておけば静かにしているだろうと思ったのだが、正直なところ誤算だった。とてもじゃないが成功したとはいえない。
ただでさえ子どもは苦手だ。どう扱っていいかわからない。
話しかけてくれるなとばかり目を合わさずにいたユラは、とうとう根負けして口を開いた。
「……何か、そんなにまじまじと見るようなものがある?」
「あ、ごめんなさい」
素直に謝って口元を押さえたものの、大きな目の好奇心は一向に揺るがない。
照度が低くてはっきりとは分からないが、ティティの眸の青はどこか空の色を思い出させた。やわらかなその色に、ユラを見張っているというような鋭さはない。むしろ興味津々といった態だ。それはそれで困る。
「レディー、お聞きしてもよろしいかしら」
「レディーなんて柄じゃないわよ。ユラでいい。あと、子どもがそんなにしかつめらしい聞き方するものじゃないわ」
こくんと素直にうなずき、ティティは改めて訊ねた。
「ユラはロギー君のコイビトなのよね?」
紅茶を吹きそうになった。
変なふうに息を詰めてしまい、ユラはごほごほと咳き込む。
「い、いきなり何?」
「ちがうの?」
「……違うわよ」
「なぁんだ。まったくもう、ロギー君たらオクテなんだから」
あれを奥手と言うのかどうかは疑問だったが、ユラはどうにか沈黙を守った。
一体どんな場面を見られていたのだろう。とにかく、下手なことは口走りたくない。
少なくとも恋人ではないはずだ。可愛い姪っ子にいわれなく貶されるログイットには悪いが、大した汚名でもないだろう。
内心で言い訳をして、赤くなる頬をごまかすようにカップの紅茶に息を吹きかけた。
ティティはそんなユラを見上げ、呆れ顔を一転して笑顔に変えた。
「あのね、わたしの名前もユーラっていうの。ティティ・ユーラ・ジルセス。わたしたち、おそろいね」
「まあ、そうね……似てるわね」
「ね!」
「……嬉しいの?」
「ええ、とっても!」
にこにこと笑顔を見せるティティに、ユラは戸惑うばかりだ。
物怖じしないどころか、人懐こくさえある。悪い気持ちはしないものの、慣れていないだけに持て余した。
「……それはよかったわね。それより、それ早く飲んじゃいなさい。冷めるわよ」
ティティがあわててカップを持ち直した。
ふうふうと吹いて、そっと口に含む。ふわふわに泡立てられたミルクをたっぷり混ぜた紅茶は甘く、寒さに赤くなった丸い頬が嬉しそうにゆるんだ。
カップを放すと、その口元には泡でひげができていた。
それを見て、ユラは思わず笑った。こまっしゃくれた子どもだと思っていたが、こんなところは普通の子どもだ。
「ほら、泡ついてる」
「えっ。やだ、ええっと……」
普段は外で買い食いなどしなのだろう。ハンカチを出すにはカップを置かなければならないが、ベンチにそんな安定したスペースはない。
困ったように首を巡らせるティティに、ユラはハンカチを出した。
「拭いてあげる。じっとして」
軽く押さえるように拭いてやると、空色の目が驚いたようにぱちぱちと瞬いた。
余計な手出しだっただろうかと思ったが、ティティは嬉しそうに破顔した。
「やっぱり、そうだわ」
「何が?」
「ユラって、わたしのかあさまににているの」
「……ふうん」
ログイットの話では、ティティは物心つく前に母を亡くしていたはずだ。
褒め言葉なのかどうかも微妙だったので、ユラは肩をすくめるに留めた。
ティティはきらきらと目を輝かせ、内緒話でもするように言った。
「あのね、うちのカケイは、『めんどうみがよくて、気のつよいビジン』によわいんですって」
「……はあ?」
「とうさまが言ってたの。わたしは、かあさまのことって、ほとんどおぼえていないのだけど――」
楽しそうに話していたティティが、ふと失言をしたように口元を押さえた。
どうしたのかと首を傾げたユラを、大きな目がおそるおそる見上げる。
「何?」
「……ごめんなさい。気をわるくしていない?」
「そんなことはないけど。どうして?」
ティティはもじもじとカップを握り、しゅんとなって呟いた。
「あの……かあさまのこと、おぼえてなくって」
「仕方ないじゃない。覚えてないものは覚えてないんでしょ」
「……でも、こういうの、こどもらしくないんでしょう?」
「……ああ……。そういうこと」
そこでようやく、何を言いたいのか理解できた。
「母を亡くした幼い子ども」に、周囲の大人が求めるのは朗らかさではない。母を恋しがって悲しむ姿だ。
けろっとした顔で母親の事を話すことができるティティは、その意味で確かに子どもらしくはないだろう。そんな子どもに対して、いわゆる良識のある大人というものがどんな事を言ってきたのかも、簡単に想像がついた。
すっかり悄気返ってしまったティティに、ユラは肩をすくめた。
「別に、いいんじゃない?」
「え……」
「寂しくないことの何が悪いの。ちゃんと愛されてて、十分だって思えるから寂しくないんでしょ。わざわざ大人の要求に応じて、めそめそしてみせる必要はないわよ」
ユラに言わせれば本末転倒だ。寂しさを見せない人間に、寂しがってみせろと求めるなんて。そういう人間に限って、したり顔で「母親が可哀想だ」なんてことを言うのだろう。
孤児だった自分でさえそうだったのだから、いかにも育ちのよさそうなティティではなおさらだ。
ログイットがどれだけこの子に愛情を注いできたのか、口振りだけでも十分に理解できる。きっと、父親である兄とともに、母親の不在をどうにか埋めようとしてきたのだろう。その結果がこの屈託のなさならば、無理に不幸ぶるほうがおかしな話だ。
惚けたようにユラを見上げていたティティは、やがて、ふかく微笑んだ。
「ロギー君がすきになったのが、ユラでよかった」
「……さっきから思ってたんだけど。なんでそんなこと断言できるのよ?」
「ぜったいそうよ。だってロギー君、ユラにわたしのこと話したんだもの」
いかにも心外そうなティティを見て、ユラは眉根を寄せた。
ユラにはこの期に及んでも言葉にできないことを、この少女はきっぱりと言ってのけるのだ。
本人から聞いたわけでもないだろうに、この自信は何なのだろう。
「……それだけ?」
「あら。ロギー君はのんきだけど、けっこうしっかりしてるのよ。それにね、とってもカホゴなの。とうさまよりカホゴなくらいよ。すっごく大変なときなんだもの、すきなひとじゃなきゃ、わたしのこと、話したりしないわ」
なるほどと納得して、ユラはひそかに肩を落とした。
要するに、「好き」のレベルの問題だ。信用と親愛程度なら理解できる。肯いても間違いではないだろう。
そう納得しようとしたものの、胸の奥で、もやもやした感情がやたらに自己主張を始める。
渋面になったユラに、ティティが小首を傾げた。
「ユラ、どうしたの?」
「……なんでもないわ。ほら、栗、食べなさいよ」
あわててごまかしたが、ティティの大きな目が、何かを読みとろうとするかのようにユラを覗き込んできた。
言い当てられては堪ったものではない。思わず目をそらしそうになる。
無言のまま栗の皮を剥いていると、ティティの目がそちらに釘付けになった。
「わあ……! ユラ、むくのじょうずね!」
「……コツがいるものでもないと思うけど」
「そんなことないわ! とってもきれい」
渋皮も剥いて、つるりとした実をティティに渡すと、喜んで眺め回した。矯めつ眇めつして微笑む様子は、まるで宝石でも見るかのようだ。
巧拙が分かるということは、栗を手で剥くという習慣があるということだ。貧乏貴族だというログイットの言葉は、あながち嘘でもなかったらしい。
「わたし、ぼろぼろになっちゃうの。どうしたらうまくなるのかしら」
「さあ……練習じゃない?」
「ユラもれんしゅうしたの? どのくらい? たくさん?」
「そうね。……昔の同僚に焼き栗が好きなのがいて、賭けに負けるたび、山ほど剥かされたわ」
懐かしさとともに口にした思い出は、一呼吸置いて、ひどい苦さを連れてきた。
「どうりょうって、なあに? おともだち?」
「……そんないいものじゃないわよ」
子猫のようなドングリ眼が、ユラを見上げながら瞬きをした。
誰も喜ばない誤解だと思った。当の同僚がティティの発言を聞いたなら、どんな顔をするだろう。
唯一の同性だったが性質は真逆で、馬があっていたとは言いがたい。にんまり笑う以外の顔はほとんど覚えていなくて、うまく想像できなかった。
無言のまま栗を剥くユラに、あどけない声が遠慮なく問いかける。
「おとこのひと? おんなのひと?」
「女よ」
「ああ、よかった!」
小さな手で胸をなで下ろして見せるので、思わず訊ねた。
「何が良かったの?」
「だって。ユラ、とってもやさしい顔だったんだもの。おとこのひとだったら、ライバルしゅつげんだわ!」
そんなはずはない。
顔をしかめて否定しようとしたとき、ざわりと空気が震えた。
いや――震えたのは、空気だけではない。
はっと息を呑んで、ユラは視線を上げた。
微塵も揺るがないように思われていた黒い天蓋。ガンプリシオを覆う《傘》が、波打つように振動していた。
不穏な空のざわめきに人々が気付き、足を止めて空を仰ぐ。
肌が粟立つのを感じ、ユラは息を呑んでその様子を見上げた。
「ユラ? どうしたの?」
「まさか……」
崩壊は、すぐに訪れた。
軋みに耐えきれなかった天蓋が罅割れ、白い光が差し零れる。
次の瞬間には、硝子が割れるような甲高い音が響き渡った。
破壊された《傘》が風に噴き上げられたように細かく砕けて舞い上がり、太陽の光の中に溶けて消えていく。
――そのさまを、悠長に見届けている人間はほとんどいなかった。
悲鳴と怒号を入り交じらせながら、人々は我先にその場から駆け出した。転んだ子供を親が慌てて抱き上げ、あるいは手を引きながら、建物の下へ逃れようと走る。
何が起きたのかは理解できずとも、五年前の悲劇は人々の記憶にしっかりと刻み込まれていたのだ。
穏やかだった午後の公園が、一転して混乱の渦に飲み込まれる。
ユラは急いで外套を脱ぎ、ティティの頭に被らせた。
「きゃっ」
「被ってなさい。日に当たっちゃだめ」
《傘》の構成から考えて、自然にこんな壊れ方をすることはあり得ない。明らかに人為的なものだ。
一体どうして。誰が。何の目的で。
焦りと苛立ちが脳裏を荒れ狂う中、ユラはストールで顔と首元を覆った。
どこかで冷静な自分が、ささやいていた。これができる人間は、そう多くないと。
――技術的には、ユラにも可能だ。
そしてもちろん、かつての同僚たちにも。
(どうして……!)
ティティが周囲の狂乱に怯え、泣き出しそうな声でユラの袖を掴んだ。
「……ユラ、なあに? なにがおきたの?」
「あとで説明するから、言うことを聞いて。泊まってるホテルの名前は分かる?」
動揺するティティに問いかけたとき、不意に誰かがその小さな身体を掬い上げた。
ティティが小さな悲鳴を上げる。
「失礼。お嬢さん、急ぎましょう」
「……ユール! ユールよね?」
「はいはい、ユールですよ。確認しなくていいからちゃんと被っててくださいね」
顔を見ようとして外套をたぐるティティに軽い調子で返し、男はユラを見下ろした。
人好きのする顔立ちの、愛嬌のある男だ。見事な金髪と碧眼で、その物腰は、護衛というより貴公子めいている。
ユラは皮肉げに唇を歪めた。
「……ああ、そう。ちゃんと護衛がいたわけね」
「騙してたってわけじゃないんですが……ま、その辺りの話は後でゆっくりと。今はここを動いた方がいい」
ユラは思い切り顔をしかめて、強く息を吐いた。
つまり、こちらに警戒されないために離れていたということだ。最初から逃がす気などなかったのだろう。
このまま同行することには強い抵抗感を覚えたが、もう一人の厳めしい顔をした男がユラの荷物を持つのを見て、苦々しく諦めた。
二年ぶりに見る日の光は目に痛く、それそのものが刃であるかのような不吉さを覚えた。
――どうして、と、口の中で呟いた。
混乱の収まらない胸中を渦巻いているものから目を逸らすことができず、ユラは苦い思いを噛みしめた。




