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014

 明細を受け取ってようやく店を出ると、ユラが不機嫌顔で迎えた。

 叱責を神妙に待ったログイットに、ユラは路面を睨んだまま告げた。


「遅い。時間かかりすぎ」

「ごめん……」

「……もういいけど。それより、変なこと言われなかった?」

「え?」

「だから、さっきみたいなの。たぶん勘違いされたけど……一月もすれば忘れるわ、気にしないで」


 ユラは頑なに視線を合わせようとしない。

 その理由を考え、ようやく合点がいった。恋人まがいの揶揄を受けたことを言っているのだろう。


「いや、大丈夫。……むしろ、ユラが嫌だったんじゃないか? 俺が勝手についてきたわけだし……」

「……別にいいわよ。荷物持ってもらってるんだから」

「ちゃんと訂正してこようか?」

「なっ」


 ユラの反応に、ログイットが堪え切ず吹き出した。


「さ……最っ低! なに笑ってるのよ!」

「ごめん。ちょっと、ほっとした」

「わけわかんない」

「嫌な意味じゃないよ。悪かったって」


 ユラはきびすを返し、苛立ち任せに路面をヒールで叩きながら歩いた。

 ログイットにまでからかわれたように思えて面白くない。振り返らずに歩いているうち、中央広場にさしかかった。

 暗い昼であっても、この場所はいつも賑わっている。

 走り回る子どもに気を使いながら歩いていると、不意に、ログイットがユラを呼び止めた。


「えーと……。ユラ、コーヒーとカフェオレだったら、どっちが好きかな」


 ログイットの示す方には、年季の入ったコーヒースタンドがある。

 むっつりと悩むような沈黙を挟んで、ユラは結局、返事をした。


「……ミルクティーがいい」

「わかった」


 和解承認の合図を受け取り、ログイットはベンチに荷物を置いた。

 まだむくれているユラがその隣に座る。

 ログイットは頭を掻きながら、少し離れたスタンドに足を向けた。


「ミルクティーひとつ」

「はいよ」


 ユラの分だけ注文をして代金を払う。紅茶が用意されるのを待つ間、ログイットはなんとなく空を見上げていた。

 相変わらず塗りつぶしたように均一な黒を、街路灯の明かりがぼんやりと照らし上げている。《傘》はその言葉と裏腹に、円盤のような平べったい形状をしているというが、見上げた形ではよく分からなかった。


「お兄さん、よその人かい?」


 気のよさそうな店員が、おかしげに笑った。

 そんなに分かるものだろうかと頷けば、よけいにおかしそうな顔をされる。


「やっぱりね」

「やっぱりって?」

「まじまじと空を見上げるような人間は、ガンプリシオにはいないってことだよ。かくいう俺も余所者なんだけど。……多分、ガンプリシオの人間は、みんな心のどこかで怖がってるのさ。いつまた空が落ちてくるかってね」

「……詩人だな」


 苦笑いで応じたログイットに、店員は目を瞬かせた。


「知らないのかい? 例の事故じゃ、硝子が割れるような音がして、虹色にきらきら光る破片が降ってきたんだってさ。空気に溶けるようなもんで触ることはできなくて、あんまり綺麗だったもんだから何かの奇跡じゃないかって騒ぎになったらしい。そのあとの地獄絵図を考えると、なんとも、えげつない話だね」


 事故当時、それが人体にどのような影響を及ぼすものなのかは不透明だった。なぜなら白架層の汚染は事故を引き起こした術式そのものによる効果ではなく、《神殿》が無効化対象としていた関数への自己修復が際限なく増幅を繰り返した結果だったからだ。

 《神殿》がめずらしく強行的に技術者と医療従事者を派遣した理由は、そこにある。

 ガルフォールトは住民の避難に積極的ではなく、住民もまたそれを拒んだ。《傘》が構築されるまで約一ヶ月。白架層の汚染による重大な皮膚疾患や細胞異常により、人口の約九割に及ぶ八十一万人の負傷者と、約半年後、その一万分の一にあたる千人あまりの死者を出した。

 それ自体が――暴走した王家の権威を下げることが《神殿》の目的であったのだとする説。

 王家が頑なに《神殿》への協力を拒んだ故の結果だとする説。

 いずれも多少なり真実へ絡んでいるというのが、大多数の支持するガンプリシオの見方だった。

 ログイットにとっては複雑な思いのある評価だ。


「……でもさ、最近、妙な噂が流れてるだろ?」

「噂?」

「汚染はとっくの昔に除去されてんだって噂。眉唾ものだよなあ。……はいよ、ミルクティーお待たせ」


 大きめのマグで指先を温めながらベンチに戻り、ログイットは、予想だにしなかった光景に顔をしかめた。

 若い男が、しきりにユラに話しかけている。

 ユラの表情は限りなく不機嫌で、今にも爆発しそうな空気を漂わせていた。


 


 


 


「ねえ君、すっごい荷物だね! よかったら運ぶの手伝おうか?」


 軽薄としか言い様のない声に、ユラは不機嫌そのもので顔を上げた。

 思えば、目を合わせずに無視することがベストの選択だったのだろう。馴れ馴れしい笑顔に眉をひそめ、ユラは突き放すように答えた。


「いらないわよ。ほっといて」

「またまた、遠慮しなくていいよ。もしかして魔工技師? 俺もなんだよ、まだ駆け出しだけどね。女の子ひとりじゃこの量は大変だよ。だからさ、ちょっとお茶でも――」


 苛立ちがさらに蓄積されていく。積み上がった感情は崩落を待つばかりだ。

 それをそのまま相手にぶつけてやろうとしたとき、第三者の声が、この上ないタイミングで割って入った。


「ユラ」


 ただ名前を呼んだだけだ。だがその声は、とめどない囀りを飲み込ませるのに十分な圧力を持っていた。

 意外さを覚えながらそちらを見る。

 カップを持ったログイットは、どこか堅い表情で、男の前に割って入った。


「遅くなってごめん。行こうか」

「……なーんだぁ、男連れかあ」


 この手の揶揄は本日二度目だ。

 ユラが不快げに眉を顰めたのを見て、ログイットが無言のまま素早く荷物を持ち上げた。激発を予想してのことだ。

 だが、そんな緊迫感など、男には通じなかったらしい。軽薄きわまりない調子で笑うばかりだ。


「まあいいや。同業者っぽいし? またどっかで会うだろうからさ、そいつに飽きたらいつでも声かけて――」


 ここで終わればまだ良かったのだが、厄介事は連鎖するものだ。

 陽気そのものの男に、唸るような声をかけてきた男がいた。


「そこで何をしてる、このうすのろが」

「げっ……親方!? いやいや、さぼってなんかないっすよ。ただほら、女の子が大荷物持ってたから!」


 新たに現れたのは、いかにも土方と言った風情の男だった。

 ユラの顔が不機嫌を通り越して無表情になる。

 男ははじめから彼女の存在に気付いていたようで、鼻を鳴らしてユラを見下ろした。


「阿呆が、よりにもよってどいつに声かけてやがる。その女はな、見た目が派手なだけの蛇食い鳥だ。食ったら腹壊すぞ」

「はあ? やだなあ親方、なにもそこまで言わなくても……」

「たちの悪い女に引っかかんじゃねえっつってんだ。さっさと来い」


 この手の罵倒なら慣れたものだ。ユラは冷ややかに肩をすくめたが、ログイットが険しい顔で前に踏み出した。


「おい、あんた――」


 ユラがぎょっとしたように顔を上げ、あわててログイットの腕を引いた。


「ちょっと、何やってるの。言わせておきなさいよ」

「でも」

「いいから。騒ぎにしたくないでしょ。行くわよ」


 ログイットは釈然としない顔をした。

 こんな場所で注目の的になるのは、追っ手に居場所を知らせるようなものだ。ユラは睨みつけることでログイットを黙らせ、同業者から引き剥がした。

 そのまま足早に去ろうとしたのだが、余計な挑発が追ってきた。


「おい、兄ちゃん。あんたも気をつけろよ。女の中身はよく確かめておくことだな」


 去り際に掛けられたよけいな一言で、ログイットの忍耐はあっさりと瓦解した。


「ユラ」

「何――」


 うんざりと返したユラに、ログイットが荷物を抱えたまま肩を寄せた。

 こめかみに柔らかな感触を感じ、ユラは唖然とログイットを見上げる。

 まるで恋人同士のような甘やかさで、ログイットは必要以上に穏やかにささやいた。


「早く帰ろう。今日は、俺が夕飯を作るよ」

「な……な、なっ……」


 同業者の盛大な舌打ちが聞こえたが、それどころではない。

 ユラはとてつもない羞恥心に襲われ、歩き出したログイットの背中を思い切り叩いた。


「痛い痛い。ユラ、カップ。こぼれてる」

「馬鹿じゃないの! なんで、あなたが、勝手に、喧嘩を買ってるのよ!」

「だって、腹が立ったから……痛っ」

「だってじゃないわよ、馬鹿!」

「ごめん。そこまで嫌がるとは思わなくて……」

「嫌とかそういう問題じゃなくて! ああもう、もう……!」


 頭が空回転しているような気がした。いつもなら自動的に出てくる罵倒が涸れ果てている。

 理性ではわかっているのだ。これはただの同業者への当てつけで、その場限りの、大した意味のない行為だ。うろたえる必要などない。うまくやり返したと思って忘れるべきだ。

 そうは思っても、顔の火照りがいっこうにおさまらない。

 ――正直に言うなら、ほんの少しだけ、多少だけれど、嬉しかった。

 ログイットが腹を立てたことも、立場を省みずに食ってかかろうとしたことも。

 けれど同時に、胸の奥がざわついた。


(……冷静に、ならないと)


 足場がおぼつかないような不安感が、どこから湧き出てくるのか自分でも分からない。

 ごまかすようにカップに口を付けると、ミルクティーは早々に冷めかけていた。

 ログイットはユラの気も知らず、さっきから、笑みを隠すように口元を押さえている。

 何か言ってやろうと口を開いたとき、張り上げた男の声が寒空を叩いた。


「市民よ、ガンプリシオの同胞よ! 我々は、一体いつまでこの苦渋に耐えねばならないのか!? 市民よ、我々は今こそ立ち上がるべきだ。天から与えられたものを不当に搾取する存在に、いまこそ否を叫ぶべきなのだ!」


 魔法器具を使った声は広場の隅々にまで響きわたり、もはや騒音に近い。

 振り返った先では、紳士然とした男が、腹を揺すりながら力強く群衆に呼びかけていた。


 ――曰く、我々は太陽を奪われている。

 ――曰く、それは《神殿》の陰謀によるものである。

 ――曰く、すでに白架層の汚染問題は解消されており、《神殿》はそれを隠蔽している――云々。いわゆる陰謀論と呼ばれているものの見本市だ。


 かぶりをふったユラは、ふとログイットの顔を見上げ、息を飲んだ。

 普段は穏やかなログイットの眼差しに、剣呑なものが垣間見えた。

 あからさまではない。だからこそ、その目に滲んだ刃先のような鋭さは無意識のものだろう。

 体の芯が冷え切ったようだった。心のどこかが警告に軋む。


「……雑な術式ね。私なら周波数を絞るわ」


 ログイットがユラを見た。弁者から視線を外す様子には不自然さのかけらもなく、浮かべた苦笑も、いつもの彼のものだった。

 不自然なほどの自然さが、ユラの違和感を、否応なしにかき立てた。


「さすが専門家。目のつけどころが違う」

「……喋ってる内容についてコメントを求められたら、お話にならないって一言しかないけど」

「手厳しいな」

「そうかしら。普通に考えれば無理のある話だと思うでしょ。どれだけコストがかかると思ってるの」

「それが案外、そうだと思わない人が多いんだ。――ちょうど、あんな感じに」

「……圧倒的な説得力ってやつね」


 舞台の周りでは、弁士の主張に賛同する群衆が気炎を上げている。

 ログイットとの会話にどこか空々しさを感じ、ユラは気づかれないように目を伏せた。

 隣にいるのは「誰」なのだろうかと思って、そんな自分をあざ笑いたくなった。


 彼について知っていることなど、ほんの僅かだ。

 彼の名前。それが偽名ではないということ。家族がいること。家族を大事にしていること。仕事で何かへまをして、それが理由で追われていること。

 そしておそらく――体制側の人間だということ。

 あえて深追いをせずにおいた推測が、ここにきて意味を持ち、奇妙な胎動を始めている。


(……結局、私は……)


 悪い癖が、首をもたげているのを自覚した。

 胸に渦巻く感情はさまざまだ。それは警戒であり、諦観でもあり、そして――たちの悪いことに、一抹の安堵だった。


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