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001

 


 


 最初から分かっていた。

 泣くことさえできないほど、理解していた通りの結末だった。


 



 ひっそりと静まった聖堂は、どこか外界から隔絶されているかのようだ。

 遙か頭上の穹窿が妙に足音を響かせるように思え、ユリエネは爪先をゆっくりと降ろしながら、祭壇へと進んだ。

 精緻なステンドグラスから差し込む光は、午後の色を帯びている。朝の礼拝がとうに終わったこの時間、《神殿》の東端にぽつんと立つ小聖堂は、がらんとした静寂の中に沈んでいた。

 そもそもユリエネは祈る神を持たない。呼び出されなければ、この場所を訪れることはなかっただろう。

 待ちぼうけの暇つぶしにステンドグラスを見上げ、色鮮やかな神話のフラクタル式をぼんやり組み上げていると、奥の扉が軋んだ音を立てて押し開かれた。


「ごめんなさいね。急に呼び出してしまって」

「……いえ、大丈夫です」


 ユリエネは緊張を飲み込んで、待ち人に対峙した。

 どこにでもいそうな中老の婦人だ。神殿魔工技術局の主幹技師にはとても見えない。――だが、今のユリエネには、彼女こそが《神殿》を体現する存在なのだと思えた。その丸い顔にたたえた柔和な笑みも、壁のない愛嬌も、決して本心を悟らせない。研究者らしからぬ要素を持ち合わせているからこそ、彼女はこの最高峰で立身を果たしたのだろう。


「神都の生活には慣れたかしら? 不自由があったら、遠慮せず言ってちょうだいね」

「問題ありません。それより……」

「ふふ、迂遠な言い方は嫌いだったわね。では、結論から話しましょう」


 ゆったりと笑みを深め、神殿技師は告げた。


「セシロトの《青い箱》は、無事に解体されました。主な関数の禁術登録もつつがなく。――まず、今後の危険はないとみてよいでしょう」


 知らず強張っていたユリエネの肩から、力が抜け落ちた。

 詰めていた息をそっと吐き出す。

 沸き上がってきた感情は、安堵と言うには、ひどい苦みを含んでいた。


「第六研究室は……」

「しばらくは《神殿》の監視下に置かれることになりますが……禁術の開発に携わっていたとはいえ、正当業務行為が認められますからね。個々の技師が罪を問われることはないでしょう」

「……そうですか」


 脳裏をよぎった仲間の顔に、胸が無視できない痛みを覚えた。

 とっさに唇を噛みしめ、感傷をねじ伏せたユリエネに、神殿技師は穏やかな声で続けた。


「ユリエネ・リッテ・ベルシア。貴方の功績で、数十万人規模の被害を回避することができました。……貴方はこういった言い方を好まないでしょうけれど、私からもお礼を言わせてください」

「やめてください。私は……ただの、密告者です。祖国と仲間を売り渡しただけ。それを、実績と呼ぶつもりにはなれません」

「自分を卑下するのはおやめなさい。貴方の選択で、救われた命があるのだから」


 ユリエネは無言で首を振った。

 間違ったことをしたとは思わない。それでもこれは、確かに裏切りだった。

 後悔はない。憎まれても詰られても構わない。それだけの覚悟は抱えていたし、正しい選択をしたのだと信じている。――ただ、他人にそう慰められることは、どうしても受け入れられなかった。

 頑ななユリエネの態度に、神殿技師は細く息を吐いた。


「……私はそろそろ戻りますね。しばらく人払いをしているから、あなたは、気持ちを落ち着けてからおいでなさい」

「それは……どういう意味ですか。懺悔なんて……」


 できるはずがないし、するべきでもない。そう思わなければ、立っていられない。

 視線を伏せたユリエネに、神殿技師は柔和な微笑みで答えた。


「たとえ祈る神を持たなかったとしても、静謐は、人を慰めますから」


 深みのある声が、すんなりと胸の奥に落ちていく。

 思った以上に張りつめていたのだと気づき、なかば無意識に頷いた。


 一人取り残された聖堂で、ユリエネは再びステンドグラスを見上げた。

 静かだ。

 無音ではないのに人の気配がしない。降り注ぐ光はただ穏やかだ。世界が終わるときは、きっとこんな感じなのだろう。

 自己満足のようで居たたまれなくなる。かぶりを振り、もう十分だろうと踵を返した。

 不意に、足下で硬質な音が跳ねた。

 石畳の床を金色の徽章が転がっていく。とっさに伸ばしかけた手が、勝手に動きを止めた。

 ――堰を切った波のように、記憶が押し寄せてくる。

 故郷の澄んだ陽光。からりと乾いた風。

 特徴的な常緑樹の匂い。

 音の響く長い廊下と、その先にある、硝子天井の箱庭。

 まるで昨日のことのように、喧噪が耳の奥でよみがえった。


『ユリエネ! あのスカタンを知りませんか!』

『背が高い方のスカタンだったら、第三資料室前の木の近くで見かけたわよ』

『今度は木の上で昼寝か、あのサボリ魔……!』

『おいユリエネ、「背が高い方」って何だ!? 俺への当てつけか!』

『誰かさんがちびだなんて一言も言ってないわよ。被害妄想もいいところね』

『あぁん!?』

『うふふっ。やぁだもう、グエルったらー、それって墓穴よぅ?』

『ちょっとモモ、そこで煽らないで! みんな落ち着いてよ、ねえ、お茶でも入れるからとりあえず落ち着こうよ。お願いだから! っていうか仕事を! しようよ!』

『……また一段と賑々しいな。今日は何の騒ぎだ?』

『殿下、これが若者の特権というものですぞ。活気があって結構、結構』

『ふむ……とすると、事によっては、僕も混ざるべきなのだろうか』

『混ざらなくていいですからね! ああもう、収集がつかない……』

『あなたも苦労人ね、サク』

『たーいへんっ』

『二人とも、元凶の一人だっていう自覚はないのかな!』


 徽章に刻み込まれた三枚の葉と片皿天秤が、ふと、輪郭を失ってぼやけた。

 耐えられなくなって膝をついた。拾うことができなかった手を固く握りしめ、喉をせり上がる嗚咽を押し込めた。

 ――生まれて初めて、手に入れた居場所だった。

 認められ、認めて、与えられて与えた。始めからずっと終わりを見てきたはずなのに、いつしか、大切だと思いはじめていた場所――この手で壊した、居場所だった。


「……分かってた、はずよ」


 言い聞かせるような声に、どうしようもない自嘲が滲んだ。


「……私は、ずっと、一人で……これからも、誰もいるわけないんだって。……そんなことくらい、とっくに……」


 すぐには立ち上がることができずに、顔を伏せ、唇をきつく噛みしめた。

 泣くことさえ、結局、上手にできないままで。



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