忘れ物は何?
初投稿です。
20xx年、夏の某都。
都会にはありふれた形のマンションから、
これまたありふれたスーツを着た男が出てきた。
寂しい頭とは対照的な、くっきりしたあご髭が特徴である。
男は中年のサラリーマン。
妻もいなければ、もちろん子供もいない。
会社に行き、家に帰る。
そんな日々を繰り返して10年生きてきた。
今日も、男はそんな日常を過ごすはずだった。
◇
「あの、失礼ですが、何か忘れ物をしていませんか?」
それは、蒸し暑い連休明け、会社への道のりでのこと。
向かいから歩いてきた老婦人が、
こちらを見た瞬間に言った言葉だ。
通勤時にいつも見かけるものの、男にはこの老婦人との面識はない。
やや驚きながらも、今の自分の服装を眺める。
クールビズのため半袖のワイシャツに、いつも通りのビジネスバッグ。
もちろん靴だって履いている。
どこか不備があるようには思えない。
「いえ、何も忘れてはいないと思いますが」
男はやや迷った末応えた。
老人に良くあるお節介だろうと判断したのだ。
「あらそう、ええ、そうかしらね。なら良いのだけれど…」
老婦人はそう言って、そのまま歩いていった。
男の胸に疑問を残したまま。
◇
「ねえねえオジサン、忘れ物してない?」
それは、会社に程近い道路で信号待ちをしていた時のこと。
隣に来た小学生たちが、いきなり男へ向けた言葉だ。
二度目の質問に、男もやや不安になった。
「何か忘れ物をしてるように見えるかい?」
相手が子供ゆえの聞きやすさもあり、男はなるべく優しく尋ねた。
「うん! あのね、たりないよー!」
聞かれた子供が応ると、他の子も口々に足りない足りない、と騒ぐ。
もう一度自分の服装を見て、男は一つの結論に辿り着いた。
――――ネクタイが無いのだ。
季節は夏。クールビズのため、ネクタイは不要だ。
しかし、サラリーマンと言えばネクタイ。
その子供らしい固定観念からきた勘違いだったのだろう。
疑問が氷解しスッキリした彼は、優しく子供に話しかけた。
「大丈夫だよ、心配してくれてありがとう」
そうして彼は、会社へと歩いていった。
今日も一日、頑張らなくては。
◇
彼は自分の持ち場について、軽く息をつく。
会社の中は冷房が効き、とても快適だ。
「あの、課長、何か忘れ物はありませんか?」
――またか。
男がそう思いつつ目を向けると、新人の女社員が立っていた。
どことなく張り詰めたような表情だ。
まさか、新人とはいえクールビズを知らないわけが無い。
でないと会社員失格だ。
第一、他にもネクタイをしていないやつはごまんといる。
そこまで考え、男は再び疑問を感じた。
――では、彼女は何を忘れたと思っているのだろう?
ふと視線をずらすと、社員はみなこちらを見ていた。
そして、目を向けると一様に顔を背ける。
ワケが分からない。
分からないことは偉い人に判断を仰ぐ。
会社で教えられる基本中の基本
それを実践すべく、男は部長を見た。
そして、何かに気づく。
しかし、その何かが男には分からなかった。
この違和感を解消すべく、男は部長に話しかける。
「部長、どうかしたんですか?」
「いやあ、まあ、な…」
しかし、部長は頭を掻きながら、歯切れの悪い返事をするのみ。
手がぽりぽりと頭を掻き、薄い髪の毛が揺れる。
その仕草を男は見つめ、そして、
そして、気づいた。
――――俺、アレ忘れた?
「部長。一時帰宅させていただきます!」
言うが早いか、男は会社から家へと駆けた。
すれ違う人がみな、視線を向けてくるような意識に駆られる。
そして忘れ物をひっつかみ、所定の位置に置くとすぐさま家を出て、また会社への道を急ぐ。
そんな男の頭には――――
黒々とした、髪の毛が乗っていた。
作者は人生で、一日に最大五回忘れ物をしたことがあります。
教科書、宿題、定期、体育着、財布…
学生というものは、うっかり屋に残酷なようで。
では、読んでいただきありがとうございました。