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電車騒動顛末

作者: 来流華

「明日釣り行こうぜ!」


 今朝、割とよく寝むれたと自覚したが如何せん普段の生活が乱れている所為か、教室に着いた俺は机に突っ伏して惰眠をむさぼっていた。

 そのせいかいつもより元気な友人、矢田武人の声に若干遅れて顔を上げた。そこには快眠しましたとばかりの笑顔を浮かべる武人の顔があった。俺はおはよと朝の挨拶を軽く済ませ、先ほどの意図を聞いてみた。武人は元気良く挨拶を返した後、説明し出した。

「いやあ、最近釣りにはまってんだよ。だから明日川に釣りに行こうぜ」

 予想していたが本当に単純な理由で俺は心で嘆息しつつ、表情に出さないようにしてそうなのかと相づちを打った。武人は上機嫌で釣りの魅力について語り出す。俺は半ば聞き流しながら明日の予定について考え、ふと明日が平日であることを思い出した。

「明日が創立記念日でよかったぜ、もっと休み増やしてくんないかなー」

 そういえば学校の創立記念日だった、危うく墓穴を掘るところだったと俺は思いながらまた机に突っ伏した。たった一日の休み、いつもなら昼まで寝たり雑誌を読んだりと怠ける予定が入っているのだが、武人に誘われた時点でその予定はなくなった。明日の分を補うために再び惰眠をむさぼろうとする俺にかまわず武人はまだ喋っていた。武人は俺が朝に弱いことを知っているはずなので俺もかまわず無反応を突き通す。

 そんないつも教室で見られる風景、違いを上げるなら武人の話し声がいつもより大きいことだろう。若干覚醒してきた脳では寝辛いと感じていた俺は寝るのを諦めて武人と会話しようか、それとももう少し粘ってみるかと考えていた。惰眠の波は不規則にやってくるのである。

 他愛もないそんなことを考えていた俺に隣の席の椅子が引かれる音とともに「おはよう」と生真面目な声が掛けられる。武人がすぐに上機嫌な挨拶を返すのに続いて、俺は顔をゆっくり上げながら丹波幸宏に気だるそうに挨拶を返した。幸宏も俺が朝に弱いことを知っているので気にせずに椅子に座って鞄の中身を机に移しはじめた。

「なあ、明日釣りしにいかね?」

「ん、釣りか・・・・・・ああいいぞ」

 いつもなら武人の突然の誘いには理由を尋ねる幸宏が二つ返事で了承したことに少し驚いた俺は幸宏にそのことを聞いてみる。

「実は俺も釣りが趣味でな」

 幸宏がやや嬉しそうに答えた。俺は予想外に思いつつも、いつも冷静な幸宏が寡黙に釣りをしていることが安易に想像できたため、そうだったのかと相づちを打った。「そうだよな! 最高に面白いよな!」とさっきよりもうるさくなった武人が俺の机を揺らす。武人の肩にかかっている鞄が俺の机にぶつかりガタガタ音を鳴らした。俺はそんな武人の様子に本当にお前は釣りができるのかと問いたくなった。しかし本人がこれだけ語っているからできるのだろうと自己完結したところで始業のチャイムが鳴った。

 二人があんなに面白そうに話していたからか、もしかすると俺もかなり楽しめるかもしれないなどと考えながら俺が授業の準備を始めた。

 その日、俺たちは昼休みに食堂で明日は少し離れた場所にある川に釣りに行こうと計画を立てた。


「なんで置いていくんだよおおおおおおおおおおおお!」


 携帯電話から武人のうるさい声が聞こえてきた。実際は幸宏が武人に電話していたため武人の声は幸宏の携帯電話から洩れた音である。

 いつもより低い声で幸宏が武人が待ち合わせの時間に遅れた旨を伝える。幸宏が怒るのも無理もない。今日の朝六時半に駅で待ち合わせしたはずなのに三十分以上も武人は来ないでさらに携帯電話も繋がらなかった。釣りの道具を持っている俺と幸宏は平日の朝のラッシュに遭うのはまずいと考えたため、武人を置いて先に現地に向かうことにした。そこで俺が幸宏に釣りのレクチャーを受けているときに武人から今の電話がかかってきたのである。

「だからって置いてくことないだろう、待っててくれよー」

「電車が混んでいるときに釣りの道具を持っているのは邪魔と判断したから、六時半と決めたんだ。大体それも三十分の余裕を取ったんだぞ。遅れてくるほうが悪い」

「いやでもよー、おいてくなよー」

 武人のかなり情けない声を幸宏がばっさりと切り捨てていく。当然、自業自得だと俺は思った。

 いつまでもうじうじと愚痴る武人にいい加減切れたのか幸宏が「いいから早く来い!」と強く言った。 まだ八時前だ、今から来ても十分に釣りをする時間はあった。なのに何故いつまでもぐずぐずしているのかと考えていると武人が衝撃の一言を言った。


「一回も電車のったことねえんだよおおおおおおおお! 悪いかっ!」


 俺と幸宏の口から「は?」と声が出た。いつも冷静な幸宏までもが思わずといった感じだったので俺が殊更に驚くのも無理はなかった。

 いまだ把握できていない二人に武人の赤裸々な発言が電話から飛び出してくる。


「一人で電車に乗れないんだよっ! 乗ったことねえんだよっ! だいたいなんでお前ら乗れんだよおおおおおお! 俺が悪いのか。だって誰も電車の乗り方なんて教えてくれないじゃねえかっ! ああっ、恥ずかしいよ! こんな年にもなって電車に一人で乗れないなんてなっ! だからよっ、お前らに聞こうとしてたのによおおおおおおおおおお! 先に行くなんてひでえじゃねか!」


 そこでやっと俺と幸宏は武人が電車に乗れないことを理解した。そうか、一人で電車に乗れなかったのか。なら仕方ないよな。でも身近にいるものなんだな、天然記念物ってと考えながら左手で腹を抱えて、右手で口を押さえ必死に武人に聞こえないように俺は笑った。幸宏も「俺が悪かった」など生真面目な声で謝罪しながらも肩で笑っているのは仕方ないことだった。

 武人は落ち着いたのか情けない声で幸宏に迎えに来てとお願いしていた。幸宏も多少落ち着いたのかいつもの調子で武人に一人で乗るための助言を出していた。ときどき肩が思い出したように震えるのはこれまた仕方ない。俺なんか地面にうずくまりながら未だに笑っていた。

「分かった、駅員さんに聞けばいいんだよな・・・・・・大丈夫だよな?」

「大丈夫だ、恥ずかしいだろうが一回覚えれば後は一人でも乗れるようになる」

「分かった、じゃあ行ってくるぜ!」

「ああ頑張れ、駅で待ってるぞ」

 幸宏が電話を切ったところで俺はようやく立ち上がった。幸宏が向こうの駅まで迎えにいくからここで留守番して欲しいと言い、俺は了解と軽快に言った。武人が心配らしい、やっぱり幸宏は頼れるリーダーだなと俺は思った。幸宏が携帯電話をポケットに入れて駅に向かっていく。さて帰ってくるまでに三匹くらいは釣れないかなと思いながら俺は釣竿を握った。




 あれから一時間と少し時間が過ぎた。

 待ち合わせの駅から目的地の駅まで途中乗りかえをするが三十分もあればつくはずなのにと考えながら俺は椅子に座り、釣り糸を垂らしていた。水を入れたバケツにはまだ一匹も魚は入っていなかった。もしかしたら笑い声で逃げたのか、いやでも一時間経ったしな。冬眠しているのかなどと下らないことを考えていると武人の元気な声が聞こえてきた。俺は手を上げて遅かったなと笑いながら言った。武人も笑いながら「わりぃ」と言って釣りの準備をしだした。俺は幸宏にお疲れと労い、経過がどうだったかと聞いた。幸宏は俺に缶コーヒーを投げると椅子に座って「大変だった」と一言返した。俺が説明を求めると幸宏と武人が答えた。

「それがよー、途中で痴漢にあったんだぜー」

「私も乗り換えの駅で武人が駅員と女子高生といるのを見たとき、やってしまったかと思ったぞ」

「うるせー、俺が痴漢なんてするわけねえだろうが!」

「客観的に見たらそうだったんだ。疑って悪かったな」

 友達を疑うなよと武人が幸宏の肩に軽くパンチした。幸宏がそれを受けて生真面目な声で格好良かったぞと褒めると照れた顔で武人がまた軽くパンチする。

 そうか、痴漢に遭った子を助けたんだな。やっぱり武人はすげえなと俺は思った。電車通学の俺も何度か混んだ電車で痴漢の現場を見たことがあったが誰か助けてやれよと思いつつ見てみぬふりをした。助けれなくて悪いとは感じていなかった。ただ朝から嫌なものを見たなと思いながら学校に向かうだけだった。自分にとっては痴漢など壁の向こうの出来事、助けてと声が聞こえないから関係ない。ましてわざわざ壁の向こうを覗こうなどとは一切考えていなかった。

 ああ俺って小さいなと思いながら、俺は缶コーヒーを開けた。


「まったく大変だったぜ、途中で急にワーッって人が入って来て苦しいし、おばあちゃんが立ってんのに誰も席譲ってあげないんだもんな。そういえば痴漢のときも誰も声かけてなかったなー。あの子が泣きそうになってんの分かってるくせに」


 電車って思ってたのと違ったと武人がしみじみと言った。幸宏が何事も経験するのが一番だと返す。

 俺は缶コーヒーを一口飲んで、「大変だったな、おぼっちゃん」と言った。

 一瞬武人と幸宏がキョトンとしたが、幸宏は意味が分かったのかやや笑いながらよく頑張ったぞ、ぼっちゃんと武人に声を掛けてから椅子に座って釣竿を振った。武人はまだ意味が分からないといった釈然としない顔をしたまま釣竿を組み立て始めた。

 俺はそんな武人にいつまでも世間知らずでいて欲しいと願った。最後はいつだっただろうかお年寄りに席を譲った日は、覚えてないな。

 帰りの電車では席が空いていても立っていようとそんな小さな誓いを立てながら俺は釣竿を振った。


 今、遠くの電車の車窓からは川辺に三人の背中が見えるだろう。その中で一番小さな背中の持ち主が多分、俺だ。

 

ご読了ありがとうございました。感想や誤字をお待ちしています。

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