猫と車
猫と車
何年も前、コロナ前のことだ。
ある日、車のボンネットに猫の足跡がついているのに気づいた。
近所には猫が多い。ボンネットの上を歩いたのだろうと、特に気にもしなかった。
数日後、車の下のあたりから猫の鳴き声が聞こえた。
「あれ?」
車の下をのぞいてみたが、姿はない。反対側からものぞいてみたが、やはりいない。
「どこにいるんだろうね」
そう思っただけで、そのときはそれ以上探さなかった。
その翌日か、翌々日のこと。
出かけようと車に乗り込み、エンジンをかけた。
すると、猫の鳴き声がした。
ニャー、という普通の鳴き声ではない。明らかに恐怖と焦りを感じさせる声だった。
「は?」
思わず声が出た。
エンジンを切り、車から降りてボンネットを開けた。けれど、何もいない。鳴き声もしなくなった。
「いったい何だったの!」
もう一度エンジンをかけてみた。すると、また鳴き声がする。
今度は間違いない。猫がいる。
私は慌ててエンジンを切り、エンジンルームをのぞき込んだ。
「ニャーン。ニャー」
話しかけてみたが、返事はないし、姿も見えない。エンジンルームって意外に隠れる場所があるんだなと思った。
さすがに、もう一度エンジンをかける気にはならなかった。
そこでJAFに電話することにした。初めてのJAFだった。
状況をうまく伝えられるだろうか? 猫が入り込んだと信じてくれるかだろうか?
「猫ですか? えっ、猫が?」
「えぇ、姿は見えないけど声がします」
そんなやり取りを想像していた。びっくりされるだろうと。
ところが、電話口の女性の反応は予想とまったく違った。
「必ず出せるとは限りません!」
いきなりだった。
「は?」
猫がいると言っているだけなのに、なぜそんなに喧嘩腰なのだろう。こちらもそれなりの態度で応じたくなったが、そこは大人の私である。ぐっとこらえた。
すぐに人を派遣してくれるというので、待つことにした。
本当にすぐ来てくれた。やって来たのは、まだ若い男性だった。
私はさっそく電話のことを言いつけた。
「いきなり、喧嘩腰でした。冗談を言ったわけじゃないのに」
「あぁ。そうですか」
準備をしながら、優しく返事をしてくれた。
「エンジンをかけると鳴くんです。でも、ボンネットを開けても姿が見えないんですよ」
男性は車の周囲を確認すると、ジャッキで車体を持ち上げ、下に潜り込むようにしてのぞき始めた。
「ああ、ここか」
何か見つけたらしい。男性の手が伸びた。
次の瞬間、子猫がつかみ出された。
「あらぁ!」
黒い子猫だった。ほんとに小さかった。
男性が地面に下ろすと、子猫は一目散に走り出した。そして道路を渡り、お向かいの家に入っていった。
「あっ、ちょっと!」
私は逃げていく後ろ姿に声をかけた。
「ありがとうは?」
もちろん、返事はない。助けてもらったという自覚があるのかどうかも怪しい。あっという間に姿が見えなくなった。
男性は書類を書きながら、猫がエンジンルームに入り込むのは珍しくないと教えてくれた。
「車の下って、意外と隙間があるんですよ。猫は暖かいところが好きですからね。エンジンが止まったあと、まだ暖かいうちに入り込むこともあります」
そして、少し声を落とした。
「ただ、気をつけないといけないんです」
「何ですか?」
「ファンベルトに巻き込まれることがあるんです。体が切断されてしまうこともあります。そうなると、死体を取り出せないこともあって……」
私は言葉を失った。
なるほど、電話口の女性があんなに強い口調だった理由がわかった気がした。きっと過去に、そういう事例を担当したのだろう。だからといって、いきなり戦闘モードはやめてほしいが。
男性は、電話対応をした女性のことも気遣っていた。
「たぶん、そういうことがあったんじゃないですかね」
ずいぶん優しい人だと思った。
私はお礼を言い、ようやく安心して買い物に出かけた。
黒い子猫は無事だった。
めでたし、めでたし。
と、そのときは思っていた。
*
ところが、ここからが本番である。
ある日、友人と話をしていたときのことだ。
「今日、車の下に猫の首が落ちてた」
友人が珍しく深刻な顔で言った。
「は? 猫の首?」
「うん」
「首だけ?」
「そう」
何とも嫌な話である。
「いくら何でも、そこまで人から恨まれるようなことをした覚えはないんだけど」
「そうよね」
私もうなずいた。
「別にお人よしでもないし、優しさでできている人間でもないけど、そこまで恨まれる理由はないと思う」
彼女は冷静に話した。真面目な彼女らしい。
「うん。そこまで恨まれるのはねぇ」
私も真面目に答えた。
「周りの人には、たぶん猫同士で喧嘩したんだろうって言われたの」
「ああ、そうでしょうね」
その話は、それで終わった。
それからしばらくして、友人の車が変わった。
理由は聞いていない。
ただ、私は思い出してしまった。あのとき、JAFの男性はこうも言っていたのだ。
「残った死体が腐ったら、車が臭くなるんですよ」
車の下に落ちていた猫の首。
そのあとに変わった車。
あの話を思い出すたびに、私はあの黒い子猫のことも思い出す。
あの子は、無事に逃げていった。
少なくとも、私の車からは。
それ以来、エンジンをかける前には、ボンネットを軽く叩くようにしている。
どこかに小さな命が隠れていないか。知らずに巻き込んでしまわないように。
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