第8話:ジャムパンの交渉と、境界線の契約
拠点の中心にある、セナがコボルトたちと協力して作り上げた頑丈な木製テーブル。
その上には、今しがた炊き上がったばかりの野いちごジャムが、たっぷりと塗られた厚切りのパンが並んでいた。
「……さあ、まずは召し上がれ。お腹が空いていては、良い知恵も出ませんから」
セナは、穏やかな笑顔でジルヴェール王子の前に皿を置いた。
王子の背後に控える騎士たちは、毒見もせずに差し出された「未知の料理」に身構えたが、ジルヴェールは止めた。漂ってくる甘酸っぱい、どこか懐かしい香りに、張り詰めていた彼の心が無意識に解けていくのを感じたからだ。
「……いただく。感謝する、セナ」
ジルヴェールが一口、ジャムパンを頬張る。
その瞬間、彼の瞳が大きく見開かれた。
王宮の料理人が作る洗練された菓子とは違う。果実そのものの力強い甘みと、少しの酸味。そして、それを包み込むパンの温かさ。
連日の強行軍と、国を守らねばという重圧で凝り固まっていた胃の奥が、じんわりと温まっていく。
「……美味しいな。こんなに優しい味は、初めてだ」
「それは良かったです。……レイくん、ハーブティーを淹れてくれる? ハルくんも、お茶請けの準備をお願いね」
セナに言われ、レイは「……うん、わかった」と不承不承ながらも頷いた。
だが、その視線は王子を「ママに近づく不審者」として激しく射抜いている。セナの腕にぴったりと体を寄せ、自分の領分を主張するのを忘れない。
ハルもまた、少年の姿でセナの背中に隠れ、王子の出方を伺っている。
ジルヴェールは、カップから立ち上るハーブの香りで一息つくと、パンを置いて真剣な表情に戻った。
「セナ。……君の言う通り、この子を無理やり連れ帰るのは、私の本意ではない。君がどれほどの愛情を持って接しているか、この場所を見ればわかる」
彼は一度言葉を切り、懐から一枚の古びた地図と、数枚の報告書を取り出した。
「だが、事実として伝えねばならないことがある。……今、我が国ラングレイは、かつてない危機に瀕しているんだ」
セナは、流れるような動作でレイの頭を撫でながら、静かに王子の言葉を待った。
「ハルは、我が国の『守護龍』として、国境に強力な魔除けの結界を張っていた。だが彼がいなくなった今、その結界が急速に弱まっている。……魔の森から溢れ出した魔獣たちが、既に国境の村々を襲い始めているんだ」
王子の言葉に、セナの手が止まった。
鑑定スキルを使わずとも、彼の瞳に宿る深い悲しみと責任の重さが伝わってくる。
「このままでは、罪のない民が何万人と犠牲になる。……だから私は、守護龍を探しに来た。国を、民を救うために。……それでも君は、この子をここに留めると言い切れるか?」
重い沈黙が拠点を支配した。
レイが不安そうにセナの服を握りしめ、ハルが小さく身を震わせる。
多くの命を救うために、一匹の子供を差し出せという「正論」。
けれど、セナは動じなかった。彼女はプロの事務員として、そして何よりお母さんとして、最善の「落とし所」を導き出す。
「……事情は分かりました。でも、王子。……今のハルくんを連れ帰っても、結界は戻りませんよ」
「……何だと?」
「この子は、今、とても怖がっています。怯えて、無理やり働かされる場所で、本来の力(魔力)が出るはずがありません。……そんな不完全な状態で結界を張っても、すぐに綻びが出るわ。それは『管理』とは言えません」
セナは、ハルの震える肩を抱き寄せた。
「だから、提案です。……ハルくんは、このままここで私が育てます。この子が心から笑い、自分の力を信じられるようになるまで、ここで。……その代わり、あなたの国とこの森の間で、定期的な『交易ルート』を確立しましょう」
ジルヴェールは、セナの意外な提案に目を瞬かせた。
「交易、だと?」
「ええ。あなたは国に戻り、前線で民を守りなさい。私はここで、ハルくんを心身共に健やかに育てる。……そして、定期的にあなたの騎士団がここへ『物資』を運んでくるんです。塩や衣類、そして隣国の正確な情報を。……私たちからは、ハルくんの魔力がこもった魔除けの品や、保存食を供給します」
セナは、テーブルの上に指で線を引いた。
「これを『緊急連絡網』にするんです。交易のたびに、お互いの状況を確認し合う。もし国に大きな危機が迫れば、ハルくんを送り出す準備を。逆に私たちが困れば、あなたが助けに来る。……離れていても、協力し合える『契約』を結ぶんです。それが、今できる一番効率的なやり方だと思いませんか?」
ジルヴェールは絶句した。
武力で奪うか、諦めるかの二択しか持っていなかった自分に、彼女は「共生」という第三の道を提示したのだ。それも、互いの欠点を補い合う、極めて合理的で温かな道を。
「……君は、本当に不思議な人だ。……分かった。その提案、受け入れよう」
ジルヴェールは、セナに対して深々と頭を下げた。それは王子としてではなく、一人の男として、彼女の覚悟に敬意を表する礼だった。
「定期的に、私が直接ここへ来よう。……君と、この子たちの様子を確かめるために」
「ええ、歓迎します。……あ、でも、次はもう少し少人数で、静かに来てくださいね」
セナが笑って言うと、ジルヴェールもまた、憑き物が落ちたように穏やかに微笑んだ。
だが、そのやり取りを見ていたレイの我慢は、ついに限界に達した。
「……絶対に、嫌だ!!」
レイはセナと王子の間に割り込むと、王子を力いっぱい押し返した。
「何が交易だ! ママ、騙されちゃダメだよ! この騎士様、絶対ママのことを変な目で見てるもん! もう来ないで、あっち行って!」
レイの猛烈なやきもち。ハルも便乗するように「キュイッ!」と王子を威嚇する。
「あらあら、レイくん、落ち着いて。……王子、すみません。うちの『最高責任者』が、少しご機嫌斜めみたいで」
セナは苦笑いしながら、レイを抱きしめてあやし始めた。
ジルヴェールは、自分を睨みつける小さな騎士と、それを優しく包み込む「お母さん」の姿を、どこか羨ましそうに見つめていた。
「……また来るよ、セナ。……君の焼くパンを、また食べたいからな」
王子との契約、そして新たな縁。
魔獣の楽園は、今や一つの国を救うための「中継基地」としての役割も担い始めた。
セナはレイの頬にキスをして、遠ざかっていく銀色の背中を見送った。
(忙しくなるわね……。でも、ハルくんとレイくんの笑顔を守るためなら、これくらい、なんてことないわ!)
セナの胸には、新しい「管理台帳」の構想が、温かなジャムの香りと共に広がっていた。




