第52話:白銀の記録者と、聖域の通信簿
聖域の朝は、広場の鶏が鳴くよりも早く、メルディの部屋から漏れる規則正しい乳棒の音から始まる。
カチ、カチ、と小気味よいリズム。それは、セナが事務机で羽ペンを走らせる音と、どこか似ていた。
「……測定開始。拠点内の残留魔力濃度、基準値内。……レイくんの魔力波形、安定。……ハルくんの体温、摂氏四十二度。守護龍としての活性度は極めて良好。……不備、なし」
メルディは、眼鏡をクイと押し上げ、厚い革表紙のカルテに万年筆でさらさらと記録を刻んだ。
彼女にとって、聖域とは感情で動く共同体であると同時に、膨大な「生体資産」が複雑に絡み合う精密なシステムでもあった。そして、そのシステムが致命的なエラーを起こさないよう、水面下で微調整を繰り返すのが、医療従事者としての彼女の誇りだった。
メルディは、調合したばかりの滋養強壮剤を手に、まだ静かな廊下を進んだ。
最初に向かったのは、レイとハルが眠る寝室だ。
そこには、新入りのグーが床で丸まり、レイの影からはルナが銀色の瞳を覗かせながら、三頭と一人の英雄が、無防備な寝息を立てていた。
「……レイくん。……失礼します。……朝の定時検診です」
メルディは、寝ぼけているレイの額にそっと手を当て、魔力回路の脈動を読み取る。
昨日のレガリア・セナを使った透視作業の負荷は、既にセナの用意した「特製スープ」と、レイ自身の驚異的な回復力によって払拭されていた。
「……ふぁ、……メルディさん。……おはよ。……僕、もう元気だよ」
「……数値がそれを証明しています。……ですが、成長期の魔力膨張は、時に器である身体を内側から削ります。……今日もおやつは、鉄分の多い魔力果実を優先的に摂取するように」
「……はーい。……ハルも、元気?」
隣で欠伸をしていたハルが、少年の姿でメルディを見上げる。
メルディはハルの鱗の光沢を厳しくチェックし、満足げに頷いた。
「……ハルくん。……あなたの火の管理こそが、この聖域の温度(平穏)を支えています。……自身の過熱には注意しなさい。……不備があれば、すぐに私へ報告すること」
子供たちの生存率と健康状態。それを完璧な「在庫」として維持することこそが、セナへの最大の報いであるとメルディは信じている。
朝の検診を終えたメルディは、拠点の一角にある、最新の魔導通信機が設置された密室へと入った。
ここは、聖域の中でも特に「秘匿性」が保たれた場所だ。
「……王都・内務事務官バルト殿。……聖域より、定時の『不備報告』を送ります。……応答願います」
空中に浮かぶ魔法陣が微かに震え、通信の向こうから、寝不足で隈を作ったバルトの声が響いた。
『……あぁ、メルディ殿。……そちらの「怪物お母さん」の機嫌はどうですか? ……こちらでは、昨日届いた「宣戦布告に近い請求書」の対応で、財務局が三度気絶しましたよ』
「……セナ殿のバイタルは極めて良好です。……現在は、王都の商人ケッテン殿を『事務的な地獄』に叩き落とすための最終見積もりを作成中。……メンタルヘルスは、攻撃性において上限を突破しています」
『……おぉ、恐ろしい。……あのケッテンを相手に、微塵も揺るがないとは。……王都では、第一王子派の残党が、セナ殿の指定した座標通りに次々と検挙されています。……彼女は、自分がどれほどの『国家規模の浄化』を行っているか、自覚しているのですか?』
「……いいえ。……セナ殿にとっては、これは単なる『在庫の整理』に過ぎません。……不備があれば直し、ゴミがあれば捨てる。……その徹底した合理性が、結果として一国を救っているだけのこと」
メルディは、冷淡な口調の中に、隠しきれない敬意を込めた。
「……バルト殿。……一つ釘を刺しておきます。……王都の商人ギルドが、これ以上聖域に『余計なノイズ』を持ち込むようなら、……私は医師としてではなく、聖域の防衛担当の一員として、彼らの神経系を魔力的に切断する覚悟があります。……それほどに、今の聖域の平和は、私たちの『命』そのものです」
『……分かっています、メルディ殿。……あぁ、胃が痛い。……殿下からも、セナ殿の喉を労るための最高級の蜜を別途発送させました。……不備のないよう、お届けします』
通信を切り、メルディは深く溜息をついた。
王都での権力争いや、商人の強欲。それらは聖域の外側に渦巻く汚泥だ。
それを一人で押し返し、子供たちに「お母さんの笑顔」だけを見せ続けているセナ。
メルディは自室に戻り、昨日セナが残していった、走り書きのメモを手に取った。
『メルディさん。明日の交渉中、レイくんたちが飽きないように、何か新しい知育パズルでも貸してあげてくれないかしら?』
事務官としての冷徹な交渉の裏で、常に子供たちの「退屈」を不備として恐れる、あまりに人間らしい母親の願い。
「……ふふ。……セナ殿。……あなたは自分を、ただの事務員だと言いますが。……この完璧な動線と、神話の獣さえも家族に変えるその愛情こそが、世界を再構築していることに、なぜ気づかないのですか」
メルディは、セナが今日、商人と対峙する際に飲むであろう特製ハーブティーの準備を始めた。
喉の炎症を抑え、思考の明瞭さを保ち、かつ適度なリラックス効果を与える、メルディにしか作れない究極の「事務官支援薬」。
夜が明け、広場からケッテンが部下を怒鳴り散らす声が聞こえてくる。
メルディは、その喧騒を窓越しに一瞥し、静かに処方箋を書き留めた。
『第五十二案件:聖域の定期検診、および王都への現状報告。
特記事項:管理責任者セナ、商人との決戦に向けてバイタル、思考、共に絶好調。
……不備、なし。
……王都の雑音は、こちらでフィルタリング済み。
……明日からは、新しい物流ルートの構築に伴う、魔導具の衛生管理マニュアルの策定に入る。
……聖域の健康は、今日も一ミリの誤差もなく稼働中。』
メルディは、眼鏡を丁寧に拭き、朝の柔らかな光の中で、凛として立ち上がった。
聖域の「記録者」として。そして、最強のお母さんの「影」として。
彼女の一日は、今日も完璧なルーチンと共に、静かに幕を開けた。




