第50話:琥珀の祝杯と、忍び寄る商人の影
秋の夜風が、聖域の広場に飾られた魔力灯の光を優しく揺らしていた。
広場の中央には、エルフの先行隊たちが精魂込めて作り上げた「白銀の魔導紙」が、一点の曇りもない完成品として、セナの事務机の上に積み上げられていた。
「……検品終了。不備なし。……これこそが、私たちの新しい『資産』ね」
セナは、仕上がったばかりの紙の表面を指先でなぞり、満足げに微笑んだ。
エルフたちの繊細な手仕事と、レイの精密な魔力供給が合致した結果、王都の最高級品を凌駕する魔導具の素材が誕生したのだ。事務職出身のセナにとって、原材料から高付加価値の商品を自社生産できる体制が整ったことは、何物にも代えがたい勝利だった。
「さて、みんな! 今日は残業なしよ! ……この魔導紙の完成を祝して、ささやかな慰労会を開催しましょう!」
セナの明るい号令に、広場に集まっていた面々から歓声が上がった。
ロレッタが、王都のハチミツをたっぷり使った特製の果実酒と、マーサが用意した焼きたてのパンを次々とテーブルに並べていく。メルディも、今夜ばかりは厳しい栄養管理の眼鏡を少し緩め、自慢のハーブサラダを振る舞った。
「はわわ~、皆さんお疲れ様ですぅ! ……特にエルフの皆さん、最初は手が痛いって泣いてましたけど、最後はとっても格好良かったですよぉ~!」
ロレッタの屈託のない称賛に、エルフの若者たちは少し照れくさそうに顔を見合わせた。
彼らは既に、セナのマニュアルを暗記し、聖域の「動線」に従うことに誇りを感じ始めていた。
「……認めよう。……この紙を漉いている間、我らは森の精霊と対話しているような、不思議な一体感の中にいた。……これもすべて、あの方の管理と、あの幼子の導きがあったればこそだ」
エルフのリーダーが、ジュースのグラスを掲げてレイに一礼した。
レイは、ハルの背中に寄りかかりながら、嬉しそうに笑い返した。
「えへへ、お兄さんたちが凄かったんだよ。……僕の魔力を、あんなに綺麗に受け取ってくれるなんて思わなかったもん。……ね、ハル、グー、ルナ!」
「……うん。……レイの魔力、……まっすぐだった。……ハルも、楽しかった」
ハルが少年の姿で、レイの隣で満足げに喉を鳴らす。足元ではグーがどっしりと構え、レイの影からはルナがひょこっと顔を出して、ロレッタから貰った魔力果実を器用に影の中へ引き込んでいた。
火、地、影。そしてエルフと人間。
セナが夢見た「多種族共生」の雛形が、今、この琥珀色の灯火の下で、確かに形を成していた。
だが、そんな平和な祝祭の空気が、不意に揺らいだ。
影の中にいたルナが、鋭い視線を北の境界線へ向け、低く、警告の唸り声を上げたのだ。
「……ルナちゃん? ……どうしたの?」
「……ママ。……重たい。……金貨の擦れるような、嫌な匂いがする」
ハルもまた、立ち上がり、鼻をひくつかせた。
夜の帳を切り裂くように、聖域の門の方角から、複数の馬の嘶きと、不自然に豪華な馬車の車輪の音が近づいてきた。
「……不備の予感ね。……アルウェンさん、先行隊を下がらせて。……レイくん、ハルくん、私の後ろに」
セナは、瞬時に「お母さんの顔」から「冷徹な管理官」へと表情を切り替えた。
事務机の上に置かれた魔導紙を、素早くケースに収め、鍵をかける。
やがて、広場の入り口に現れたのは、金糸の刺繍を施した豪奢な馬車と、武装した私兵たちだった。
馬車の扉が開き、降りてきたのは、肥満気味な体に宝石を散りばめた、いかにも「富の権化」といった風貌の中年男性だった。
「……おやおや。……これは失礼。……夜分に賑やかな声が聞こえたもので、つい吸い寄せられてしまいましたな」
男性は、不敵な笑みを浮かべ、セナに慇懃な一礼をした。
その瞳は、周囲の神話級魔獣たちに一瞬の驚愕を見せたものの、すぐにセナの背後の「商品」へと釘付けになった。
「……私は王都商人ギルドの総帥補佐、ケッテンと申します。……バルト卿から、何やら素晴らしい『紙』がこの地で産出されたと聞き及び、独占販売の商談に伺いました」
「商談、ですって? ……営業時間はとうに過ぎているわ。……それに、私はまだ、どのギルドとも『見積もり』の段階にさえ入っていないのだけれど」
セナは、事務用の眼鏡を光らせ、ケッテンの足元から頭の先までを【鑑定】した。
『個体名:ケッテン。……役職:強欲な交渉人。……状態:野心に満ちている。……所持品:他国の商人との裏契約書、および賄賂用の希少食材』
「……不備の塊ね。……賄賂で口を塞ごうなんて、事務官を舐めないでほしいわ」
「……はて、何のことやら。……私はただ、この聖域の発展のために、最高のパートナーシップを提案しに来たのですよ。……ほら、そこにある白銀の紙。……それを私に預けていただければ、この森を金貨で埋め尽くしてみせましょう」
ケッテンが指し示した魔導紙に、エルフたちが殺気立った。自分たちの魂を込めた作品を、単なる「金貨の種」と呼ばれたことに、彼らの矜持が震えていた。
「……帰ってください。……ママが作った設計図は、……あなたの汚い手で触らせない!」
レイがレガリア・セナを構え、毅然と言い放った。
ハルが低い唸り声を上げ、グーが地響きを立てる。広場を包んでいた祝祭の温度が、一気に氷点下まで下がった。
「……困りましたな。……子供に商談の邪魔をされるとは。……セナ殿、賢いあなたならお分かりでしょう? ……王都のギルドを敵に回せば、あなたの『物流』は一晩で干上がることになる」
「脅迫かしら? ……いいわ。……受けて立つわよ」
セナは、事務机の中から一通の、まだ真っ白な「契約書」の雛形を取り出した。
「ケッテンさん。……あなたが私の『物流』を支配するのではなく、私の『物流網』にあなたが組み込まれる。……それが唯一の、この聖域への『入居条件』よ。……私の提示する条件をすべて飲み干せないなら、今すぐその馬車ごと、境界線の外へデリート(排除)してあげるわ」
セナの放つ、魔力以上の圧倒的な「合理性の重圧」。
ケッテンは、自分の足が微かに震え始めたことに気づき、顔を引き攣らせた。
管理日誌:『第五十案件:魔導紙完成の祝宴、および外来商人の不法接触。
特記事項:ルナによる商人の匂いの検知。……レイくんの、家族の誇りを守る毅然とした態度。
……在庫:最高級の紙、および不退転の交渉術。
……不備:商人の選民思想、および強欲な独占欲。
……さて。明日の朝食までには、このタヌキ親父を『完全な下請け』として教育してやるわ。
……平和な夜の残業代、高くつくことを覚悟なさい。』
月光の下、セナと商人の、言葉という名の「在庫戦争」が、今静かに幕を開けようとしていた。
お母さんが綴る管理日誌の五十ページ目は、聖域が世界を「管理」し始める、最初の宣戦布告となった。




