第29話:月夜の罠と、第一王子の落日
月光が、王都の石畳を青白く照らしていた。
離宮の周囲には、普段よりも少ない衛兵。セナが事前に流した「未明、聖域の重要機密書類を持って秘密裏に移動する」という偽の情報に、食いつかないはずがなかった。
セナは、離宮の応接間に一人座り、温かい紅茶を淹れていた。
その影には、国王から密命を受けたジルヴェールが、気配を殺して潜伏している。
「……セナ殿。……本当に、奴らは現れるでしょうか」
影から漏れたジルヴェールの囁きに、セナはカップを置いて微笑んだ。
「……事務職の基本は、相手の『損得感情』を読み解くことよ。……第一王子にとって、私の持つ管理能力とハルくんの信頼は、喉から手が出るほど欲しい、あるいは破壊したい資産。……必ず、奪いに来るわ」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、離宮の窓ガラスが鋭い音を立てて砕け散った。
黒い装束に身を包んだ私兵たちが、次々と室内へ侵入してくる。その数、十名以上。
「動くな! ……大人しくその書類を渡せば、命だけは助けてやる!」
リーダー格の男が、セナの喉元に剣を突きつける。
だが、セナは眉一つ動かさず、手元の「偽の書類」を指先で弄んだ。
「……あら。……夜分にアポイントメントなしでの訪問、失礼ではありませんか? ……それに、その剣。王家の紋章を削り取った跡が見えますね。……偽装工作も、事務的に言わせてもらえば、三流だわ」
「な、何を……! 死にたいのか!」
男が剣を振り上げた瞬間、離宮の屋根から、凄まじい威圧感と共に赤い閃光が走り抜けた。
「――母様に、触るな」
少年の姿をしたハルが、いつの間にか天井の梁に立っていた。
その瞳は紅く燃え、小さな掌には、触れるものすべてを灰にする守護龍の業火が宿っている。
同時に、テラス側からレイがクラウド・シープたちを引き連れて姿を現した。
「ママをいじめる悪い人たちは、僕が全部捕まえちゃうんだから!」
レイが杖を掲げると、シープたちが放つ強力な静電気が室内を満たし、私兵たちの動きを物理的に封じ込めた。
さらに、寝室の扉が開き、メルディとロレッタが霧吹きのような魔法具を手に現れる。
「……特製のアロマです。……肺胞から吸収されるまで、わずか三秒。……抵抗は無意味ですよ、メルディ」
「はわわ〜! 悪い人たちには、おねんねの刑ですぅ〜、ロレッタ!」
ロレッタが噴霧した紫色の煙が広がり、私兵たちは次々と膝をつき、意識を失っていった。
完璧なまでの「防衛ロジスティクス」。
そして、静まり返った広間に、重々しい靴音が響いた。
離宮の正門から入ってきたのは、激怒の色を隠さない国王と、それを先導するジルヴェールだった。
「……これだけの証拠があれば、もう言い逃れはできまい」
国王の低い声と共に、離宮の庭に潜んでいた「本星」が引きずり出された。
第一王子、エドワード。彼は自分の私兵がセナを拘束した瞬間に、悠々と「救出者」として現れる筋書きを描いていたのだ。
「……な、父上!? ……なぜ、ここに……!?」
顔面を土色に染めて震えるエドワード。
セナは立ち上がり、ドレスの裾を整えると、彼に向かって一歩歩み寄った。
「……第一王子殿下。……あなたが私に仕掛けた嫌がらせ。……そして今夜の強盗および拉致未遂。……すべて、私の帳簿に記録させていただきました」
「……黙れ! ……貴様のような下賤な女が、我が国の政治に口を出すな!」
エドワードがセナに掴みかかろうとするが、ジルヴェールがその腕を捻り上げ、地面に押さえつけた。
「……兄上。……あなたは、セナを侮りすぎた。……彼女は、一国の軍隊よりも正確に、あなたの過ちを見つけ出したんだ」
国王がエドワードを見下ろし、宣告した。
「……エドワードよ。……王族としての矜持を忘れ、客人に剣を向け、あまつさえ国宝たる守護龍の母を害そうとした罪、万死に値する。……其方を本日付で廃嫡とし、一生を地下牢で過ごすことを命じる。……一生、己の過ちを悔いるがいい」
「……あ、……あああああぁぁっ!!」
第一王子の悲鳴が、夜の森に消えていく。
近衛兵たちによって引きずられていく彼の姿に、セナは憐れみの欠片も見せなかった。
修復不可能なエラーデータは「削除」するのが一番の効率化だからだ。
……だが、エドワードが連行され、静まり返った広間に残された国王の姿を見て、セナの心に別の感情が湧き上がった。
国王の肩は、心なしか小さく震えていた。王としての威厳は消え、そこには息子を自らの手で裁いた、一人の老いた父親の悲しみだけがあった。
「……セナよ。……不甲斐ない父、そして国王であることを許してくれ。……其方のおかげで、我が国の膿を出すことができた。だが、……親として、私は間違っていたのかもしれない」
セナは、自分にしがみついているレイとハルの温かな頭をそっと撫でた。そして、事務的な冷徹さを全て捨て、穏やかで包み込むような「お母さん」の瞳で国王を見つめた。
「……陛下。……お顔を上げてください。……親としてのやり直しに、遅すぎることなんてありませんわ」
セナの声は、夜風のように優しく響いた。
「子供は、親が引いた境界線を何度も踏み越えて、自分の居場所を確かめようとするものです。……それを時には厳しく、時には涙を流しながらでも正してあげるのが、親としての本当の愛ではないでしょうか。……今日、あなたは陛下としてではなく、一人の父親として、その一番辛い役割を果たされた。……私は、そう思います」
国王は驚いたように顔を上げた。セナの瞳には、蔑みも合理的な計算もなく、同じく子供を育てる者としての、深く、温かな共感があった。
「……セナ。……其方は、強いな。……私などより、ずっと深く『親』というものを理解している」
「……ふふ。……私も、毎日失敗して、この子たちに教わってばかりですよ。……でも、明日からまた、一緒に歩き出せばいいんです。……陛下、これからは私たちと一緒に、この子たちが笑って過ごせる未来を、一歩ずつ作っていきませんか?」
セナは微笑み、国王の荒れた手を、自分の両手で優しく、力強く包み込んだ。
それは契約の握手ではなく、同じ「親」としての、信頼と再起の約束だった。
「……感謝する。……其方の言葉に、救われた。……明日からは、この王都も、其方たちにとってホワイトな居場所であることを、私が保証しよう」
国王の瞳に、再び確かな光が宿る。
セナはレイとハルを抱き寄せ、テラスから見える夜明け前の空を見上げた。
「ママ、僕、怖くなかったよ! ……ママを守れたよね?」
「……うん。……ママ。……もう、悪い人、いなくなった?」
「ええ、もう大丈夫よ。……二人とも、最高にかっこよかったわ。……ありがとう」
管理日誌の最後の一行。
『第二十九案件:王宮のデバッグ、および不良在庫の廃棄処分。
特記事項:現行犯逮捕にて、完全勝利。
……そして、陛下と「親同士」としての確かな絆を確認。
……収支報告:精神的ストレスの解消、および国家との絶大なる信頼関係の構築。
……さあ、明日はお祝いに、みんなで王都の一番高い場所でおやつを食べましょう!』
王都の空に、ゆっくりと朝陽が昇り始める。
お母さんの事務能力と、それ以上に深い「愛」は、一国の歴史と一人の父親の心を、優しく、そして力強く救い出したのだった。




