第1話:嵐のなかの落とし物と、お節介な定時退社
月曜日の朝九時。大手物流企業、関東広域運行管理センター。
外は大型の台風が接近しており、窓を叩く雨音は刻一刻と激しさを増していた。
「ああっ、もうダメだ! 東名が止まった時点で今日の配送計画は全部パーですよ!」
「サクライ商事から催促の電話が止まりません! 誰か代わってくれ!」
パニックに陥り、頭を抱える後輩たち。殺伐とした空気が充満するオフィスの中で、瀬名だけは、春の陽だまりのような明るい声を響かせた。
「はいはい、みんな深呼吸! パニックになってもトラックは動かないわよ。まずは手元の書類を整理して。順番に捌けば、絶対に定時までに終わるから!」
セナは三十歳。このセンターの「お母さん」的存在であり、運行管理のスペシャリストだ。彼女が「定時退社」を信条にしているのは、単に自分が楽をしたいからではない。
「みんなが笑顔で家族の待つ家に帰る」――その当たり前の幸せを守るために、彼女は事務職としての全能力を注ぎ込んでいるのだ。
「サトシ君、その電話回して。サクライ商事の担当さんは、急かされるのが嫌いなだけだから。私が上手く調整しておくわ」
「でも瀬名さん、もう十時の納品には間に合いませんよ……!」
「大丈夫。物流は点じゃなくて線なの。こっちがダメならあっちを繋ぐ。それが私たちの仕事でしょ?」
セナは受話器を取ると、流れるような手つきでキーボードを叩き、二つのモニターに映る配送ルートを瞬時に組み替えていく。
「あ、お世話になっております! 瀬名です。ええ、雨すごいですね、そちらは大丈夫ですか? ……はい、十時の件、実はご相談が。今のルートだと十五分遅れちゃうんですけど、第二倉庫の方なら十分早く着けるトラックを回せます。ラインの順番、少しだけ入れ替えられませんか? ……あら、本当! 助かります! 今度、美味しい差し入れ持っていきますね!」
魔法のような交渉術。だがそれは魔法ではなく、日頃から現場や取引先と築き上げてきた信頼関係と、膨大なデータを裏付けとした「誠実な代案」の結果だった。
「よし、これで一件落着。サトシ君、ドライバーの阿部さんには私からメールしておくから、君は次の在庫確認をお願いね。数字は嘘をつかないわ。味方にすれば、こんな嵐なんて怖くないわよ!」
セナは困っている同僚がいればすぐに駆け寄り、山積みの伝票を「これはこう、それはそう!」と鮮やかに仕分けていく。彼女の手にかかれば、混沌としていた物流の濁流が、美しく整備された用水路のように整っていくのだ。
彼女の脳内には、常に「みんなが一番楽に、一番安全に働けるスケジュール」が構築されている。
トラブルが起きても、「あら、新しいパズルね」と笑って受け流す強さ。それが瀬名という女性だった。
そして、時計の針が十七時五十分を指した頃。
あんなに荒れていたセンター内は、嘘のように静まり返っていた。全ての荷物は最適なルートに乗り、ドライバーたちは安全な休憩所に誘導されている。
「お疲れ様! みんな、今日は早めに帰って温かいものでも食べなさいね」
セナは完璧に整理された「明日への引き継ぎノート」をデスクに置き、軽やかな足取りでオフィスを後にした。
駅へ向かう道すがら、彼女は自分へのご褒美を考えていた。
(今日は頑張ったみんなに、明日プリンでも焼いて持っていこうかな。冷蔵庫に卵と牛乳あったっけ? あ、帰り道にスーパー寄らなきゃ!)
そんな、ささやかで温かい日常の予定。
だが、運命はあまりに唐突に、その足を止めた。
背後で、激しい雨音を切り裂くような金属音が響く。
大型トラックがスリップし、制御を失ったまま、歩道を歩く人々の方へと突っ込んできたのだ。
「危ないっ!!」
セナの体は、考えるより先に動いていた。
呆然と立ち尽くしていた若い後輩社員を全力で突き飛ばし、自分はその反動でトラックの正面へと投げ出される。
(あ……みんな、ちゃんと帰れるかな……)
最期の瞬間まで、彼女が願ったのは自分自身のことではなく、共に働いた仲間たちの平穏だった。
衝撃。そして、意識は柔らかな光の中に溶けていった。
◇◇◇
「……ん、……う……」
意識の底から浮き上がってくると、最初に出迎えてくれたのは、雨の匂いではなく、鼻をくすぐる陽光と草の香りだった。
ゆっくりと目を開ける。
そこは、見たこともないほど澄んだ青空が広がる、生命力に満ち溢れた深い森の中だった。
(……あら? 私、生きてる? っていうか、ここどこかしら)
身体を起こすと、少しだけ頭がふわふわする。だが、どこにも痛みはない。
自分の手を見ると、心なしか肌が若返っているように見えた。
「夢……じゃないわよね。すごくお腹空いてるし」
セナが苦笑いしながら立ち上がろうとした、その時だった。
「グルルルルッ……!」
茂みの奥から、小さな、けれど必死な威嚇の音が聞こえてきた。
セナは驚いて視線を向ける。そこには、一人の男の子がうずくまっていた。
泥だらけの頬、ボロボロになった服。彼は震える小さな手で、自分の背後にいる「何か」を必死に隠そうとしていた。
「こ、こっちに来るな……! この子は、絶対に渡さない……!」
少年の背後にいたのは、燃えるような紅い鱗を持った、手のひらより少し大きい程度の「生き物」だった。
小さな角、力なく垂れた翼。それは、前世の図鑑でしか見たことがない「ドラゴン」の姿そのものだった。
セナの胸が、ギュッと締め付けられる。
物流センターで、泣きそうな顔をしていた新人ドライバーを見た時と同じ――放っておけない、という「お節介」な本能が燃え上がった。
「あら大変! 二人とも、そんなにボロボロになって……怪我はない?」
セナは、警戒されないようにゆっくりと腰を落とし、優しく微笑みかけた。
その瞬間、彼女の視界に不思議な「ウィンドウ」が浮かび上がった。
『個体名:未登録(人間・幼体)……状態:空腹、軽度の低体温症、不安。早急な栄養補給を推奨します』
『個体名:未登録(火龍・幼体)……状態:魔力枯渇、羽の付け根に捻挫。温熱治療と魔力供給が必要です』
それは、セナが長年愛用してきた管理システムの画面にそっくりだった。
違うのは、管理対象が「荷物」ではなく「命」だということ。
「……怖くないわよ。私はセナ。名前、言えるかな?」
少年は戸惑ったように目を見開いた。自分たちを捕まえようとする大人たちの「欲」に満ちた目とは違う、ただ純粋に自分たちを心配するセナの瞳。
「……レ、レイ。この子は、ハル……」
「レイ君に、ハル君ね。いい名前! 初めまして、よろしくね」
セナはリュック(いつの間にか足元に落ちていた、前世の荷物が入ったもの)をガサゴソと探る。
中には、事故の直前に買ったはずの「プリン」や「サンドイッチ」、そして常備していた「救急セット」が入っていた。
「さあ、まずは現状を整理しましょうか。レイ君はご飯、ハル君は手当て。段取りを組むのは私の得意分野なの。大丈夫、お母さんに任せなさい!」
セナは袖をまくり、明るく笑った。
彼女の新しい「職場」は、この広大な異世界の辺境。
管理するべきは、一人の少年と、一匹のドラゴンの「幸せな未来」。
「定時に帰る場所は……これから一緒に作っていけばいいわよね!」
慈愛に満ちた事務屋セナの、異世界子育てライフ。
その第一歩が、温かな日差しの中で力強く踏み出された。
レイ:セナを慕う人間の少年。テイマーの素質あり。
ハル(ドラゴン):最強の龍の幼体。




