第9話(前編):ママの特訓と、秘密のご褒美
ジルヴェール王子が銀色の背中を森の奥へと消してから、数日が過ぎた。
拠点の周りは、今日も朝から柔らかな活気に満ちている。鳥のさえずりに混じって聞こえてくるのは、パチパチと薪が燃える音と、子供たちの元気な掛け声だ。
「……えいっ! これならどうだ!」
レイが、セナと一緒に作った木剣を大きく振り下ろす。相手をしているのは、遊びに来ていたコボルトの若者だ。レイは王子との出会い以来、自分の中に芽生えた「ママを守りたい」という強い気持ちを、日々の訓練にぶつけていた。
「レイくん、あんまり無理しちゃダメよ。喉が渇いたらすぐに休憩しなさいね」
セナは、洗濯物を干しながら優しく声をかける。
前世では、納期や効率ばかりを気にしていた自分。けれど今は、風に揺れる白いシーツや、一生懸命に汗を流すレイの姿を見ているだけで、胸の奥が温かくなるのを感じる。
「大丈夫だよ、ママ! 僕、もっと強くならないと。あの騎士様がまた来た時に、ちゃんとママの前を塞げるようになりたいんだ」
レイの言葉に、セナは苦笑いしながらも、その健気さに目を細めた。
一方で、ハルは少年の姿のまま、セナの足元に座り込んで少し元気がなさそうに地面を指でなぞっていた。
「ハルくん、どうしたの? 元気がないわね」
セナがしゃがみこんで視線を合わせると、ハルは小さな声で「……キュゥ」と鳴いた。
「……僕、……結界? できない。あのお兄さんが言ってたこと、僕、わかんない。……僕がいないと、みんな、困るの?」
王子の言葉が、小さなドラゴンの心に重くのしかかっていたのだ。自分がいなくなったせいで、遠くの街の人たちが困っている。その「責任」という言葉の意味を、彼は彼なりに受け止めようとしていた。
セナは、ハルの小さな肩を引き寄せ、優しく抱きしめた。
「ハルくん。難しいことは、今は考えなくていいのよ。……結界なんて、立派な名前がついてるけれど、それはきっと『みんなを大好き』っていう気持ちが、形になったものだと思うわ」
「……大好き、の気持ち?」
「そうよ。……いきなり国を守るなんて、そんな大きなことは言わなくていい。まずは、今日のおやつを美味しく作るために、自分の力を楽しく使うことから始めましょう」
セナは、ハルの顔を覗き込んでウィンクした。
「さあ、特訓よ! 名付けて『ママの美味しい温度管理大作戦』。……ハルくん、この鉄板を、じわじわと温めてくれる? 真っ赤にするんじゃなくて、お日様みたいにポカポカするくらいにね」
セナが用意したのは、コボルトたちが持ってきてくれた平らな石の板と、ボウルに入った白くてとろりとした生地。
森で採れた野鳥の卵と、不思議なヤギのミルク、そしてセナが見つけ出した「粉の吹く実」をすり潰して作った、特製のパンケーキの種だ。
「……ポカポカ? こう……?」
ハルが掌を石の板にかざす。最初はボッと大きな火が出てしまい、セナが「ああっ、火事になっちゃう!」と慌てて仰ぐ一幕もあったが、セナの「もっと優しく、綿菓子を撫でるみたいに」というアドバイスで、徐々に火加減が安定してきた。
「そう、上手よ! そのままキープしてね」
セナが熱くなった石の上に、生地をポタリと落とす。
ジューッという軽やかな音と共に、甘い、香ばしい香りがふわりと立ち上った。
「わあ……! いい匂い……!」
特訓を中断したレイが、鼻をひくつかせて駆け寄ってくる。コボルトの若者たちも、生唾を飲み込んで遠巻きに眺めていた。
セナは、表面にプツプツと穴が開いてきたのを見逃さず、木べらで鮮やかにひっくり返した。
現れたのは、これ以上ないほど見事な、きつね色の焼き色。
「……ハルくん、見て。あなたの『火』が、こんなに美味しそうな色を作ったのよ。……これだって、立派な『守る力』じゃない。みんなのお腹と心を幸せにする、素敵な力よ」
ハルの瞳が、ぱぁっと輝いた。
自分の力が、誰かを怖がらせるためではなく、こんなに美味しそうなものを作るために役立っている。その実感が、彼の小さな胸を温かく満たしていく。
「……僕、できた! ママ、僕、焼けたよ!」
「ええ、最高の焼き加減よ。……さあ、レイくんも、お皿を並べて。ご褒美の時間にしましょう!」
セナは、焼き上がったパンケーキを山のように積み上げ、その上に昨日煮詰めたばかりの野いちごジャムをたっぷりと乗せた。
森の木陰。セナ、レイ、ハル、そして近所のコボルトたち。
みんなで輪になって座り、焼きたてのパンケーキを頬張る。
「ふかふかだぁ……。ママ、これ、雲を食べてるみたい!」
「グルゥッ! グルルルッ!」
レイは口の周りをジャムだらけにして笑い、ハルは自分の仕事の成果を噛み締めるように、大切に、大切にパンケーキを口に運んでいる。
コボルトたちも、尻尾をちぎれんばかりに振って、未知の美食に酔いしれていた。
セナは、みんなが笑顔で食べている様子を眺めながら、自分も一口パンケーキを口にした。
前世のコンビニパンも美味しかったけれど、この森で、この子たちと一緒に作った味は、何倍も、何十倍も優しくて力強い。
(……理屈なんて、後回しでいいわよね。まずはこうして、美味しいものを食べて、笑って……。その安心感が、この子たちの『力』になるんだから)
セナは、ハルの頭を撫で、レイの肩を抱き寄せた。
王子が言っていた「結界」が何なのか、セナには正確にはわからない。
けれど、この温かな食卓の光景こそが、どんな魔法よりも強く、この場所を守る「結界」になっているような気がした。
「ママ、僕、もっと頑張るね。……もっとハルと仲良くして、二人でママを守るんだ」
レイが力強く宣言する。その横で、ハルも力強く頷いた。
セナは、二人の小さな騎士たちを誇らしく思い、最後の一切れのパンケーキを口に入れてあげた。
「ええ。期待してるわよ。……でも、その前に。……食べ終わったら、お皿洗いも手伝ってね。それが、我が家の『特訓』の締めくくりなんだから!」
セナの明るい笑い声が、午後の森に響き渡る。
魔獣の楽園は、おやつの香りと共に、また一つ、温かな絆を深めていく。
だが、その平和な空気を切り裂くように、一羽の伝書鳥が、隣国の方角から空を飛んできた。
セナたちの頭上を通り過ぎ、拠点のポスト(コボルト製)へと舞い降りる。
それは、王子からの定期連絡――そして、新たな「家族」の訪れを告げる報せだった。




