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-第一審- 独白、そして。

正義とは、近づかないことだとアストライアは知っていた。


善悪を量るためには、距離が必要だった。

声を聞きすぎてはならない。

事情を覗きすぎてはならない。

まして、心に触れてはならない。


私自身はただの正義という名の舞台装置なのだと。


天秤は、重さだけを告げればいい。

そこに至るまでの理由など、正義には不要だ。


それが、彼女が長い時をかけて守ってきた原理だった。


人間界は、今日も変わらない。

争いがあり、祈りがあり、裏切りがある。

神殿の高みから見下ろせば、それらはひとつの流れに過ぎない。


アストライアは、人間を嫌ってはいなかった。

同時に、好いてもいなかった。


人間とは、正義が作用する対象。

それ以上でも、それ以下でもない。


少なくとも、これまでは。


その日、彼女の視線はひとつの戦地に留まった。


瓦礫だらけとなり今にもふたたび軍事的衝突が起こるであろう街の一角。

戦地となったこの街から逃げ遅れた者たちの中に、一人の男がいた。自分の居住地を守ろうとしているのだろうか。


過去にも罪を犯した者だと、すでに天秤は告げている。

自身が生きるために他人から奪い、蹴落とし分け与える事を選ぶ事をしなかった者だと。


本来なら、そこから先を見る必要はなかった。

判定は下っている。

あとは結果が現れるのを待つだけだ。


それでも、アストライアは目を離さなかった。


なぜだろうか。

理由は見当たらない。

正義に照らして、特別視する根拠は何ひとつない。


それなのに。

男は、逃げなかった。


それだけなら、珍しい話ではない。

恐怖で足がすくむ人間はいくらでもいる。


だが、彼の背後にあるものを、

アストライアは見てしまった。

子ども。

震えながら、彼の衣にしがみついている。


「……だからか」


思考が、勝手に言葉を作った。

理由を与えようとするのは、正義にとって不要な行為だ。


彼女は自分にそう言い聞かせる。


理由は関係ない。

守ろうとしたからといって、これまで罪が消えるわけではない。


そう、理解している。


理解しているはずだった。


視界に、男の過去が重なる。

選択の連なり。

避けられたはずの分岐。

そして、避けられなかった夜。

今に至り、見ず知らずの子であろうと庇う姿。


過去に悪き行いをした者の善行は、そのほかの人間よりも良い行いに見えるという。今まさにその状況に陥っている。


アストライアは、かすかに眉をひそめた。


見すぎている。

これは、正義の仕事ではない。


だが、目を逸らすという選択肢が、

なぜか思い浮かばなかった。


「……いつからだ」


彼女は自問する。


いつから、

人間の行為を「結果」ではなく、

「過程」として見始めてしまったのか。


天秤は、揺れていた。


ほんのわずか。

人間には気づかれない程度に。

それでも、神である彼女には明確だった。


ありえない。

正義は揺れない。


揺れるのは、感情だ。

人間の心だ。


では、今、揺れているこれは何だ。


アストライアは、答えを出さなかった。

出すべきではないと、本能的に理解していた。


答えを出せば、

もう元の場所には戻れなくなる。


剣に手をかける。

「裁定を下す。被告人…」

裁くことはできる。

今なら、まだ。


そう思いながら、

彼女は剣を抜かなかった。

それは初めてのことだった。


裁きを保留にするなど、

正義の神として、あってはならない。


それでも、剣は鞘に収まったままだ。


「……私は、知りすぎてしまったのかもしれない」


誰に聞かせるでもなく、言葉が零れる。


動機を知り、

弱さを知り、

それでも選んだ行為を知ってしまった。


それは、正義にとって

不要で、過剰で、危険な知識だった。


アストライアは、まだ気づいていない。


この瞬間が、

正義を捨てる始まりであることを。


そして、この人間が、

やがて彼女に「裁けなくなる理由」になることを。

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