封じられた書庫と、二つの心
ルミナリエ書庫を出ると、空はすでに赤く染まっていた。
西の地平に沈む陽が塔の影を長く伸ばし、石畳の上で淡く揺らめいている。
ヒカルは胸の奥に残る鼓動を確かめるように、そっと手を当てた。
――心核。
それは単なる装置ではなく、この町の“心”そのものだった。
そして、自分の中にも、その力が流れている。
「……心を映す鏡、か。」
書庫の奥で見た光景が脳裏に蘇る。
人々の想いが重なり、塔が息づいていたあの時代。
けれど今のルミナリアは、恐れと疑いの影に覆われている。
自分が動かなければ、町は再び沈んでしまう――その確信が、ヒカルを静かに駆り立てていた。
塔の前の広場には、セリアとリートが待っていた。
セリアは肩をすくめて微笑むが、その笑顔の奥にはわずかな緊張がある。
「……やっと戻ってきたのね。書庫、どうだった?」
「すごかった。町の記憶が全部、生きてるみたいだった。……それに、塔の正体も。」
セリアのまつげがわずかに揺れた。
「……何を見たの?」
「“心核コア・ルミナ”。塔の中心にある、町の心そのものだ。
帝国がそれを封印して、“感情の流れ”を止めたって書いてあった。」
セリアは黙ったまま、目を閉じる。
風が彼女の髪を撫で、灰銀色の光が一瞬だけ閃いた。
「やっぱり……知ってしまったのね。」
「知ってるって、まさかセリア……最初から……?」
ヒカルが言いかけた瞬間、セリアは目を開いた。
その瞳には、迷いのない静かな光が宿っていた。
「私は、塔の管理者の家系に生まれた“継承者”よ。
でも、帝国が攻めてきたとき、家は焼かれ、記録も封印された。……それを知られたら、私は――」
言葉が途切れた。
その震えをヒカルは見逃さなかった。
「だから黙ってたのか。俺が塔と共鳴した理由も、セリアは……」
「分かってた。でも、あなたがそれを知るには、早すぎると思ったの。」
セリアの声は強く、しかしどこか悲しげだった。
「共鳴者は、心を開いた分だけ“世界の痛み”も感じる。
あなたが今、見えない涙を流してるのも、その証よ。」
ヒカルは言葉を失った。
彼女の言う“痛み”――それは確かに、塔と繋がった瞬間に感じたあの苦しさだった。
誰かの絶望、誰かの祈り、誰かの失われた想い。
それらが全て、自分の胸に流れ込んできた。
「……それでも、知りたい。俺はこの町を守りたいから。」
セリアはふっと微笑んだ。
「本当に頑固ね、あなた。」
その時だった。
塔の上空に、黒い影が走った。
瞬間、空気がざわめき、鐘の音が町中に響き渡る。
「帝国の旗……!」
リートが叫ぶ。遠くの丘の上に、鋼の兵団が姿を現していた。
鉄馬の蹄が地を揺らし、空を渡る飛行艇の影が塔の光を覆う。
ヴェルザーク帝国が、ついにルミナリアへと進軍してきたのだ。
「やっぱり、来た……!」
セリアが小さく息を呑む。
「このままだと、書庫が狙われる。あそこには、心核に関する記録が全部残ってる……!」
「じゃあ、隠そう。俺が――」
「だめ!」
セリアの声が鋭く響いた。
「書庫は“封印”する。もう誰にも触れさせないように。」
「封印って……どうやって?」
セリアは懐から古びた鍵を取り出した。銀色に光るその鍵の先端には、エンハートの紋章が刻まれている。
「この鍵は、塔と書庫をつなぐ唯一の“心路”を閉ざすためのもの。
使えば、書庫は時の狭間に沈む。誰も入れなくなる……私たちでさえ。」
「そんな……! じゃあ、あの中の記録も全部――」
「残すより、守ることが先よ。帝国に奪われるくらいなら、永遠に閉じる方がいい。」
ヒカルは唇を噛んだ。
セリアの目には、決意と痛みが混ざっている。
彼女もまた、この町を守るために犠牲を選ぼうとしているのだ。
「……分かった。でも、俺も一緒に行く。せめて最後に、書庫の“心”を見届けたい。」
セリアはうなずいた。
「なら、急ぎましょう。」
***
夜、ルミナリエ書庫。
静まり返った空間に、二人の足音だけが響く。
書棚の間を抜け、中央の円環へとたどり着く。光の玉たちはまるで息を潜めたように、わずかに揺れていた。
セリアが鍵を掲げると、天井に浮かぶ紋章がゆっくりと輝き始めた。
光が渦を巻き、書庫全体が微かに震える。
「ヒカル、ここで“想い”を重ねて。封印には、二つの心の共鳴が必要なの。」
「二つの……?」
ヒカルは一瞬戸惑ったが、すぐに理解した。
――碑文に刻まれていた言葉。
『二つの想いが重なりし時、塔は真の調べを奏でる』
「……そういうことか。俺とリート、だよな?」
ヒカルが振り向くと、セリアは一瞬だけまぶたを伏せた。
「違うわ。」
「え……?」
「“二つの想い”その片方は、私よ。」
「どうして……セリアが?」
「エンハートを護る者として、“心核”に触れられるのは血の契約を持つ者だけ。けれど、封印を再び動かすには、あなたみたいに、外から光をもたらす“共鳴者”が必要だったの。」
ヒカルは息を呑んだ。
――塔を護る者と、塔に呼ばれた者。
それが、碑文の言う「二つの想い」。
セリアはそっとヒカルの手に触れる。
彼女の掌は驚くほど温かく、震えていた。
「私は、この塔と共に生きてきた。
でもね……本当は、誰かと心を重ねることが怖かったの。
エンソウルが失われてから、ずっと……自分の想いなんて、もう意味がないって思ってた。」
「セリア……」
「でも、あなたが来てから、少しずつ変わったの。光を信じて、想いをつなげることを……もう一度、信じたいと思えた。」
ヒカルは目を閉じ、胸の奥に浮かぶ想いを放つ。守りたいという気持ち。リートの笑顔。セリアの決意。すべてを光の流れに乗せ、差し出すように。
セリアもまた、目を閉じて祈る。
「どうか、この町の記憶を……汚させないで。」
光が二人の胸の間で重なった。
塔の共鳴音が微かに響き、書庫全体がまばゆい輝きに包まれる。
やがて、それは静かに消えていった。
扉の前には、ただ石の壁だけが残されていた。
ルミナリエ書庫は、時の狭間へと沈んだのだ。
「……終わったの?」
「ええ。これで、帝国も触れられない。」
セリアは疲れたように微笑む。
「でも、代わりに失ったわ。過去を学ぶ道を。」
ヒカルは首を振った。
「違う。書庫は消えたけど、心は残ってる。
だって、俺たちは今確かに“共鳴”した。」
その瞬間、塔の頂がわずかに光った。
まるでエンハート自身が、二人の想いを讃えるかのように。
「……感じた?塔が、応えた。」
「ええ。たぶん、これが“始まり”よ。」
セリアが空を見上げる。
雲の向こう、遠くに黒い影、帝国の飛行艇がいくつも浮かんでいる。
だが、その影を見つめる彼女の瞳は、もう恐れてはいなかった。
「ヒカル。次は、奪われた心核を取り戻すわ。」
ヒカルも同じ空を見上げた。
「そうだな。あの封印を解かなきゃ、ルミナリアは本当の光を取り戻せない。」
二人の間に、確かな光が生まれる。それはまだ小さく、儚い灯りだったが確かに、ルミナリアの夜を照らしていた。
そして、遠く帝国の軍旗の下で、ひとりの将校が呟いた。
「封印反応、確認。……なるほど、“心路”を閉ざしたか。
面白い。では次は、心核そのものを取りに行こう。」
彼の瞳に映るのは、冷たく青い炎。
その名を、帝国最強の部隊――“灰の翼”と呼んだ。
ルミナリアに迫る新たな夜が、静かに幕を開けようとしていた。




