濡れた傘の女【夏のホラー2025】
午後十時を回ったころ、斉藤直樹は仕事帰りの電車を降り、最寄り駅の改札を出た。細かい雨がしとしとと降り続き、街灯の明かりに濡れたアスファルトが鈍く反射している。
駅前のコンビニでタバコを一箱買い、くたびれたスーツのまま、家まで十五分ほどの帰り道を歩き始めた。通い慣れた住宅街の道だ。だが、今夜はどこか違う。
電柱の上で、カラスが鳴いた。季節外れだ。空気は妙に湿り気を帯び、生ぬるく肌にまとわりつく。不快な夜だった。
角を曲がったとき、不意に視界の端に誰かの姿が映った。
女だった。
傘も差さず、びしょ濡れのまま、ただじっと道端に立っていた。肩までの黒髪が顔に張り付き、足元には水たまりが広がっていた。
「……こんな時間に……」
直樹は気にしないふりをして通り過ぎようとした。だが、足音が後ろから付いてきた。ぴた、ぴた、と水を踏む音が背中に張り付いて離れない。
振り返った。誰もいない。
だが次の瞬間、足元の水たまりが波打った。自分の靴が動いていないにも関わらず、水面だけが震えた。
息を呑む。
再び前を向いた。
目の前に、さっきの女が立っていた。
傘を差していた。赤いビニール傘。その傘から、黒く染まった水がぽたぽたと垂れていた。――いや、血だ。確実に、血の臭いがした。
直樹は叫びそうになったが、声が出なかった。
「……返して」
女が言った。濁った声だった。まるで水中から響いてくるような、耳の奥を揺さぶる声だった。
「返して、返して……あなたが殺した……」
女の顔はひどく歪んでいた。眼窩が崩れ、片目が潰れ、口が裂けていた。
背を向けて逃げ出した。
水音が追いかけてくる。何度も、ぴちゃ、ぴちゃ、と足音がついてくる。角をいくつも曲がったが、気づけばまた同じ道に戻っていた。駅前の道、傘の女がいた場所――。
まるでそこから抜け出せない。
直樹は震える手でスマホを取り出し、警察に電話しようとした。だが、画面は濡れていて、操作できない。よく見ると、画面の中に、女の顔が映っていた。画面越しに、女が笑った。
「見てしまったね」
その声を最後に、直樹の意識は闇に沈んだ。
◆ ◆ ◆
翌朝、通勤途中の通行人が、駅前の水たまりの中で発見した。顔を下にしたまま、動かない男の遺体。ポケットには折りたたんだ赤いビニール傘が入っていた。
監視カメラには、不自然な点が一つあった。直樹が夜道を歩く映像。彼の後ろに、常にもう一人、びしょ濡れの女が映っていた。だが、誰も、そちらを見てはいなかった。
その道は地元でも「夜に通ってはいけない道」として知られるようになった。
誰かが雨の夜にその道を通れば、ぴた、ぴた、と濡れた足音が聞こえるのだという。
振り返ってはいけない。見てはいけない。
――傘を返せと、誰かがすぐ後ろで囁くから。
#ホラー小説 #短編