9.神社
その神社は見るからに寂れていた。
社殿では千切れかけた紙垂が風にはためいている。鈴は黒ずんで、しなびた梨を思わせる。その鈴に添えられた麻縄はケバだっていて、近くの桜の木から伝って来たらしい毛虫が熱された石畳で苦悶に蠢いていた。
手水所の水面には落ち葉が浮かんでいる。唯がそっと落ち葉を拾い上げ、芯を摘まんでくるくると裏表と回転させた。
「からくれないに、みずくぐるとは」
神社の由来など、そういったことは一切かかれていない。石でできた鳥居には何かしら文字が刻まれているが、それも風化で読めなくなっている。プレハブ小屋のような社務所には、不在と書かれた紙が貼り付けられている。
神社は車道から階段を上がったところだが、その周辺も時代から取り残されたように見える。雑草が生い茂る空き地には、塗装の剥げた不動産の看板が辛うじて立っていた。
寂れた土地で唯一目を惹くのは電話ボックスだ。
今ではほとんど見かけない緑色の公衆電話が、恋人を待ち続ける男のように所在なさげに突っ立っている。
「本当にこの神社なの?」
「あの地図の通りならな」
「学校から、一番近いから?」
さすがにそれは思いつかなかった。
「この神社周辺が、殺人事件の現場になったんだ」
「偶然じゃない?」
「使われたのはガソリンで、被害者は生きたまま焼き殺された」
視界の端で、唯が口元を覆うのが見えた。
「被害者は学生時代、札付きのワルだったらしい。現場に残っていたのは被害者の大型バイクだったが、ガソリンは満タンだった。となると、加害者側があらかじめ用意したんだろう。すぐに実行できるように」
「そんな準備で臨んだなら、なおさらこの神社と関係があるかどうかわからないわよ」
ネットで調べた、事件の概要について読み上げる。
「『被害者は午前二時頃にこの神社に呼び出され、殺害されたものと思われる』これは警察発表だから、信憑性は高い」
「だとすると、なおのこと、一連の事件がおかしなものに感じられるわね」
「ああ」
誰にも目撃されない完全犯罪。
神社というスピリチュアルな場所で、力を借りることができるというウワサ。
実際にその周辺で行われた、猟奇的な殺害方法。
神社という『ケガレ』を嫌う場所で行われた凄惨な殺人。
これに違和感を覚えるのは個人的な感傷だろうか?
「小学生の『おまじない』がそのまま事件に繋がっているみたいでな」
「超常的な力が関与しているから、事件が今まで未解決のまま、とでも?」
「それが事実なら、すべての未解決犯罪は説明可能になるな」
透明人間によるステルス殺人。
壁抜け男の密室殺人。
俺はオカルトについて肯定もしないし否定もしないが、実際に『物理的に』起こった事件の解明にオカルトを持ち出すのは屁理屈だと思う。
いや。そうじゃない。
自分の傷跡を、学ランの上から握り込む。
この傷が、ユーレイだかなんだかにやられたなんて、とてもじゃないが信じられない。信じたくない。
己の恋人を守るため、体を張って立ち向かった澄田徹が、そんな曖昧な存在に殺されたなどと、考えたくないだけだ。
唯が、顎の輪郭を人差し指でなぞる。
「神社にやってこさせる方法。閲覧者が明確な殺意を持って、神社に行く」
自分の考えをまとめるように言葉を紡ぐ。
「ウェブサイトの文面、神社を示唆する単語の羅列。そのあとに続く匿名の、殺人の請負を始めたという匿名のタレコミ」
最初の殺人はともかく、例年の、未解決という実績から、行くだけの価値はあると考える、とする。
その時後押しとなるのは、神社というスピリチュアル的なバックグラウンドではなく、少々無理があるとしても、『引きこもりの殺人請負人』すなわちヒットマンの存在だ。
呪術的殺人によって完全犯罪ができる、と煽られたところで、それを信じる人間はそう多くはない。
「……サタデーナイト?」
「なんだと?」
唐突に、唯が思い出したように呟いた。尋ね返す俺に、唯が早口に言う。
「叔父さんからの手紙よ。サタデーナイトを探せって書いてあったでしょ? そして、『都市伝説』について調べるのも一興だって」
「ああ……」
ちらっと見た程度の文面をよく覚えているものだ。唯は緊張を紛らすようにまくしたてた。
「牧野さんもサタデーナイトという単語を口にした。彼女がそれを人名として用いたのか、土曜日として用いたのかはわからない……それを狙ってビフォー、なんて付け足したのかもしれないけれど」
「だが、牧野はサタデーナイトについて知っている」
おそらくは、人物として。
「安直に考えるなら、サタデーナイトとは、言葉通り『土曜日の夜』と受け取ればいいわけだ。人物名も、そこから取られたとしたら」
結論を先回りすると、唯は大きく頷いていた。
それが引きこもりのAの俗称かどうか、そもそも本当に存在するのか、ここで会えるのか。
疑問が吹き荒れる。
俺たちは一体、何を証明しようとしているのか。
何のために。
すうっ、と風が神社の境内を抜けていった。何とも言えない、夏独特の香りが鼻をくすぐる。
思い出すのは、布津の涙だ。
商店街のアーケード。ところどころ屋根はついているが、現場にはなかった。
フルフェイスのヘルメットが逃げていく。転びそうな、滑稽な背にタックルでもしてやれば、そいつの正体を明らかにしてやれたかもしれない。
しかし、体はいうことをきかなかった。
脅威は去った。その安堵が、痛みを受け入れろと囁いた。
お前は頑張った。血まみれになって、一人の女子を救った。犠牲者は最小限になった。誰がお前を責めるというんだ。
噴き出した血が体から熱を、力を奪い取っていく。もうすでに、ヘルメットは見えなくなっていた。
ぎらぎらとした太陽が肌を刺す。俺たちの惨状に気づいた通りすがりが駆け寄ってくる。聞こえるか聞こえないか程度の、カチカチ、ボタンを押すような耳障りな音。逆光に見えない影。掲げられた腕。
それらを塗り潰す布津の嗚咽。澄田徹の胸元に縋り、子供のように泣きじゃくるのは、悲劇のヒロインになってしまった少女だった。
風に飛ばされてきた若葉が、ぴしゃりと顔を叩く。一旦目を瞑り、深呼吸した。
何をするべきかがわからなくとも。
何をしたいかは思い出した気がする。