21.居場所
事務所は閑散としていた。完全な無人だ。
マーロウや、アーチャーと言った探偵たちが帰って来るのは、きっとこういう場所なのだろう。
誰も待っておらず、精々が次の依頼人だけ。一時の休息のための場所として、事務所やアパートで眠り、事件の手掛かりを求めて出かけていく。
彼らは24時間ずっと、フィリップ・マーロウ、リュウ・アーチャーであり続けるのだろう。
彼らには『家』や『事務所』が普通の人々のようには機能していない。
それが彼らの生きざまで、そういう風にしか生きられない悲哀でもある。
その片鱗をなぞったような気がして、ぞっとした。
今まで憧れていた、秘密基地のような場所が、何かスイッチを切り替えたように一転、不気味な場所に思えてきた。
叔父の憧憬と、俺の憧れ。幻滅と孤独。
悪いことに、俺は失望すら上塗りしなければならないかもしれない。
デスクのいちばん上の引き出しは鍵つきだ。その鍵だけは託されなかったから、ずっと、鍵がかかったままだと思っていた。
しかるべき時、叔父が帰ってきて、この場所の秘密を開けてくれるのだろうと、そう思っていた。
しかし、その幻想ももう過去のものだ。
病院での嫌な予感以来、無意識に行動していた。
まるで、自分以外の誰かが体を操っているかのように。
引き出しに手をかける。抵抗もなく開いた。
茶色の油紙に包まれた拳銃が、当然顔でそこに仕舞ってあった。
「ホンモノ?」
油紙から引っ張り出してあちこちと触れてみる。
千円で買えるおもちゃよりは頑丈で、サバゲーのガスガンよりはちゃちに見える。
それが本物なのか、偽物なのか、まったくわからない。
傷一つない新品なのに、フレームのあちこちがガタついている。シリンダーもうまく回転せず、妙なところで引っかかったりする。
中折れ式の弾倉に弾を込める。
神社の裏や、病室で拾ったものだ。
血の付いた鉄球。となれば、この拳銃は、本物ではないはずだ。
しかし、撃鉄を起こした途端、拳銃が本物に変貌した。
グリップは手に喰いつくようで、ぴたりと離れない。粗悪な出来のくせに、ずしりと重い。引き金も、持ち主の覚悟を問いかけるように、指一本ではそうそう引けない。
「頼みがあるんだが」
すべてを見守っていた唯に声をかけると、彼女は飛び上がった。
「なに?」
「俺の携帯に、小澤さんと恵麻さんの番号が入ってる。二人に、事務所に来てくれるように伝えてくれないか」
「吉川は?」
「コイツを――いや。『サタデーナイト』に会ってくる」
「……できるの?」
わからない。
「そう願うだけだ」
彼女は出ていった。すりガラス越しに、なおも彼女の影が見えたが、しばらくして見えなくなった。
唯を追い出してなお、決心はつかなかった。
自分がやろうとしていることは、何の裏付けもない、願望に等しいそれだ。
ここには誰もいない。
探偵も、犯人も――あるいは事件すらも存在しないかもしれない。
だが拳銃はある。唯一実在する、確かなもの。
そのギャップがこちらを惑わせる。
銃も、その弾も、サタデーナイトへの道標ではなく、単なる凶器に過ぎないかもしれない。
決心がつかない。腕を下ろすと、銃の重みにそのまま腕をもっていかれそうになった。
デスクチェアを回転させ、商店街のアーケードを見下ろす。
布津の病室にもあった鉄球。神社にもあった。
布津が最初に殺されそうになった時、俺はここで彼女の悲鳴を聞いた。
幻想はすでに砕けた。
幻の、その残滓をずっと追いかけていた。
探偵はどこにもおらず、犯人もいない、あるいはわからない。
そうだ、確かにコレは、事件ではなかった。
この事務所に帰ってきたとき。
いや、それどころか。
音羽布津という被害者が生まれ、探偵と呼ばれることを拒否したときから、既にここに座る資格はなかったのだ。
だからこの引き金を引くのは、探偵としてではなく、依頼人としてだ。
椅子を降り、ぐるりとデスクを回った。クリスタルガラスの灰皿が置かれた、依頼人用のソファに腰かける。もう躊躇わなかった。
かつてそこに君臨していたであろう、デスクの主。
その影と向かい合うようにして、銃口をこめかみに押し付け、力任せに引き金を引いた。




