14.電話
傷んだ石畳がぐらぐらと揺れる。突き飛ばされるような衝撃が、爆発を物語る。振り返れば、赤々と揺らめく炎が闇を切り裂き、黒煙が吹き上げていた。
ひどい臭いだった。本来燃えるべきでないものが燃えている、刺激臭。
俺と記者が駆けだしたのはほとんど同時だった。鳥居をくぐる直前に、脇から飛び出してきた唯に記者が目を剥くが、無視した。
「何かわかるか?」
唯は首を振り、車道を顎で指し示す。
燃えているのは横転したバイクだった。車道を滑っていったらしいそれは、近くの田んぼで派手に炎上している。近くには投げ出されたライダースーツの運転手が一人。
そして、その少し離れたところでもう一人、少女が倒れている。
バイクは電話ボックスを巻き込んだらしく、ひどいありさまだ。
巻き込まれた少女はさらに無残な状態だった。服のあちこちが煤で汚れ、一部は焦げている。顔にボックスのガラスが降り注ぎ、無数の破片がキラキラと輝く。
その中でも特に大きな破片が、彼女の左目に突き刺さっていた。濁った眼球が本人の意志に関わらず目まぐるしく動き、血の涙が滴る。
――俺はまた、彼女を巻き込んだ。
「布津――」
倒れている後輩に呼びかけても、ピクリとも動かない。
轟々と燃えるバイクを前に、声をなくす。
すべての光景が現実離れしていた。
唯が耳元で怒鳴った。救急車。スマホを取り出すより早く、唯が電話を掛け始めていた。もう一人の同伴者は歓声を上げ、燃えているバイクや投げ出されたライダースーツの人間を写真に収めている。
そしてそのレンズは、俺たちにも向けられた。
二度、三度。
極力動かさないように布津を抱き上げた俺の姿はひどく間抜けなものに見えたに違いない。
唯が片耳を押さえ、スマホに怒鳴る。恐る恐ると言った様子で降りてきた坪木たちが、現場の光景を魅入られたように見つめている。フラッシュに晒されてもなお、動こうともしない。
その時、布津が腕の中で身じろぎした。またも流れる血の涙。
痛みを感じている様子はない。もう片方の目はまっすぐ俺を射抜いていた。まるで俺がここに来たことを、布津は知っていたかのように。
彼女の口が開く。何か言った。覆いかぶさるように耳を寄せる。
でんわ、
「大丈夫だ。救急車なら、すぐに――」
布津は反応を示さない。うわごとのように繰り返す、でんわ、という単語。
布津はどういう少女か。
自分の痛みに、助けを求めるような少女ではない。
それは、誰よりも俺が知っている。
だったら、救急車、という意味にはならない。
ここにあるのは、バイク事故に巻き込まれた、公衆電話。
俺の視線の先に気づいたのか、満足したように口元を緩めた布津は、もう一度、でんわ、と呟いて気を失った。
「その子、なんだって?」
フラッシュが止み、男が大股に駆け寄ってくる。
できるだけ優しく彼女を寝かせ、彼女の言う「でんわ」を見上げる。事故に巻き込まれ、ボックスは見るも無残な姿になっている。
ガラスは砕け散り、もはや箱の体を成していない。フレームも大きく歪んでいて、電話ボックスが丸ごと横転しなかったのが奇跡だと思えるほどだ。
そして肝心の電話は、外壁がどれだけ破壊されようとも、そこにあるのが当然と言わんばかりに立っている。
タウンページが灰になり、受話器は外れてぶらぶらと揺れている。エラーを起こしたのか、パネルが滅茶苦茶に点滅している。
唐突に、音が聞こえた。
決して聞こえるはずのない音、日常でも滅多に聞かない音。
そして、この状況ならなおさらあり得ない音だ。
着信音。
受話器が外れた公衆電話が、呼んでいるのだ。
気が付けば、もはやどこがドアになっているかわからないボックスに、体を滑り込ませていた。僅かにへばりついていたガラスがワイシャツをひっかけたが、それすらも気づけなかった。
俺は受話器を手に取り、握った手ごたえを確かめ、耳に当てた。
『「サタデー・ナイト・フィーバー」とはよく言ったものだ』
聞こえるはずのない声が、受話器越しに囁いた。落ち着いた男の声だ。
『随分と派手にやらかしてくれる。己の選択を悔いるのは良いが、それを人のせいにするとはな』
何を言っている、と言おうとして、言えない。
どういうわけか、口を開けないのだ。電話の声は一方的に話しかけてくる。
『トラボルタはインサイドからアウトサイドへの道筋を見出した。下町のハリウッドスター、メッキだらけの人気者よりも、社会における自分の位置を再定義するために、ゼロから始めようとしたわけだ。親の庇護も、名声も、知人も、何一つない中で。
お前たちはどうだ? 眼差しは己自身に向けられ、社会的成功がそのまま幸福へとつながると考えている。これ以上失うものがないといいながら、プライドだけは守ろうとする』
電話の主の、話の意図が読み取れない。
『多くの人間がここで受話器を握った。多くの人間が囲っていたのは自分自身だった。そこで、自分自身と向き合えるように仕向けてやった。
その途端、ほとんどがそれを放棄した。敵前逃亡だ。自分も社会も、境界も輪郭も曖昧になる中で、唯一奴らが自分の幸福とアウトサイドからの防衛に選んだのは、排除だ。
自分の嫌いな人間を殺害することで、少しでも環境を楽にしようとした。殺人というタブーを犯すことで、一種の特権的地位を埋めようとした。所詮、すべては自分のためだ』
男の声が水のように流れる。頭の中がぽっかり空洞になっているようで、考えることも、問いただすことも、何もできない。
俺はすべてを受け止めるだけだ。
『それで――』
歯を食いしばる。何を投げつけられるのか? じっと息を殺し、待った。
「お前はどうなんだ?」
声は受話器からではなかった。すでに電話は沈黙していて、肉声が後ろから聞こえてきた。
闇の中に男が立っていた。目深に帽子をかぶり、手には拳銃を握っていた。回転させ、弄ぶ銃口が俺を捉えた。
無意識に射線から逃れようとして、ぶつかった。ガラスに阻まれたのだ。
手を伸ばせば壁がある。事故などなかったかのように、電話ボックスは檻として、閉鎖空間を確立させている。
バイクはさらに燃え盛る。唯は大声でスマホに怒鳴り、倒れた布津をカメラに収めている記者を殴り倒し、坪木たちは当てもなく視線をさまよわせる。
その一部始終が、すべてガラスによって隔てられていた。
男は迫ってきた。一歩、二歩。
道中、ふらふらと立ち上がろうとする記者とすれ違うも、記者は男など見えていないらしく、注意すら向けない。
俺は受話器を握ったまま、銃口を見つめていた。
男の銃が、ガラス越しに俺の額に突きつけられていた。
男の親指が撃鉄を起こし、シリンダーが回転する。
銃声が響いた。
バイクの燃える音よりも、唯が怒鳴る声よりも、記者の特ダネに沸く声よりも。
それらの喧騒すべてを吹き飛ばすような銃声が、その一帯を占めた。