13.異変
ガタリ、と物音がしたのは、ちょうど風音が遠ざかった頃だった。
音につられて視線を向ければ、先ほどまで背景と化していた社殿が構えている。誰となく顔を見合わせ、女子グループが無意識に身を寄せ合った。
空耳だろうか、という期待も、一瞬で破られる。
ドン、と壁を叩く、鈍い音が閑散とした参道に響いた。
突如本殿に電気が灯った。かと思いきや、すぐに消え、でたらめに明滅する。内部に飾られた神々の絵画に陰惨なコントラストが浮かび上がる。
ぺたぺたぺた、と裸足で這いまわるようなかすかな音と、壁にぶつかる音、苛立ちとともに壁を叩きつけるような暴力的な音。
まるで、本殿の中に興奮した猪でも放り込んだかのようだ。
少女たちは空気に呑まれて動けなくなっている。
息を整えた。スマホを胸ポケットに仕舞い、ボールペンを握り込む。さりげなく指に挟んだそれを携えて、本殿の方へ向かった。
「ちょ、ちょっと!」
無視した。
これはサタデーナイトとやらでも、呪いや殺意でもなんでもない。
ただの、悪趣味なドッキリに過ぎない。
側面から回り込み、引き戸を一気に開け放つ。
本殿に金具を留めるような暴挙をやっておける奴が、本殿に自前の鍵をくっつけるような真似をしていないのは意外だった。
「あら、バレた?」
あっけらかんとした口調で現れたのは、一人の中年だった。
バカでかいカメラをぶら下げた、アロハシャツの男。一昔前の日本人観光客のステレオタイプだ。
しかし、この街の観光客は、記者と言い換えることができる。
メディアリテラシーの発達を信じるならば、この街で起こっている連続殺人事件を取材するような悪趣味な輩は、恐竜時代の遺物のはずだが。
「君たちはどうしてここにいるのかなぁ?」
大人の貫禄か、あるいは弱みを握った優越感か。
居丈高に、お前がここにいる理由を知っていると言わんばかりだ。
「一応、ここの神社はうちの中学が管理しているものでしてね」
記者らしき男に、答えて見せる。
「夜な夜な変な音がするっていう苦情があったもんだから、クラスメイトを誘って肝試しついでに来てみれば、このありさまというわけです」
一息ついて、尋ね返す。
「で、あんたはここで何をしてるんです? 住んでるとしても、ここじゃ住民票は取れませんし、生活保護も受けられません。何よりそこは、神様の家ですよ」
「よくまあそこまで嘘が付ける」
男はヤニで黄色く変色した歯をむき出して笑った。
「ここに来れば、人を殺せるとかいう、ネットの都市伝説を信じてきたんだろ?」
「そんな馬鹿な話を信じるのはアンタくらいだ」
「バカ呼ばわりは困る。マスコミは信じるのが仕事じゃなくて、それが真実であるかどうかを確かめることが仕事なんだから」
「そのためなら神社をこじ開けて潜り込んでもいいと?」
「痛いところを突くなぁ。確かに褒められた行為ではなかったかもしれないけど――」
余裕の笑みを浮かべた男の弁解が唐突に途切れる。
とってつけたような笑みが剥がれ落ちる。一瞬のっぺりとした表情が顔を出し、反射的に飛び退ろうとして、遅かった。
「いや、まさか、恐れ入ったな!――こんなところで会えるとは」
歓喜が爆発した。
抵抗する間もなく、腕を掴まれ、強引に手を握られる。振り回しているのは握手のつもりなのだろうか。
「特ダネだ! いや、まさかこんなところで出会えるなんてね」
「……言っている意味が……」
「澄田徹」
反応を殺しきれなかったのは痛手だった。
動揺の色を見て確信したらしい男は、すかさず握る力を込めた。
「いやはや、光栄! なんという光栄!
連続殺人事件の中で、最も不可解な、『証人無き白昼の悲劇』! カップルのうち男が死んで、もう一人も餌食となるところを、勇敢にも一人の少年が救った……警察が緘口令を敷いて、迫ることができなかった英雄に、こうしてご対面できるとはね!」
呑まれるな。弱みを見せたら終わりだ。
相手のペースに乗らず、いつものように、優位に立て。
そのために、とにかく舌を動かせ。
「だったらそのまま闇に葬ってたらどうだ?」
「そうは言うけども、そうやって事件のことを調べてるってことは澄田徹の敵討ちとか、さらなる英雄になりたいとか、そういうわけなんだろう?」
なんにせよ、と男は再び歯茎をむき出しにする。
「事件から離れていた人間が、自ずとかかわりを持とうとして、アングラに片足突っ込んだんだ。もうキミには、警察に守られる権利もないと思うけどね?」
腕を引き抜くようにして、握手を振りほどいた。
それでも記者は、物理的に特ダネを逃がすまいとした。
腕を掴まれた瞬間、相手を引っ張り込むようにして相手の体勢を崩す。たたらを踏んだところに、大外刈りのようにして地面に叩きつける。それから、一気に飛びのいた。
男の顔からニヤニヤとした笑みが消えた。
屈辱に顔を歪め、俺を見上げていた。
見下されていると思ったのだろう。彼はカメラを手繰り寄せると、立て続けにシャッターを下ろし、この場にいる全員の写真を収めた。
閃光が闇を幾度となく切り裂く。
「この写真を、だな」
一瞬息を詰まらせた男が、自分を奮い立たせるように再び口を開く。
「ここの情報を載せてたサイトに、掲示板に貼り付けてやろうか?」
「そんな……!」
顔色を変えたのは坪木たちだ。
呪いで人を殺せるわけではないだろうが、それを実行に移そうとしただけで、自分たちの外聞は限りなく危ういものになる。
「だったらその下らん犯行予告を、手っ取り早く止めてやろうか?」
「このカメラを破壊するとでも?」
「あんたを警察に突き出す」
その瞬間、記者は噴き出した。
「何の罪で?」
「器物損壊だ。神社に対しての」
「なんのことだか、さっぱりわからんな」
膠着状態に陥っていた。
そんなものがアップロードされれば、この神社の特定が急加速する。この時期、面白半分にやって来るマスコミは後を絶たないが、そんな連中が一斉に押し寄せてきたとしたら。
『迷信は、信じる人間の数で真実へと変わる』
叔父の言葉が、耳元で囁くように思い出された。
『「善くないもの」に基づいた迷信は特にそうだ。悪意は伝播する。憎悪は仲間を求める。それが科学的に立証されているか否かは問題ではない。そのような環境が作り出されることこそが、新たな罪を誘発することに繋がる』
「……空気は犯罪を醸成する。助長する」
「は? 何を言ってるんだ?」
誰かの嘲笑うような問いも、ほとんど意識の外にあった。
叔父の存在、叔父の言葉。
何かがトリガーになったように、思考が濁流に呑まれていく。
叔父はこの事件を知っている。
だが、それは間違いで、知って『いた』んじゃないのか。
知っていたからこそ俺に、様々な言葉を刷り込んだ。来るべき時に備えて。
それを読み違え、天狗になっていたからこそ、澄田徹は死んだ。
なら、なぜ叔父はそれを知っていたのか?
俺を現実に引き戻すように、背後で轟音が響いた。