1.フック
「本当にその人間のことを思うなら、同情などしないことだ」
その状況を理解したとき、叔父の言葉を思い出した。
教室の隅に不自然に固まった女子たち。「かごめかごめ」の真っ最中。
女子たちが一斉に顔を上げる。読み取れるのは焦燥。遅れて根暗のクラスメイトに怯えた自分への憤慨と、侮蔑。
「何の用?」
外側に立っていた――ヒエラルキーが低いのだろう――少女が一人、こちらへぐっと顎を突き出す。
無視して敷居をまたいだところで、泡を喰った彼女が飛んできた。
「なによっ!?」
より切羽詰まった声。
背丈はどっこい。おかげで彼女は、ブ男相手に上目遣いを見せる必要もないし、やろうと思えば見下せる。
「忘れ物を取りに来ただけだ」
「じゃ、さっさととれば?」
「残念ながら、お宅らがその道程を阻害している」
「は?」
露骨な苛立ち。
ペンは剣よりも強し。金言である。
「言葉は人を操る。我を忘れさせ、暴力を誘発する。そうすればこちらは被害者になれる。相手が法と未来と、体面に縛られている時には有効だ」
咳払いして、一言一句を区切って言う。
「忘れ物が、教室にある。だが教室にまんべんなく置いてあるわけじゃない。俺の私物は、俺の机の中だ。そして、俺の机はアンタらの円陣の中だ」
「バカにしてんの!?」
「よくわかったな」
「ざけんじゃないわよ、ボケ!」
凡庸な罵りと共に円が崩れる。とっとと追っ払いたいらしい。
キャンプ・ファイアーの焚火よろしく、そこにはクラスメイトが一人。
囲んでいる連中とは全く逆のベクトルで生きている少女。教室の隅で机に座って本を読んでいるような、印象に乏しい彼女は、逆説的に教室から浮いていた。
うずくまり、体を強張らせていたのは肉体的な痛みに耐えるためだったのか、あるいは、罵詈雑言からか。
おそらく両者だ。
紺色のスカートに無数についた上履きの痕。黒と白のコントラスト、マーブル。
被害者は顔を上げる。体勢上、彼女は嫌でも俺に、上目遣いをせざるを得なかった。
声は低く、掠れた声で呟く。
「……見世物じゃ、ないんだけど」
ごもっとも。
彼女だけは、その言葉を正確に使う権利がある。
俺は軽く会釈して、自分の席に戻った。数枚のプリントを引っ張り出し、ついでに教室に置きっぱなしだった傘を手に取る。そして、円陣から抜け出した。
「このこと、チクらないでしょうね?」
腕を組んだ一人の女子。クラスの中でそこそこの存在感を発揮する彼女は、自身の努力によるものが大きい。休み時間は大声で注目を集め、制服を改造し、必死に自分の存在を売り込んでいる。ネームプレートは『坪木』。
もっとも、その努力――悪あがきそのものが、没個性的なのが何とも皮肉だ。
一旦視線を外した後に、改めて目を見据える。坪木がひるんだ瞬間に畳みかける。
「何を?」
「何を、って……」
「ああ、これか?」
少女たちを一人一人指差し、顎に手を当てて『間』を作る。
「――放課後、集団で一人の女子を吊るし上げて、しかも手慣れた様子で、恒常的にリンチをやってそうな、この光景の事かな?」
肌を刺す怒気は声にはならない。
いじめは悪だ。誰もが知っている。
だが、悪だと言われても『できない』わけではないので、やろうと思えば誰だってできる。そこに良心の葛藤が生まれる。
「多くのいじめっ子らは馴れていく」
叔父の言葉がよみがえる。
「『これがいじめではない』とか、『例外だ』とか自分自身に言い聞かせる。良心を黙らせるため、積極的に信じ込む。その詭弁すらやがて認識できなくなる」
洗脳と自己暗示は違う。
自己暗示とは、信じたいものを進んで受け入れる行為だ、と叔父は言ったものだ。
「いじめなんかやってない」
唇をとがらせ唱える文句は、条件反射そのものだ。
「いじめ? リンチとなら言ったが」
「そんなんじゃ、ない」
言葉遊びは得意ではないが、揚げ足取りは得意だ。好きではないが。
「つーかさ! 女子同士での話し合いの中に、勝手に男がクビ突っ込むなっての!」
「そ、そうよ! これはあくまで話し合いであって!」
「話し合いだとするなら、もっと落ち着いた状態でやれよ」
嘲笑う。気取った口調で。
「ディベートは感情的にならず、ってね。一対多数でやるもんじゃない」
「うっさい!」
剣呑な空気は、行動には結びつかない。
いくら相手がモヤシだからと言って、男子と力比べをする気はないのか。
あるいは「何か」が彼女らを押し留めているのか。
「いい加減にしてくれない?」
ぽつりと冷静な声がした。皆の視線の先に被害者がいた。
埃をかぶった髪の毛を煩わしそうに搔き上げ、こちらを睨む。
「あんたが挑発すれば挑発するほど、とばっちりを受けるのはこっちなんだけど」
ごもっとも。
状況的には弱者・被害者だが、頭の回転、状況把握能力、ユーモアを解せる能力すら、この場の人間が束になっても敵わないだろう。
「失礼なことをした」
踵を合わせ、猫背気味の体を伸ばす。覗き込むようにして視線を合わせる。
「失礼承知でもう一つ。……お名前は?」
未だにクラスメイトの名前と顔が一致しない。できないし、覚える気もなかったが、今は違う。自然と胸に手を当てていた。
根負けしたように視線をそらし、彼女は吐き捨てるように言う。
「スワベ、ユイ」
「いい名前だ」
おそらく。きっと。
ひとしきり頷く俺に、端役ががなる。
「用件が済んだら、さっさと出ていきなさいよ!」
余韻が台無しだ。
テレビドラマに憧れるお年頃なら、今こそドラマチックな状況を堪能してほしいものだが。
返って来る反応はドラスティックだ。
こういう反応をされると、余計に余計なことをしたくなる。
いくつかやり方がある。
このままこの場を立ち去る。
チクる。時間稼ぎをする。
加害者を殴り倒すのも悪くない。
が、どれも悪手に思える。
弁えるべきは「彼女」が役割を把握していること、それに耐えうる力を持ち合わせていること。
そして、何を望んでいるかということ。
「同情だけはしてはいけない」
叔父の言葉を舌で転がし、俺は動いた。
肩を突き飛ばそうとする取り巻きの一人を避ける。たたらを踏んだ瞬間に、手の中の傘を回転させる。女子らが目を見開き、身を固くする。
取っ手がユイの鼻に食い込んだ。蹲っていた彼女はぐらりと体を傾かせ、床に体を打ち付けた。噴き出した鼻血が教室の床を赤く染める。
沈黙をよそに、踵を返した。