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閑話休題 ※読み飛ばし推奨

 規制線の向こうには焼け落ちた倉庫が横たわっていた。それを停止した警察車両の中から遠巻きに見ている男がいた。そのくたびれたベージュのトレンチコートにくわえタバコの男は、かれこれ1時間以上そうしていた。

 事件が起きたのは3日前。事の発端ほったんは彼の娘のスマホが発する位置情報で、それがこの辺鄙へんぴな場所を指していた。家にもおらず電話もつながらない娘の存在を示すただひとつの手がかりに、誘拐の可能性をうたぐった男が捜査一課を引き連れやってきたのがその日の未明のことだった。その時ここでなにが起こったのかは、残された瓦礫がれきの山と破壊の痕跡こんせき雄弁ゆうべんに物語っていた。

 最終的に彼の娘はここからは見つからず、のちに彼女のスマホは最寄もよりの交番から、本人は自宅にて発見されることとなった。

 男が2本目に火をつける。

 危険物による爆発と発表された今回の件は、おおやけにはそのように処理されたし、娘からの聞き取りにおいても特段怪しい点はみられなかった。だが彼の長年の刑事としてのかんが、それを良しとはしなかった。もしかしたらそれは、あの時倉庫の奥に見た娘に似た人影によるものなのかもしれない。そう考えると、それがひどく馬鹿げたもののように彼には思えた。

 紫煙しえんをくゆらせ思索にふける。

 今の彼には自分の考えの正しさを証明するための材料がなかった。だから今一度こうしてこの場所に戻ってきたわけなのだが、今のところそれらしきものはなにも見つけられていなかった。だが収穫らしきものはあった。

 規制線のすぐそばに1台の車が止まっていた。現場検証はとうに済んだこの場所で十中八九じゅっちゅうはっく覆面であろうシルバーのセダンを見つけたことは、彼の思考を再び懐疑かいぎの沼に引きずり込むには十分だった。

 だから彼は待っていた。車の持ち主が戻ってくるのをこうしてずっと。彼にとって張り込みは苦痛ではなかった。もちろんそれが普通の事件のならばだが。なにもかも辻褄つじつまが合い、それなのになにもかもが釈然しゃくぜんとしない今回の件。そのことは彼の心を粟立あわだたせかき乱した。

 苛立いらだつ気持ちにそそのかされ3本目に手をかけたその時、ついに目的の人物がその姿をあらわした。

 彼は老いのはじまった目をらし、そして場違いなその人の姿を認め仰天ぎょうてんした。その人物は警視庁第四方面本部長の鮫島だった。


「一体全体どうなってるっていうんだ、こりゃ・・・!?」


 灰と一緒にポロリとこぼす。

 事件性無しと判断された本件。その現場に管轄外のそれも警視長のお出ましである。

 彼が呆気あっけにとられ眺めている前で、鮫島は車の中から大きな茶封筒ちゃぶうとうを取り出すと、また倉庫の方へと消えていった。

 男はそれを見送ってから車を降り慎重にセダンの方へ近づいていった。内外をつぶさに調べ、やはりこれが覆面パトカーであったことを突き止めるが、その事実は今の彼にとっては取るに足りないものでしかなかった。

 あの日ここでなにが起き、そしていまだなにが起こり続けているのか。今の彼に必要なのはその答えだけだった。だが彼の渇望かつぼうするものはここにはなく、代わりに新たな疑問が提示されただけだった。


「くそっ!」


 男が毒づく。

 混迷こんめいを極めたこの事態の解決の糸口を、あの鮫島にしか見出みいだせないという現状が彼をひどくイラつかせた。そしてそのことは同時に彼に選択を余儀よぎなくもさせた。

 進むべきか引くべきか、その問題のだ。

 彼の刑事としての信念と矜持きょうじは、初心から変わることなく一点の曇りもなかった。そういった意味でいえば、彼は間違いなくまことの刑事といえただろう。だがひとりの人間としてはどうだったか。いや、正確にはひとりの父親としては、というべきか。

 娘の顔が彼の脳裏をよぎった。男手ひとつでここまで育ててきたことになにはばかるところはなかった。だがそれでも不安はあった。母親のぬくもりという当たり前でありふれたものを与えられなかったことを、娘はどう思っているのか。そのことを考えない日はなかった。でも聞けなかった。怖かったのだ。幾多いくたの凶悪犯を前に一歩も引かなかった彼でも、それだけはかなわなかった。だから娘がなにもいってこないことが、彼にとっては呵責かしゃくでもあり救いでもあった。

 この先に待ち受けるものがなんなのか。それを追求することで誰が幸せになれるのか。そも真実などというものが存在するのか。仮にあったとして、それが自分なんかの手に届く物なのか。そして──ここで尻尾を巻いて逃げ帰る父親のことを、娘はなんというのだろうか。

 彼の心はいまだ迷いに満ち満ちていた。だがとうに腹は決まっていた。彼は決意を込めた一歩を踏み出すと、倉庫の中へと消えた鮫島の背中を追いかけた。



 * * * * *



 床一面に散乱した諸々もろもろ残骸ざんがいを避けながら、なるべく音を立てないようにと歩く、さながら刑事というよりかは泥棒といった様子のしのぶ男がいた。その男はたくみに物陰を伝いながら進んではいたが、鮫島の姿を見つけることはおろかその影すらとらえられないでいた。


「頼むから秘密の部屋なんてよしてくれよ、ファンタジーじゃあるめぇしよ」


 おどけるように一人ごちる。

 彼は刑事という、徹底したリアリストであることを求められる人種である。だからその言葉は本心ではなかったし、一方でそれを笑い飛ばすこともできなかった。それくらい今回の一連の騒動は、彼の常識の範疇はんちゅうを越えていた。

 でも、と心のどこかで願っていた。実はただの一人相撲でしかなく真相は幽霊の正体みたり、だということを。

 ひしゃげたコンテナの陰からリーンすると、その先は開けた空間になっており、そこにはふたりの人物が立っていた。その光景は彼のはかない望みを無情にも打ち砕くものであった。

 そこにいたのは尾花おばななどではなく、探し求めていた鮫島と、そしてブラックリバー検事長だった。

 鬼が出るかじゃが出るか、はたまた宇宙人でも来なさるか。その程度の覚悟は決め身構えていた。だが結末はそんなものとは程遠いほど現実的で非情なものだった。

 彼の中でなにかが音を立てて崩れ去った。現役のエリート官僚かんりょうが出てきたということがなにを意味するのか。それがわからないほど彼はロマンチストでもなければ愚かでもなかった。追っていたものは一介いっかいの刑事の手に余る代物しろものであった。その事実は彼をひどく痛めつけもしたし安堵あんどもさせた。

 呆気ない幕切れにこれ以上どうすることもできずにいた彼は、その場を後にしようときびすを返した。するとそのつま先が落ちていた金属に触れ大きな音を響かせた。


「誰だっ!」


 鮫島の誰何すいかがこだまする。それに答える者はいなかったが、代わりにヨレヨレのコートを着た男がコンテナの陰から姿をあらわした。その人物に再度質問が投げかけられる。


「あなたと同業の者ですよ」


 そう答えた男は、降参を示すように両手を上げながら鮫島の方にゆっくりと近づいていき、目の前に迫ったところで右のポケットに手を入れた。


「やっぱり・・・火気厳禁ですかね?」


 男の問いに、鮫島は軽くまゆをひそめるだけで言葉は発しなかった。それを否定と解釈した男は、ポケットからタバコを取り出すとふかしはじめた。


「いやー、それにしても奇遇きぐうですなー」


 男は吐き出した煙を目で追いながら続ける。


「こんな所であなたのようなお方とお会いできるなんて」


 持って回ったような言い方に検事長の方が反応する。


「まさか、私をおどすつもりか?」


 少しだけ上擦うわずったその声に、男は横目でチラリと顔色をうかがうが、そこからなにかを読み取ることはできなかった。だが勤続三十年にも及ぶ男の直感がいっていた。こいつは不逞ふていやからである、と。そしてそんな人間とつるんでいるやつもまた──わからなかった。正しくは、鮫島という人物が噂にたがわぬどころか聞きしにまさ傑物けつぶつであった、ということだけはわかった。だからこそわからなかった。なぜこのような人が検事長のような無頼漢ぶらいかんくみしているのかが。

 なので男は挑むことにした。この海千山千うみせんやませんの怪物の真意を紐解ひもとかんと。


「脅す? いったいなんのこってす? あ、もしかしてタイミングが悪かったですかね、自分」


 これで男が空手であることが相手にバレてしまった。つまり最悪の部類の返事をしたことになる。こういった場合、嘘でもなにかしらのカードを握っていることを示唆しさしイニシアチブを確保しなければならない。そうしなければ対等にテーブルにつくことができず、ただ待っているのは沈黙だけとなってしまう。そしてそのことは男を含めその場にいた全員が理解していた。


「食えんやつだな」


 その時の検事長は言葉とは裏腹に少しだけ楽しげに見えた。もしかするとそれは権謀術数けんぼうじゅっすうの世界に生きる者のさがだったのかもしれない。そんなことを思いながら、胸襟きょうきんを開かせるにはまだ足りないと感じた男は、次なる策をこうじた。


「いやー、実は自分あの日いたんですよね、この現場に」


 うつむき加減に後頭部をかきながらいうと、案のじょう検事長が食いついてきたのが気配でわかった。だが鮫島の方は違った。


「知ってる」


 短くそれだけを返した。

 予想外の返答に男の動きが一瞬止まる。


「そいつはまたどうして?」


 動揺どうよう気取けどられないようおもてを上げずに質問したが黙殺されてしまう。

 なら話が早い。そう決断した男は、ポケットからタバコを取り出しライターをカチカチとさせた。


「すみません、どなたか火を」


 鮫島は不動だったが、検事長の方はそれに応じ胸ポケットからジッポを取り出した。


「ヘヘッ。ありがとうございま──すっと!!」


 男は火ではなくわきに抱えられていたあの茶封筒をひったくった。その中に素早く手を突っ込むと、出てきたのは『流行性の感冒かんぼうに関する調査報告書』と題された書類の束だった。

 二十年前にパンデミックを引き起こし、今なお終息のきざしの見えない病の名は、男の思考を停止させた。その隙に鮫島によってそれは取り上げられてしまうが、男は奪い返そうとはしなかった。


がっ!」


 鮫島から書類を受け取った検事長のついた悪態あくたいも、彼の耳には届いていなかった。

 不可解な娘の足取り、爆発事件、鮫島と検事長、そして流行性の感冒。男は必死にそれらをつなぎ合わせることだけに集中していた。だが今の彼は、それらの間を埋めるだけのパズルのピースを持ち合わせてはいなかった。


「残念だったな」


 鮫島が冷たく言い放った。そこには敗者への憐憫れんびんなぞ微塵みじんもなかった。

 うなだれていた男が視線を上げると、その先にはちょうど検事長からは見えない角度の鮫島の顔があった。それを見た男は気力とともにしぼりだした。


「・・・それで・・・俺をどうするつもりで?」

「どうも」


 やはりその言葉から温度は感じられなかった。にべもない鮫島と取りつく島もない検事長。そのふたりを相手に男ができることはもうなかった。


何人なんぴとたりともこの秘密にはたどり着かせん。この鮫島の命にかえてもな」


 まるで目の前の男のことが見えていないかのように言い放つと、検事長をともない男の脇を通り過ぎ何処いずこかへと消えていった。

 後には打ちひしがれた男だけが残されていた。


 ──その光景を遠くから見守る人影がひとつあった。



 * * * * *



 昨日の出来事からようやく立ち直りかけていた男は考えあぐねていた。今後の身の振り方についてを。

 今の自分には難攻不落なんこうふらくの鮫島という牙城がじょうを突きくずすのは難しい。それが彼の率直なところだった。なので新たに手に入った情報から攻めてみたのだが、娘は当の病に罹患りかんしたことがなかったので、そちらもすぐに手詰まりとなる。

 よもやよもやだ、くだんのウイルスが生物以外にも作用しGPSを狂わせたり爆発を引き起こしたりしたとでもいうのか。

 確かにそのような陰謀論的な言説げんせつをのたまう手合いが一定数存在することは間違えない。だがそれを支持するつもりは彼には毛頭もうとうなかった。

 そこで彼は手にしていた飛ばしのスポーツ紙をデスクの上に放り投げた。その一面は超人・・の見出しで飾られていた。

 パンデミックから数年遅れで流行り始めた、人間の姿形すがたかたちをした超常の存在と噂されるそれ。その目撃情報は年をるごとに増加の一途いっとをたどっており、現在に至ってはまことしやかどころかごらんの有りさまである。本来ならそのような流言飛語りゅうげんひご言下ごんかに切り捨てるところであったが、昨日までのことがそれを躊躇ためらわせた。

 男は頭の後ろで手を組み、椅子の背もたれに大きく寄りかかった。

 あり得ないからはじまってあり得ないで幕を閉じた今回の事件。それがしこりとなって彼の内にわだかまっていた。


「親っさ~ん」


 そこに、ちょうど外回りから戻ってきた大五郎が駆け寄ってくる。


「これ、すっげー面白かったっすよ」


 そういって手渡してきたのは、禿頭とくとうの人物が白黒でプリントされたブルーレイのパッケージだった。

 それで彼は思い出した。自分が目指していた刑事像を。ハードボイルドへのあこがれを。


「いや~、俺もこんくらいカッコよくなりたいっすね~」


 そういう大五郎の笑顔が今の彼にはやけにまぶしく感じられた。

 自分はどれだけそれに近づけたのだろう。そう自問し机の上に目をやると、置かれた鏡にふたりの顔が映っていた。


「しゃらくせぇ」


 ボソリと漏れたそのつぶやきを聞き取れなかった大五郎は、キョトンとした表情で彼のことを見ていた。

 男の口角がわずかに持ち上がる。それが誰に向けてのものなのかはわからなかった。でも、ピーター・フォークのような今の自分をまんざらでもない、とそう思っていることだけは確かだった。

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