お狐様、東京第8ダンジョンに潜る3
ギイン、と。激しい音が響き男の持っていた剣がイナリの狐月を弾く。そして防御するために此方へと振り返ったその男の顔に、イナリは見覚えがあった。
「む? その顔は……確か東京港にいた……」
「そ、そうだ! 僕はクラン『青龍』の小林 誠一だ! 君は……確かフォックスフォンの狐神って子だね? いきなり何をするんだ? これは問題になるぞ!」
「ふうむ」
なるほど、男の言っていることは道理ではある。確かに言葉だけを聞けば小林の言うことが正しくて、間違っているのはイナリだ。いきなり襲うなど人道とか倫理にも反している。しかし、しかしだ。
「いやあ、それは通らんよ」
イナリの目には、見えている。外にも、このダンジョンの中にも満ちている邪悪な霧。その根源が、イナリには見えているのだ。そう、今も……小林の腰についているポーチの中から出ているのが見える。小癪にも出始めは見えず、小林から少し離れた段階で可視化されている。だが……それでも。
「お主の周囲で溜まっとる霧が見えとるぞ? どう見てもお主が発生源じゃのう?」
「こ、これは……!」
「外で使えば分からんのじゃろうけどのう。此処ではどうやらその霧の効果が薄い……何処から出とるか一目瞭然じゃよ」
そう、外の濃い霧の状態であれば、小林から霧が出ようと全く分からない。しかし、ダンジョンの中では霧が薄い。発生源が丸分かりだ……とはいえ、皆寝ているはずなのだから小林の計画では問題なかったのだろうが。
「いや、誤解だ。これは僕も困っていて……そうだ。この事態を一緒に解決しよう。そうすれば」
「……先程から声に妙な『呪』を混ぜとるようじゃがのう? 儂には効かんぞ、それ」
「!?」
そう、小林は先程から1つのスキルを使っていた。それはジョブ「■■■■の守護者」たる小林が得たスキル「狂気の呼び声」である。声に相手の精神を削り正気を失わせる「毒」を混ぜるスキルだが……簡単に言えば一方的に話しかけているだけで相手の心を壊すスキルだ。どんな強い人間でも、これに対抗できる者などいないはず。はず、なのだが。確かにイナリは平然としている。全く効いた様子がない。
「ば、馬鹿な……そんなはずはない。このスキルに耐えられる奴なんて……」
「おお、語るに落ちたのう」
「……!」
小林は黙って剣を構える。その異名『龍刀』の元でもある龍の鱗の如き柄を持つその剣は鑑定では『龍鱗刀』とされていたが……これは小林のジョブが『魔剣士』と理解されているのと同様、偽装である。本来の小林の剣の名は『■■■■■』。名前すら人の身では知ることを拒否される、そんな代物だ。斬れば相手に恐怖を与えることができるその剣は、まさに小林を此処まで押し上げてきた武器で。そんな武器が、剣が……欠けて、いたことに小林は気付く。
「……え?」
分からない。理解できない。先程の打ち合いで欠けた? あのたった一度で? 有り得ない。これは、神から授かりし武器だというのに。では、有り得ないなら。これは一体?
戸惑う小林は、聞こえてきたイナリの声にビクリと反応する。
「実のところ。お主が何をしようとしとるかは、儂は興味がない」
「い、いや待て。話をしよう」
「人の世の正義を説く気も、やはり無い。それは儂が語るべきものではない」
「これは……これは神より託されしことなんだ! 君だって聞けば」
「しかし、外で今も無辜の者が理不尽に襲われておる。これは看過できん」
「必要な犠牲なんだ! いつだって大のために小は犠牲になってきた! だから!」
「だから?」
「だから……だから! お前も死ねぇええええ!」
小林の取り出した黒いオーブから一気に溢れ出した霧が何かの形を取ろうとして。イナリの指先から放たれた無数の狐火がそれを砕きながら小林を吹き飛ばし剣を叩き砕く。
「愚かじゃな。大のための小の犠牲を説くのであれば、間違いなく少数派はお主じゃろうに」
大事の前の小事の犠牲がどうのと言いたかったのかもしれないが、そんな「大事」をイナリは認めないから結果としては同じである。
そして小林は完全に狐火で粉砕され、マトモな人間であれば生きていることなど有り得ない。そんな小林の「居た」場所から転がってきた黒いオーブへと、イナリは再度狐火を放ち砕く。消えていく霧を見ながら、イナリはひとまずの解決を確信して。
―【深き水底にありしもの】が貴方に敵意を示しています―
イナリの前に、ノイズの混じったウインドウが現れる。それは、システムのものとは明らかに違う「何か」だった。そして、それをイナリが見るのは2度目だ。前回は【果て無き苦痛と愉悦の担い手】。そして今目の前に出ている「これ」を出した者は【深き水底にありしもの】。前回と違い使徒契約とやらを持ちかけてくる気はないようだが……イナリの返答はやはり決まっている。
狐月を構え直すと、イナリは刀身に指を這わせ滑らせる。
イナリの指の動きに合わせ青い輝きを纏っていく狐月は荘厳な輝きを放って。
「秘剣・鬼切」
ウインドウを、真っ二つに叩き切る。触れ得ぬはずのそれはしかし、イナリの一撃で切り裂かれ消えていく。
「儂もお主が嫌いじゃ。お互い様じゃの」
―【深き水底にありしもの】の干渉力を一時的に排除しました!―
―業績を達成しました! 【業績:干渉排除】―
―驚くべき業績が達成されました!―
―金の報酬箱を手に入れました!―
「さて、外はどうなっているやら。もんすたあが残っているなら加勢せねばならんし……急ぐとするかの」
しかし、この件の始末はどうしたものか。イナリの頭に浮かぶのは当然のように安野であるわけだが。この日以降、水棲モンスターによる襲撃は一切なくなり、東京湾の臨時ダンジョンも特に問題なくクリアされた。府中への襲撃も、一連の水棲モンスター襲撃事件の一部として片づけられることになった。こうして「東京湾ダンジョン攻略部隊」の名声が高まる中で……「府中襲撃事件」はひっそりと、しかし事情を知る一部の者には驚愕を残しながらも片づけられたのだった。
安野「ところでこの件、誰が責任とるんでしょ……え? とらない? 表沙汰になってないから? ずっるー……」





