お狐様、霧のホテルを行く
濃霧。突っ込んだ先は、身体に纏わりつくような霧が充満した、そんな空間と化していた。これだけの濃霧であれば火災報知器が作動するかもしれないというのに、そんな様子もない。いや、それよりまずこの霧自体がおかしいのだが……実体としての霧ではなく、魔力の霧であることの証明であると言えるだろう。
「なあ、イナリ。この霧、どうにかならないのか? 効果はともかく視界が塞がれてウゼエよ」
イナリとヒカルに入り込もうとする霧は2人に触れると同時に弾かれているが、その中を突っ込むというのは実に気味が悪い……のは我慢できる。だが文字通りの一寸先が見えない状況は、あまりにも危うい。
先程の自分たちの部屋の状況がイナリがやったことだと察しているヒカルがそう聞くのは、実に当然と言えた。しかしイナリとしても、迂闊にそれを出来ない理由があった。
「うーむ……出来る、かもしれんが」
「お、なら早速」
「しかしそうすると、流石に儂も動けなくなりそうじゃのー。恐らくこの霧、この一帯全てを包んどると見える。これを力尽くで祓うのは、相当に骨じゃ」
「そんなにか」
「そんなにじゃ。並の者の仕業とは思えん。斯様な力量の読めん相手に力勝負はやりとうないのう」
「じゃ、無しだな」
「うむ」
霧の中を歩きながら、2人はそう頷きあう。ヒカルとしてはイナリがそんな凄そうなものを「出来ない」とは言わなかったことに少し驚いていたが……別にそこは今はどうでもいいことだ。それより、今はまずこのホテルを抜けて町中の原因を叩かなければならないが……。
「待て」
「ん?」
「此処、エレベーターホールだ。階数表示が見えた気がする」
濃霧の中であるから絶対かと言われれば少しヒカルも迷うが、一瞬確かに階数表示が見えた。そんなものがあるのはエレベーターホールか階段くらいのものだが……。
「でもなあ。今の状況でエレベーター、使うのはマズいよなあ」
「敵の策略に嵌まるようなものじゃのう」
「いや、待て。何か聞こえる」
それは、機械音。この濃霧の中で誰かがエレベーターを使っているというのか。となれば、それはこの霧に抵抗できた覚醒者なのだろうか? だとすれば随分不用心なことをするが……油断なく構えながら、2人はエレベーターの方向を見つめる。といっても濃霧で見えはしないが……ポーン、と音が鳴りエレベーターの扉が開く音が聞こえてくる。濃霧の向こうに見えた人影は濃い霧の中に消えて。
「ぬおっ⁉」
「ギイッ!」
イナリの背後に現れ、その鱗で覆われた腕を振るう。ブオン、と風切り音と共に振るわれた腕はイナリにすんでのところで回避され、反撃のようにイナリは狐月を振るう……が、その直前でその何者かは霧の中に消えて失せる。
(避けられた? いや、今のは……何か感覚がおかしかったのう)
まるで刀が急に重くなったかのような、そんな感覚だったとイナリは思う。
「大丈夫か⁉」
「うむ。しかし、今の魚男は……」
「魚男? マーマンか! ……そこだあ!」
「グゲッ」
見えた影にヒカルは拳を振るうが、命中した先にいたモノを見てヒカルはギョッとする。それはヒカルの知るマーマンではない。マーマンよりは人間寄りな、しかし明らかに人間ではない「何か」だった。
ディープワン。小林がそう呼んでいたこの怪物は、マーマンが神の如きものの力を受けて進化したものだ。だからこそ、イナリはともかくヒカルが知らないのも無理はない。この世界における、間違いなく新種のモンスターなのだから。しかもそれは、ヒカルの拳を受けて尚笑っていた。手加減したつもりはない……この霧が、ディープワンを守ったのだ。
「グ、グゲゲッ」
「なめんなあっ!」
ヒカルは素早く拳を引っ込めると、その手に魔力を籠めていく。今のおかしな感触は当然ヒカルも気付いていた。この霧のせいであることも同様にだ。しかし、それはそれだけのこと。普通の拳で効かないならば、普通ではない拳でぶん殴ればいい。ヒカルのジョブ『獅子王』は、そういうのが大得意だ。
「ぶっ飛びやがれええ! 獅子連弾!」
ヒカルの輝く拳がブレて、一瞬のうちに無数の拳が繰り出される。それはディープワンに1つも外すことなく命中し、その身体をボッコボコにして消し飛ばしながら吹っ飛ばす。間違いなく殺した。そう言い切れるダメージであった。
「ふー……この霧、やっぱ面倒だな」
「明らかに敵の手助けをしとったのう……うーむ、やはりどうにかすべきか」
「いや、いいよ」
悩むイナリに、ヒカルはそう言い放つ。確かに面倒だが、対処できないわけでもない。そんな状況でイナリという戦力が無くなるのは、正直ヒカルにとってはそちらのほうが痛手だった。ならば、この霧はそのままにするのが得策だ。
「この霧はこのままでいく。でもって、アタシとアンタで原因をぶちのめす」
「うむ、異論無しじゃ。となれば……」
「階段を探そう。この霧にエレベーターを落とされたらたまらねえ」
「じゃな」
非常階段は階の両端だ。だから、この先に行けば自然に辿り着く。イナリとヒカルは頷きあうと、階段を目指して進んでいく。





