お狐様、霧の中へ
「むう……?」
イナリが目を覚ましたのは、とある違和感を感じたからだった。まるで自分に何かが無遠慮に触れているかのような、そんな嫌悪感と言い換えてもいい。それはイナリを目覚めさせるには充分すぎた。
そうして目を覚ますと、そこは明らかな異常が発生していた。
「なんじゃこれは……霧、か……?」
そう、真っ白なそれは霧だ。それ自体はイナリもあの廃村で見慣れたものだったが……このホテルの高層階の部屋の中にまで入ってくるとなれば、ただごとではない。そして何よりこの霧、何処となく身体に纏わりつくような、そんな不快な感覚がある。それに、この香りは。
「何やら独特の香り……ああ、海の香りじゃの。前に秋葉原のだんじょんで嗅いだ覚えがあるのう」
そう、それは海の……潮の香りだ。これはただの霧ではなく、海の霧の香りを纏っているのだ。府中には多摩川があるとはいえ、ここまで海の香りが届くようなものではない。それに、何やら覚醒者用語でいう「魔力」を纏っているのがイナリには分かる。
「これ、ヒカル。起きるのじゃ」
いつの間にか一緒のベッドに潜り込んで寝ていたヒカルを揺り起こそうとするが、ヒカルは深い眠りの底にでも落ちたかのように起きない。命に別状は無さそうだ。無さそうだが……この霧のせいで寝ているとなれば、放置しておくわけにもいかない。イナリはヒカルの前で「むーん」と唸ると、狐月を刀形態で呼び出す。
「ひとまずこの部屋の中だけでもやらねばのう」
そして、イナリは刀身に指を這わせ滑らせる。
イナリの指の動きに合わせ緑の輝きを纏っていく狐月は冷たい輝きを放って。
「蝕む邪を祓え……秘剣・大典太」
リィン、と。鈴のような音を響かせながらイナリを中心に緑の波紋が広がっていく。それは部屋の中の霧をあっという間に打ち消していく。やがて部屋の中の霧が全て消えると、ヒカルが「うう……」と目を覚ます。
「なんだ、なにか……うえ⁉」
ヒカルはまるで目の前に何かがあるような……というか【全ての獣統べる万獣の王】から届くウインドウを見ていたのだが、イナリからは見えてはいない。
―【全ての獣統べる万獣の王】が起きろと叫んでいます―
―【全ての獣統べる万獣の王】が精神を蝕む邪悪な霧だと憤っています―
―【全ての獣統べる万獣の王】が貴方が起きないことに苛立ちをおぼえています―
―【全ての獣統べる万獣の王】が貴方を起こす手段の実施を検討しています―
(うげえ……なんか分からんが危ないところだった)
―【全ての獣統べる万獣の王】が貴方の目覚めに安堵しています―
(アンタの介入は加減を知らねえからやめてくれって言っただろ!)
―【全ての獣統べる万獣の王】は貴方の危機感のなさに呆れています―
コソコソと小声で言いながらそのウインドウを虫をはらうようにして腕を振り消したヒカルは、それを見ていたイナリに「なんでもねえから!」と声をあげる。イナリとしてはヒカルが何か小声で言っているのは分かっていたが、聞かれたくもなかろうと耳をペタンとさせていた。イナリは友達のプライバシーを尊重できる良い狐である。
「お? もうええのかえ?」
「え? お、おう。なんか配慮してくれてたんだな」
「うむ。それより気付いておるか? どうにも妙なことになっとるようじゃ」
「……そうみたいだな」
イナリとヒカルは、部屋の大きな窓へと歩いていきカーテンを開ける。すると、窓の外には濃い霧が出ていた。正直、有り得ない光景だ……今日は、夜景が綺麗に見える晴れの日だったのだから。こんな高層階まで届く濃い霧など、出てくるはずもない。そしてイナリもヒカルも気付いた過程は違うが、これが何らかの「攻撃」であることに気付いている。あとはどうするか、なのだが。
「ヒカルは此処で待っていてくれるかの? 儂はこの霧は効かんからの、ちと様子を見てくるわい」
「いや、待て。無様さらしたが、アタシも行く」
「しかしのう……」
「大丈夫だ。手段はある」
ヒカルが鞄に手を向けると、獅子の顔の模様のついた腕輪が飛んできてヒカルの手に嵌まる。黄金色のその腕輪にヒカルが触れると、ヒカルの服が変化し……動きやすそうな服の上に獅子をイメージした胸部鎧やサークレット、籠手が装着されていく。それは、あのコマーシャルで出ていた姿とまったく同じだ。
「ほー……立派なものを持っとるのう」
「まあ、出所は言えねえけどな。これさえあれば、あんな霧には負けねえよ」
実際、それは真実だろうとイナリは思う。ヒカルの纏っている防具一式は、これまでにイナリが見てきたどの覚醒者の防具よりも良い性能を持っていると思えた。防具自体から何やら猛々しい獣の如き力を感じるが、決して悪いものではないようにも感じた。確かにヒカルを守ろうとする力を感じるのだ……それを着けていれば、外の霧などいとも簡単に弾くだろう。
「うむ、そうじゃな。では行こうかの」
「お? アッサリ決めたな」
「即断即決。大事なことじゃ」
そうしてドアを開ければ、霧が部屋の中に入り込もうとして入ってこれないのが見える。
「うっげえ、気持ち悪い霧だぜ。なんか海みてえな匂いするしよ」
「この霧が何処まで広がっているか分からんが……突っ込むのじゃ!」
「おし、やったらああああ!」
掛け声と共に、イナリとヒカルは霧の中へと突っ込んでいった。
イナリ「しかし海の香りが凄いのう……」





