お狐様と野球の時間
使用人被服工房渾身の和風メイド服は大事にタンスに仕舞われたが、着る機会が今後あるかどうかは良く分からない。イナリにとってみれば普段着に着るにはもったいなさすぎるし、いざ戦闘となればいつもの服が一番だ。だからまあ、何かそういう機会が出来たときに着るのが一番……というわけだ。
というわけでイナリとしてはダンジョンに行きたいのだが、内陸部のダンジョンは予約が殺到し、他のダンジョンも予約が多い。どうにも赤羽港襲撃事件が普段のほほんとしている覚醒者にも火を点けた、ということであるらしい。
まあ、当然ではあるかもしれない。ここ数日、色々なメディアでイナリとエリのことを特集している。まあ、イナリは映像の類がほとんどないので、主にエリのことをやっているが……その影響で使用人被服工房が最近物凄く忙しいらしい。エリへのコマーシャル出演依頼なども多く来ており、そうした状況を羨む覚醒者は多くいたのだ。
その時自分がいれば、活躍できるだけの実力があれば。そうすれば、今輝いていたのは自分だったかもしれないのに、とまあ……こんな感じである。当然だが大手のクランも自分たちより使用人被服工房が目立っている状況はかなり苦々しく思っており、ダンジョン攻略にかなり力を入れ始めている。彼等にそうさせるだけのエリの状況が、今あったのだ。そう、まさに今テレビでも。
―健康な生活は適切な栄養バランスから! 37種の栄養素を詰め込んだメチャゲンキプラス!―
「うむうむ。頑張っておるんじゃのう」
テレビの中で微笑むエリにイナリも思わずニコニコとしてしまう。実のところイナリにもフォックスフォンを通じてコマーシャル出演依頼は山のように来ているらしいのだが、全てそこで止まっている。イナリとしてはそんなものに興味がないからだ。別にテレビに出るために頑張っているわけでもない。イナリにそういう話を持ってくる分を、何処かの誰かに回してくれればいいとすら思っている。
まあ、そんなわけでイナリが今何をしているかというと……この後始まる野球中継である。今日の試合は札幌ニブルヘイムと鹿児島ムスペルヘイム。ライバル同士であるこの2球団の試合は、毎回激しい点の取り合いになる派手な試合として知られている。どちらの投手もかなりの実力派ではあるのだが、そんなもの関係あるかとばかりに打ちまくるのだ。それも、この組み合わせのときだけだ。まるで「お前らにだけは負けてたまるか」というかのような何かがあるかのごとくだ。
そうして、時計の針が時間を告げ……最後のコマーシャルが終わる。イナリの視線も自然と画面に引きつけられていく。
「アツアゲ! 始まるぞ! 野球の時間じゃああああ!」
お茶と煎餅もしっかり用意したイナリだが、言われたアツアゲはそんなに野球に興味がないのでイナリの煎餅を一口サイズに割ってオリジナルおかきを作っていた。手持ちぶさたであるらしい。まあ、そんなアツアゲに気付かないほどにイナリは興奮して目をキラキラと輝かせて。
―こんばんは。この時間に放送を予定しておりました野球中継ですが、予定を変更して緊急放送となります。申し訳ありません―
「ひょっ」
―今回、覚醒者協会から緊急発表があるとのことですが……現場の白崎さん?―
―はい、こちら覚醒者協会日本本部の大ホールです! まもなく会見が始まるとのことで、すでに各社の記者が……―
キラキラと輝いていたイナリの目からすーっと光が失われ、ぱたりと横に倒れる。
「なぜじゃ……わしのやきゅう……」
まさかの放送中止である。しかしまあ、何か緊急の事態というのであれば仕方がない。仕方ないが……この喪失感をどうしたものか。すっかり気の抜けた顔で倒れているイナリの上にアツアゲがよじのぼり座る。イナリと違ってニュースの類が好きなのをイナリは知っている。まあ、仕方なくイナリもそのまま緊急放送を眺める。内容は……どうやら、東京湾に関することのようであった。
―以上のように今回、東京湾にダンジョンゲートの発生を確認しました。こちらは現在大変危険な状況にあり、これを受けて国に東京港使用の中止に関する要請をしているところです―
―これまでの東京湾でのモンスター災害もそのダンジョンゲートに関連しているということですか⁉―
―ダンジョンゲートの発見が遅れた責任は何処にあるとお考えですか⁉―
―機器に関しては世界基準のものを使用しています。つまるところ、人類の現時点での限界と言えるでしょう。該当のゲートに関しては速やかに対応するべく即応隊のメンバーを選定中です―
なるほど、つまりイナリとヒカルが東京港に行ったあの時にはもう、ダンジョンブレイクが起きていた。つまりはそういうことなのだろう。となれば、あれからそれなりに日数もたっている。状況は……かなり厳しいのだろう。誰が即応隊とやらに選ばれるかは知らないが、東京港の件を考えればかなり危険な話になる。
「……ふうむ。人の子らの強さにはまだまだ不安がある。となると、これは儂がどうにかせねばならんか」
そう呟くと、イナリは起き上がり……油断していたアツアゲが部屋の隅にコロコロ転がっていったがさておき、覚醒フォンを取り出して安野の番号へと電話をかけ始めた。
イナリ(それはそうと……わしのやきゅう……)





