異変の予兆
かつて。海というものは神秘的であり、命の源であり……同時に恐ろしいものであるともされていた。それは人類の力ではその全てを見通せないものであるから、というのも当然あっただろう。
世界が「こう」なるまでは、賢しくも全てを科学で見通せたような、そんな錯覚を起こす者もいた。
しかし科学はもはや人類の英知の証明とはなりえず、海は再び神秘の領域と化した。
そう、今や海とはモンスターの闊歩する領域であり、科学の力は水棲モンスターの前に全て敗北した。最新鋭の魚雷は針の一刺し程にも通じず、機雷は爆竹ほどの嫌がらせにもならない。そんなものよりも覚醒者が潜って銛か何かで突き刺した方が効くのだ。
そういうモノが海にいるからこそ、船に乗って海に出ることは文字通りの命懸けとなる。
嵐でも津波でも大渦でもなく、直接的なモンスターという脅威に対抗すべくどの船も覚醒者を乗せている。
とはいえ、毎回モンスターが出るというわけでもなく。むしろ出てくる確率が低いので護衛の覚醒者は「お守り」と言われる程度には暇で楽な仕事であったし、たまに「お守りなんかいらねえだろ」と悪態をついて覚醒者を乗せずに海に出た船がモンスターに襲われて後日に惨劇の痕の残る船、あるいはその破片が見つかる……などというのもまた日常であった。
「ふわーあ……眠ィ。今日も暇だな」
だからこそ「海に出る船舶護衛」の仕事は覚醒者にとってはかなり美味しい仕事だ。高価な物を運ぶ船やフェリーのような大型客船などはそれなりに実力のあるクランが委託されたりするが、中型程度の船ともなればその辺のうだつの上がらない覚醒者でも務まってしまう。
何しろ覚醒者なのだ。一般人を何人並べたよりも確実に役に立つ。だからこそ、そういう仕事は何となく安全に稼ぎたい覚醒者に人気であったりするし、この男もそうであった。
勿論本当にモンスターが出れば戦わなくてはならないが、ちょっとした水棲モンスター程度であれば倒せないこともない。
だからこそ、この男もまたどうしようもないくらいにやる気のない覚醒者であった。近距離ディーラーであり水棲モンスターが相手ということで槍も背負ってはいるが、正直手入れを多少サボっているのが目に見える。
更に言えば漁船だからほぼ夜中と言える時間に出航しているとはいえ、如何にも寝不足といった態度が出ているのは少々問題だ。
「チッ、これだからお守りは」
「言うな言うな。ウチの予算じゃあの程度が限界だろ」
漁船の船員もそんな悪口を言っているのでまあ……お互い様かもしれないが。漁船側としては、とにかく今回の漁が無事に終わればいいのだ。だからこそ、覚醒者の男を無視して仕事を進めている……が。何か大きなものが海に落ちる音が聞こえて「げっ!」と声をあげる。まさか、あの覚醒者が寝ぼけて落ちたのではないか。そんなことが頭をよぎったのだ。
「勘弁してくれよもう……! 周辺確認急げ!」
言いながら先程まで覚醒者の男がいた場所に視線を向けると、そこには人影が1つ。けれどそれは、覚醒者の男ではない。確かに人のようなシルエットをしているが、それは海での仕事に携わる者であれば最初に教わるモンスター……半魚人型モンスター「マーマン」だった。三叉の槍を構えるマーマンは船員たちを見るとぐちゃあ、と音がするような気持ちの悪い笑みを浮かべて襲い掛かってくる。
「う、うわああああああああああ!?」
「た、助けヒイ⁉」
船縁にかかった、マーマンの手。手。手。ぬっと出てくる顔。無数のマーマンが現れて。襲ってきたマーマンに引き倒された仲間が槍で刺し殺される。悲鳴と、恐怖と、絶望。そんな光景を前には、生きる希望など持てるはずもない。
慌てて船の中から発信された救援要請の無線も、船員が全滅するまでに何らかの結果をもたらすことは不可能だ。
「ヒイヒヒヒヒヒ!」
「ギャハハハ!」
響く、楽しげな、そして呪わしい歓声が響く。およそ5分もかからないうちに漁船からは人が居なくなり……やがて緊急の出動を請け負ったベテラン覚醒者たちを乗せた船が辿り着くも、そこには惨劇の跡しか残ってはいない。
「くそっ! またか……!」
「皆殺し……最近は毎回こうだ」
「マーマンどもめ……!」
クラン『太刀魚』の面々は、そう悪態をつく。マーマンは水棲モンスターの中でも頭が良いとされており、一番タチが悪いともされている。戦術を組み立てる能力、武器を使う器用さ、個体差が激しいがゆえの、覚醒者のような役割分担。「泳げるゴブリン」と呼ばれる程度には多様性のあるマーマンたちは、しかし最近特にその悪辣さを増していた。
目的を達成したらすぐ逃げる。そんな感じの動きであるように見えるのだが……実際に何を考えているのかは分からない。此方に出来るのはいつも後手後手の対応だ。
「リーダー。これって何かの前兆じゃないのか?」
「前兆って……海のモンスター災害は今も継続中だろ。これ以上何が起こるっていうんだ」
「うーん。分からないけど……何か起こる。そんな気がしないか?」
普段だったら「寝ぼけた事を言うな」と一喝しているところだったが……その日ばかりはリーダーと呼ばれた男も否定は出来なかった。そんな不安が現実となるかは、今のところ誰にも分かりはしない。
イナリ「……(幸せそうにお茶を飲んでいる)」





