お狐様、奈良に行く6
闇の中で、鹿が目を動かした。とあるホテルがよく見える公園で休んでいた無数の鹿たちは、まるで何かを見据えるように首を動かす。その先には2人の如何にも怪しげな者たちがいて、じっとホテルを見上げていた。
「……どうする? 俺たちで直接仕掛けてみるというのもいいんじゃないか?」
「馬鹿を言うな。仕掛けることで失うものが多すぎる」
「そうだな。その通りだ」
「それより、あまり見るな。気付かれたら困る」
ホテルから視線を外すと、男たちは何かを地面に恐らくはランダムであろう間隔で刺していく。それはゴルフなどで使われる刺しこみ式マーカーと呼ばれるものに似ていて、刺しこむごとに僅かに光り、すぐにその光は消えていく。一体それが何であるのかは分からないが……恐らくは見た目通りのものでないのであろうことは明らかだ。
「しかし、これを使うのは初めてだぞ。上手く動作するのか?」
「……あの方を疑うつもりか?」
「そんなわけがないだろう。だが実践は初めてなんだ。綿密に確認したつもりでも、何が起こるか分からない……失敗が許されないということくらい、理解していると思ったが」
男を睨んでいたもう1人の男はそう言われ「……その通りだ」と視線を逸らす。今の会話だけでも、この2人の男たちの間に明確な地位の差などはないことが分かる。しかし、それにしても何をやっているのか。社会貢献活動の類ではないのは明らかだが、いかなる企みであるのかは分からない。
しかし、然程の時間もおかずに71本のマーカーが刺されると、男たちはその外側へと立つ。
いつの間にか右手に現れた本を疑問に思う気配すら見せずに読み始めれば、その口から漏れ出るのは理解できない言語だ。
日本語でも、英語でも……そのほかのいずれの言語でもない。一体何語であるのかも理解できないそれは、しかし確かな魔力を含んでいて。それに応えるようにマーカーから光が放たれ、ホテルを囲むような巨大な光の壁を作り出す。
「……封神結界」
その言葉が放たれたのと、ホテルの部屋の窓を開けイナリが弓形態の狐月を構えたのは同時……いや、イナリがやや速い。弦を引き絞り、輝くピンを破壊するかのような光の矢が放たれ……しかし、光の壁が収束すると同時に光の矢をも飲み込み消し去っていく。
その光が全て収束しきった時……窓にはイナリの姿は無く、男たちは成功を確信してその場を走り去っていく。
「ちょ、ちょっと! 今のって……イナリ!?」
「何事ですか!?」
「敵襲……!」
突然イナリが起き上がったと思ったら窓を開け、とんでもない魔力の光の壁が現れて、それが襲ってきたと思ったらイナリが消えた。
今の現象を現すならそうとしかホテル内からでは説明が出来なかった。
「無事か!? おい、聞こえてるなら開けてくれ!」
イナリが消えた。その事実に動揺しながらも恵瑠が扉を開ければ、タケルは素早く部屋を見回し「イナリさんは!?」と声をあげる。
「そ、それがさっき急に消えて……いったい何なの!?」
「落ち着くんだ!」
冷静さを失う月子の肩を掴むと、タケルは開け放たれたままの窓へと歩いていく。イナリがそうしたからには、必ず理由がある。恐らくは敵が、外に居た。それをどうにかしようとして、恐らくは失敗した。そういうことなのだろうが……。
「くっ……! 一体何があったんだ……」
「おーい」
窓の外を見てタケルがそう呟くと同時、何処かからイナリの声が聞こえてくる。
「……え?」
「おーい。此処じゃよ、此処」
その声のする方向へ目を向けると……そこにはアツアゲが何かをつついていて。そこにはグッタリとした様子で倒れている、アツアゲより小さいイナリの姿があった。
「え、ええ!? こらアツアゲ! ダメだろそんな!」
アツアゲからイナリを回収すると月子たちもざわめくが、タケルの手の上でイナリが「おお、心配かけたのう……」と力なく声をあげる。
「ど、どうしたのよそれ! 一体何があったらそうなるのよ!」
「うーむ……恐らくは何か尋常ではないモノの介入があったようじゃが、迂闊じゃった」
「尋常ではないって……まさか、神のごときもの?」
「恐らくは」
頷くイナリに、月子は冷静さを取り戻し頭の中で現状を整理していく。
つまるところ、今回の件はイナリを狙っていたと考えてほぼ間違いない。狙った理由としては……やはり「邪魔だった」の一言に尽きるだろう。しかし、それでもこのタイミングで仕掛ける理由が何処にあるというのか? わざわざイナリを排除してまでやりたいこと。
「紫苑をそこまでして手に入れたいってこと? でも、どうして……」
「……使徒契約、ではないと思う。まず呼び寄せる意味がない」
そう、タケルは使徒契約がどんなものかを知っている。アレは対象がいつ何処にいても結べるものだし、メッセージウインドウで常に呼び掛けてくる「神のごときもの」が、わざわざ紫苑を呼び寄せるはずもない。ただ紫苑にメッセージを飛ばせばいいだけなのだから。
それをしないということは、使徒契約は目的ではないということだ。しかしそうであるならば神のごときものがイナリをこんな風にしてまで紫苑を狙う理由は何なのか?
「……イナリが狙いだった可能性は?」
そんな紫苑の言葉にタケルと恵瑠がビクッとするが、月子は静かに首を横に振って否定する。
「たぶん違うわね。それだったら直接イナリを呼ぶはず……紫苑を呼んだらイナリがついてくるなんてのは希望的観測が過ぎるもの」
「……そっか」
「紫苑、そう考え込む必要はないのじゃ。むしろ裏に神のごときものがいると分かったからのう」
「……ん」
タケルの手からイナリを取った紫苑がイナリをギュッと抱き寄せれば、イナリが「ぬあー」と声をあげる。
「あ、ごめん」
「ええんじゃよ。しかしまあ、ほんに不覚じゃ」
「イナリさん、そもそも今のそれはどういう状況なんだ?」
「うーむ」
タケルの問いにイナリは説明に迷うように唸り声をあげて、やがて「封印じゃな」と言い放つ。
「封印? 封印って……言葉通りのやつ、だよな?」
「うむ。封神結界と言うとった。恐らくは儂をどうにかするためのものだったんじゃろ」
実際のところ、とんでもない力だったが……「神のごときもの」が直接やったのでないだろうことだけは分かる。もしそうであれば、こんな回りくどい手段をとる必要もない。
「……あの、実際どういう状態なんですか、ソレは?」
「そうよね。生物学的にも凄い謎よ」
恵瑠と月子にそう詰め寄られ、イナリは「うーむ」と唸る。
「だーれも信じやせんから最近は言うとらんかったがの。儂、神じゃよ」
「あー……」
「そういうことね」
「なるほどなあ」
「わかる」
しかし、恵瑠も月子もタケルも紫苑も、納得だというような声をあげる。まあ、納得出来たのだろう。実際、イナリの今の状況を見ても今までの諸々を見ても……人間じゃないと言われた方が納得できるのだ。
「じゃあイナリ。私と契約する?」
「ズルい。契約するのはボク」
「あ、あの! 此処は私ではないかと!」
「儂、そういうのよく分からんから……」
神のごときものたちがどうやってそういうのをやっているかなどイナリは分からないし、するつもりも今のところはない。そもそも、出来るのであればシステムが何か言ってくるはずだ。
「まあ、イナリさんが神様だってのは分かったよ。正直、神のごときものについても『それっぽい』のが多いしな」
「何よタケル。知ってるみたいに」
「いやあ、営業をかけられる毎日だから……」
今この瞬間も色んな「神のごときもの」がタケルにアプローチしてきているが、それを片っ端から断っている状況だ。
―【炎を掲げるもの】が貴方に使徒契約を持ちかけています!―
―【都市を守護するもの】が貴方に使徒契約を持ちかけています!―
―【荒ぶる狂乱と破壊】が貴方に使徒契約を持ちかけています!―
―【武と暴風の英雄】が貴方に使徒契約を持ちかけています!
―【勇敢なる戦士】が貴方に使徒契約を持ちかけています!―
―【燃え盛る鍛冶師】が貴方に使徒契約を持ちかけています!ー
―【不屈の鍛冶師】が貴方に使徒契約を持ちかけています!―
―【武と暴風の英雄】が今こそ契約するときだと荒ぶっています!―
―【炎を掲げるもの】が悪を処断するときは今だと説いています―
タケルがパタパタと手を振ってウインドウをどけていくが、そこでタケルは自分に集まる視線を感じて咳払いをする。
「とにかく、相手はこっちの最大戦力を封じに来たけど失敗したってわけだ」
「うーむ、それがのう」
「え?」
「儂、この身体ではあんまし力が出ないかもしれん」
そう、イナリは自分の中にあった力がかなりのレベルで遮断されているのを感じていた。
恐らくは先程狐月で矢を放ったときに封印の効力が多少なりとも減ったのかもしれないが……逆に言うと、その程度の力しかイナリに残っていない。まあ、それでも一般の覚醒者と比較すれば相当なレベルではあるのだが。
「たぶんじゃが、アツアゲが巨大化したら儂、動けなくなるんじゃないかのう」
「うーん、なるほどな……」
神のごときものを相手にすると考えれば、かなりの痛手であるのは間違いない。
だが何より問題は、まだ思惑が見えていないことだろう。だから月子は手をパンと叩き自分に注目を集める。
「とにかく。イナリがこうやって変なことされた以上は黙って帰るわけにもいかないわ」
「うん。でもどうする?」
「まずは封神結界とやらをどうにかするのが優先ではないでしょうか?」
「そうね。まずはこれをやった連中が何を仕掛けたのか調べる必要があるわ」
封神結界。結界などと名前はついているが、実際にどんなものかは分からない。何しろイナリをどうにか出来るのだ……並のものではないことは明らかだ。
「イナリ。何かヒントは無いの?」
「そこの窓の外に男が2人いて、何かをやっとったようじゃな」
「よし、まずはそこからね」
イナリを紫苑が抱え、そのまま全員でホテルの外に出ると……鹿たちが一斉に此方に顔を向けてくる。
「この鹿も神のごときもの関連じゃないでしょうね……?」
「今のところ敵意は感じないな……」
「すまんが紫苑や、ちと降ろしとくれ」
「ん」
イナリに言われて紫苑がイナリをそっと降ろせば、イナリはテクテクと歩いていき地面に刺さっている刺しこみ型マーカーを発見する。
「よっ、ほっ……ぬううう……てりゃあああ!」
頑張ってスポンッと引っこ抜いたマーカーと共にイナリは転がっていくが、それをアツアゲが見事キャッチする。
「おお、すまんのアツアゲ」
「何それ。ちょっと見せて?」
月子がイナリの抱えていたマーカーを摘まみ上げ、じっと見つめる。その視線はすぐに怪訝なものを見る目になり、やがて険しいものになって、それと同時に月子が眼鏡のツルをトン、と叩くとその周囲に何かの画面のようなものが展開していく。
「おお、何やら凄いことになっとるのう」
「覚醒者は文明に逆行してるって言う連中に見せてやりたいよな」
タケルがイナリを持ち上げると何故かアツアゲもタケルに登ってくるが、丁度肩の辺りに到達したところでピポン、と音が聞こえてくる。
「……これ、とんでもない魔力の内蔵スペースがあるわよ」
「ふむ?」
月子が周囲に視線を向けると、同じようなものが幾つもあるのが見える。これ全部を一気に使ったというのであればなるほど、信じられないような強度のスキルを振るうことだって出来るに違いない。何しろ月子が解析する限りでは、これらは全部空っぽなのだから。
「同じ人間相手じゃ負けるのは『勇者』くらいだと思ってたけど……ちょっとしんどいことになりそうよ、これ」
イナリを完全ではないにせよ、どうにか出来る手段を講じてくる相手なのだ。であれば、イナリと戦うつもりでやらなければならない。それがどれだけ厳しいことであるかは、イナリと関わった月子たちが、誰よりもよく理解していたのだ。





