お狐様、色んな思惑の中心になる
それからしばらく後。ミチルはイナリに見送られ屋敷を後にする。あくまで笑顔で……恐らく大体の人に好かれる笑顔を浮かべたまま、ミチルは駒込の街中を歩く。
「マスター。支部には立ち寄られますか?」
「いいえ、必要ありません」
護衛の質問にも、全く表情を崩さないままにミチルはそう答える。本当に必要ない……どころか、どうでもいいことを聞くんじゃないと言わんばかりだ。しかし、その声はあくまで慈愛の色に満ちている。
「あの支部は狐神さんとの友好のために設立しました。しかし、今のところ成果は何1つとしてあがっていない……であれば、特別扱いする理由もありません」
「……はい」
駒込にある9大クランの支部は、抜け駆けしないよう相互監視の意味があると同時に、抜け駆けするために作られている。
この辺りは大人の事情モリモリではあるが……皆日本のためということで表向きは仲良く手を握り合うし本気で相互協力もしているし、その辺りに個人の欲望を絡めとんでもない事態を招くような余地は一切ない。
ないが……それはそれとして互いに牽制もしあっているのだ。そうでなければとっくの昔に9大クランは1つの巨大クランになっているだろう。そうなっていないということは、つまりそういうことなのだ。
そして、そんな9大ギルドの一角である「サンライン」のマスターであるミチルも、当然ながら普通の善人などでは有り得ない。
そもそも9大クラン間でのイナリに関する協定は現在では、どちらかといえば武本武士団への牽制に傾いている。
すでに「イナリの友人」という位置にいる武本の娘、恵瑠。その存在はイナリと武本武士団をも結び付けているが……可能であれば、そこに同じような存在を作りたいというのは各クランが考えているところだ。
いるが……何かが進展したという話は一切ない。その理由は明らかだった。
(実際に会ってみて確信しました。理屈じゃない……たぶん本能で人を見抜いていますね。武本のお爺さんが上手くいってるのはその辺りが理由ですね。腹芸とか出来ない男ですし……)
久々にゾッとした、とミチルは思い返す。人好きのする笑顔を自然に浮かべ、態度も柔和そのもの。裏など一切感じ取れないし、少しでも何かあればミチルはそれを見抜く自信はある。
そんなミチルから見て、イナリは完全なる善人。その言葉に裏はないし、態度は見たまま。ごくたまにいる「信頼できる善人」に過ぎない。
だというのに、その前では悪だくみなど何も出来ないように感じるのだ。だから、自然とミチルは善人として普段演じている通りに行動した。今回の提案にも、一切の裏も含みも持たせなかった。
迎えの車に乗り、その車が動き出して。駒込から離れていく中で、ミチルは自分の手に浮かんだ汗を拭く。こんな緊張は何年振りか……思い出すことすらできない。
「……マスター。私たちは何も気付きませんでしたが……あの場で何かあったのですか?」
「何もありませんでした」
ミチルの様子が流石におかしいと気付いたのか、護衛がそう聞くが……ミチルはそれに小さな溜息で応える。
「しかし……」
「何もなかった。貴方たちが見たまま、聞いたまま。それ以上のことはあの場では一切起こっていないのです」
他愛もない会話と、誠実な提案。あの場にあったのはそれだけだ。イナリが威圧をしたとかそういう空気を強制したとか、そんなことも一切ない。ミチルのプライドにかけて、そんなものは何1つなかったのだ。
あの場にあったのは、ただ平穏を愛する……どうでもいい日常を尊ぶ、そんな暖かい空気だけだった。
「……貴方、神様の存在は信じますか?」
「え? それは例の『神のごときもの』とかいう……」
「そうです。そして私は昔、勧誘を受けたことがあります」
「そ、それ、は……」
「断ったけどね。私はとっても臆病だから。ただ、今でも正解だったかは分からない」
そう、ミチルはずっと昔に「神のごときもの」からの接触を受けたことがあった。
使徒提案。そんなノイズ混じりのウインドウに向かって「嫌です」と即座に断った後、もったいないことをしたかもしれないと後悔したが……たとえば今勧誘を受けたらどうだろうか?
「ちなみに、それはあの報告書にあったリストの……?」
「違います。確か【炎を掲げるもの】とか名乗ってましたけど……」
「それは、協会には」
「言えると思いますか? というか……9大クランの中には居ると思いますよ、何らかの使徒」
これは確信に近い。具体的に誰であるかも見当がついているが……敵ではないなら、それをどうこう言うつもりもない。そして、何故こんな話をしているのかといえば。
「あのとき私は感じたのです。『神様は居る』ってね。そして……今日はそのときと似たものを感じました」
「その、失礼ですが……マスターは以前も顔合わせをされていますよね?」
「ええ。そのときはただの女の子だと思ったんですが……」
今日はまるで、霊験あらたかな神社か教会にでもいた気分だった。その雰囲気に、飲まれそうになったのだ。
「では、狐神イナリは……」
「いいえ、使徒ではないでしょう。なら具体的に何かと言われると困るのですが……」
まさか本当に神様が地上にいる、などという話でもないだろう。いや、そんなことを言ったという話も協会の資料にはあったが……まあ、信じてはいない。「神のごときもの」のシステムを考えれば、地上にそんなものがいるとも思えないし覚醒者として活動しているはずもないからだ。
「まあ、誠実に付き合うのが一番でしょう。彼女はそういうタイプです」
そして、イナリとの付き合い方としてはそれが間違いなく正解であり……ミチルはそういう意味では間違いなく正解していた。
そう、ミチルを見送ったイナリは今、ニコニコしながらエリが新しく淹れたお茶を飲んでいたからだ。
「いやあ、良い御仁じゃったのう」
「はあ……まあ、人格者で有名ですからねえ」
エリとしてはそれだけではない人物のように思えたのだが、イナリがニコニコなら別にいいか、というスタンスなので何も余計なことは言わない。
「それで、行くんですか? 青森」
「うむ。友人も連れてっていいという話じゃったが……行くかえ?」
「行きます。とはいえ、その話はどちらかというと紫苑さんとか月子さんを想定してると思いますが……」
「声はかけるがのう」
行くかどうかは不明だ。イナリがメッセージを送ってみると、意外にも……いや、全然意外ではないが……すぐに返事が返ってくる。
【いなり:さんらいんのミチルに青森にさそわれたのじゃが行くかの?】
【月子:サンライン? 行かない】
【ヒカル:あー、今回はパス。すまん】
【紫苑:大手ギルドは関わりたくない】
【タケル:あの人、苦手なんだよな……ごめん】
【恵瑠:すみません、お父様がダメだと……】
【恵瑠:9大ギルドの関係上、それに関わるのはあまりよろしくないそうです】
【いなり:気にするでない】
【月子:こういうのに即レスするエリの返事がないの珍しくない?】
【月子:あと個人的な誘いだったら行くから勘違いしないでよね】
【ヒカル:あ、それは同じ】
【エリ:私は行くので……】
【恵瑠:私もです】
【恵瑠:ずるいです!!!!】
【エリ:ところでタケルさんは個人的な誘いだったらどうなさるんですか?】
【タケル:スルーしてたんだから逃がしてくれないか?】
【エリ:細かいところ気になるんです。メイドですから】
【タケル:その詰め方するのはメイドじゃなくて探偵じゃないか?】
【エリ:メイド探偵参上です! 犯人も貴方です!】
【ヒカル:他に何兼ねてんの?】
【紫苑:被害者とか?】
【月子:1人で事件完結してるじゃない】
何やら即座に関係ない話題に流れていくメッセージを見ながらイナリは「うむうむ」と頷いていたが……まあ、さておいて。どうやらエリ以外に連れていく相手はいなさそうだ……と、そこまで考えて。イナリは1人の人物に電話をかけてみる。その登録名は……「そふぃー」だ。
「……というわけなんじゃがな。どうかの?」
『え? どうしてそれに私を誘おうと思ったんです?』
「うむ、親睦を深める機会かと思うての」
『親睦を深める初回でお泊り会は距離の詰め方がスレイプニル過ぎませんかね?』
「すれいぷにるってなんじゃ?」
『あれ、おかしいなあ……知り合いには大抵大受けなんですが……身内ネタ過ぎましたか?』
「うむ、教えてくれたら分かると思うんじゃが」
『え、ギャグの解説とか絶対ヤダ……うちの上司でもそんな試練下しませんよ……?』
地上に降りてきている神のごときもの【魂の選定者】……地上での名前はソフィー・ダール。
そんな彼女に電話してみたイナリだが、どうにも反応が悪い。
『まあ、私としては仲良くなるのもやぶさかではないんですが……時期が悪いです』
「ふむ?」
『詳細は言えないんですが、ちょっと忙しくなりそうでして。私も大変なんですよ?』
「うーむ、では大変なときに電話してしまったかの?」
『あ、いえ。ドタキャンになるよりは今断れてよかったかなと。また別の機会に誘ってください』
「うむ、そうさせてもらおうかの」
そうして電話を切るイナリはエリに「今の誰だったんですか?」と聞かれていたが……その電話の相手であったソフィーは、本気でそれどころではなかったりした。
池袋のマンションの1フロア全て。美しいデザインの北欧風家具や装備が飾られたその場所のソファーに座っている1人の男のせいだった。
そう、それはあまりにも美しい男だった。サラリと艶のある黄金の髪は長く、後ろで軽く結ばれている。青い切れ長の目は力強く、しかし魔力の輝きまで見て取れた。
服装は高いブランドものだと思われるスーツをしっかりと着こなし、細いながらもかなり筋肉質であることがスーツの上からでも伺えた。出された紅茶を飲むことすらせず、じっとソフィーを見ていた男は、ソフィーが電話を切ると「……ふむ」と呟く。
「知り合いだと聞いていたが、まさか旅行にまで誘われる仲だとは」
「だから距離の詰め方が」
「スレイプニル? 中々面白いギャグだったと私は思う」
(ニコリともしないでよく言いますよねえ……ていうか電話も普通にあんな距離から聞いてるし)
「何か思ったか?」
「いいえ? 別にィ。それよりどうしたんですか、あんなものまで使って。国際問題では?」
部屋の中央にある虹色のダンジョンゲートにも酷似したモノを見ながら、ソフィーはそう問いかける。
ビフレスト。ハッキリ言って、あんなものを使って日本に来るというのは完全に想定外だった。
(正直、ビフレストをシステムが許容しているのが私には理解できないんですが……それよりこの人、何処まで本気なのか……)
「コガミイナリ。彼女についての報告書は読ませてもらった」
「はい。協力関係を充分以上に築ける相手です」
コツン、と。男がテーブルを指で叩く。それだけでソフィーは黙り込んでしまう。
「確かにそうだろう。こちらで集めた情報でも同様の結論が出る。覚醒者協会デンマーク本部としては、コガミイナリと非常に良い関係を築くことが可能だ」
そう、この男は覚醒者協会デンマーク本部の本部長……ミケル・ニールセンであった。
かつての時代が終わった後、混乱するデンマークを瞬く間にまとめ上げた剛腕であり、公称48歳とは思えない若さと美貌で有名でもある。
しかし……ソフィーは「それだけ」ではないことを、よく知っている。
「しかし……本当の意味で良い関係を築くことができるかは、分からない」
「話が通じる相手です」
「話が通じれば全てが解決すると?」
「あるいは」
冷や汗を流しながらも言うソフィーに、ミケルは考えるように視線を空中へと彷徨わせる。その目は何かを見ているようにも見えるが……ソフィーには分からない何かだ。
やがてミケルは何かを思いついたように「ああ」と呟く。
「ソフィー」
「は、はい!?」
「先程の誘い、受けるといい」
「えええええ!? こ、断った直後ですよ!?」
「事情が変わったと言えばいい。なんなら理解のある上司に行けと言われた、とかでもいい」
「えっと、はい……」
(自分で理解のある上司とか言う? 他者を階級分けする人はこれだから……ていうか上司かって言われると……)
「何か文句でもあるのか」
「とんでもございません」
どう言うかは考えなければならないが……ソフィーは、ふとした疑問を感じる。
「ていうか、どういうおつもりなんですか? 私と彼女が仲良くなったら何かあるんですか?」
「難しい話ではない」
言われて、ミケルはしれっとした顔でソフィーへと答える。
「お人よしなのであれば、友人として仲が深まれば深まるほど無碍にはできまい。その知人枠で私も始めよう」
「やること狡っ辛い……」
「聞こえているぞ」
「申し訳ございません」
とはいえ、何がしたいのかはソフィーとしても見えてきた。「そちら」の方面でイナリと仲を深めたいということは……理由は1つしかない。
「その時が、近づいているのですか?」
「思ったよりは早いだろう。正確にいつになるかまでは分からない。そして私たちは……恐らく、誰よりも速く辿り着くだろう。そう、スレイプニールの如くな」
「……気に入ったんですか、それ」
「ああ、かなり」
真顔のまま満足そうに言うミケルにソフィーは「そうですか……」と呟くが、まあとにかくそうなればイナリに連絡しなければならないだろう。
「……それはそうと、日本に来るつもりなら正式ルートでお願いしますね?」
「勿論だ。では、上手くやってくれ」
再びビフレストを通りそれごと消えていくミケルを見送りながら、ソフィーは大きく溜息をつく・
物凄い厄介なことになった。そう思わざるを得ない。
ハッキリ言って、イナリと直接会って何か企みながら物事を為せる自信はあんまりない。
おだててどうにかなる相手でも無し……余計なことは考えずにやっていくしかないだろう。
「あー、やだやだ」
言いながら電話をすれば……イナリは結構すぐに出てくれる。
「あ、先ほどはどうも。ソフィーです」
『おお、どうしたのかの?』
「あー……ええと、ですねえ。ちょっと事情が変わりまして。さっきの青森の話、是非ご一緒したいなあって」
別に断ってくれてもいいんですよ、と。そんなことを思いながらソフィーは言うが……まあ、予想通りに返ってきたのは快諾の返事だ。
『おお、勿論じゃよ。さんらいんの方にも伝えておこう。ところで、所属は何かあるのかの?』
「私はソロなんで……ええ、ええ。よろしくお願いします」
電話を切ると、ソフィーは大きく……とても大きく溜息をつく。
「そっかあ……いつでも行けるようにしとかないとですねえ……」
ほんと面倒なことになったなあ、と。ソフィーは口に出さないながらも、そんなことを考えて遠い目をしていたのであった。





