覚醒者協会日本本部にて
狐神イナリ。出身地不明。年齢は20歳……ということになっている。家族、親戚関係は存在せず、覚醒者協会日本本部で登録するより前の経歴は無し。謎が多い……非常に多い。とはいえ、それに関しては特に気にすることでもない。似たような経歴の人物は結構存在する。そのくらいにかつて人類は無茶苦茶になったのだ。
そして活躍についてだが東京を中心にダンジョンを攻略し、幾つかの事件の解決にも関わっている。まあ行動範囲が関東地方中心なのは当然ではあるだろう。現在の交通事情は車や航空機中心であり、イナリは航空機は覚醒者協会が提供したときのみ使用している。
「そして『神のごときもの』の事件にも複数関わり解決、か」
覚醒者協会日本本部長、御堂 孝明。53歳の働き盛りであり、日本の覚醒者協会のTOPだ。協会長などという役職ではないのは世界中に覚醒者協会があり、誰かが協会長と名乗るとガチの苦情が各国の覚醒者協会本部から来るからだが……まあ全員同格という、そんな感じの協定が結ばれているわけだ。
さておき、そんな日本本部長である御堂が見ているのはイナリの資料だった。会いに行こうと思いつつも多忙で行けていなかったが……流石にイナリが10位以内に入り『勇者』と協力して事件を解決したともなれば多忙を言い訳にしては居られない。
基本的に10位から先というのは分厚い壁であり、10位にいるだけで凄まじいことなのだが……ハッキリ言って今の調子であればトップランカー入りもほぼ確実だ。凄すぎるし、海外の覚醒者協会からの問い合わせを上手く躱すのも大変だ。何しろ連中は本気でイナリを欲している。
というか……日本がイナリを冷遇しているとすら思っている。もっと与えられるものがあるのに与えていない、自分たちならもっと良い環境を提供できると、そう信じているのだ。それを思い出すと御堂は思わず机を拳で叩いてしまう。
「くそっ、冗談じゃないぞ……! 俺たちだって苦労しているんだ……!」
「本部長、落ち着いてください」
秘書に言われ、御堂は「ああ、すまない」と口では言うが各国の本部への怒りは増すばかりだ。何しろ、1位の「勇者」はまた海外に行ってしまったし、そちらではいつものように引き抜き工作が行われているだろう。
これについては「勇者」が日本にこだわってくれることに期待するしかないが、その「勇者」がイナリと友誼を深めた……らしい。どのくらいかは分からない。探りを入れさせたら「まあ……知人じゃな」とか言ったらしい。全然分からない。
しかしそのせいだろうか、またイナリを取り込もうとしている連中がウロウロしているようだが、本当に冗談ではない。
(狐神イナリ……その子が俗物的な価値観があるなら色々と優遇のしようはあるんだが……)
しかし、どうにも報告を読む限りはそうではない。物欲という言葉自体を何処かに捨ててきたかのような暮らしぶりであり、サポート役の職員がなんとか生活レベルを上げさせているような状態だ。まあ、それに関しては本当に「あれだけランキングを駆けあがっても暮らしぶりが……」とかご近所に言われるようでは本気で外聞が悪いし海外からも覚醒者を虐待し利益を吸い上げているとか……そういう感じでスクラムを組まれても非常に困る。
困るのだが……イナリの欲しいものが分からないからさらに困るのだ。最近は何やら物件を探す素振りも見せていたらしいが「まあ、こういうのは縁じゃしのう」とか言い始めたらしい。本当に困る。
困るが……どうにも今のトップランカーたち全員と親交があり、全員からの評価が良いというのは実に凄いことだ。特に2位の真野月子などは、他人をあまり信用しないことで有名だというのに「イナリの友だちだったら……」みたいな基準がいつの間にか出来ているのは御堂は本気で驚いたし、3位の鈴野紫苑はいつの間にかイナリの家にちょくちょく出入りする仲になっている。
そう、言ってみれば……狐神イナリは、日本本部にとって非常に大切な人物と化している。あの曲者揃いのトップランカーたちを……5位になった「聖騎士」とはそれほど親交はないようだが……10大クランの1つ「武本武士団」のマスター、武本と仲が良いという話もある。
「あ、いや。もう9大クランなんだったか……」
そう、かつて10大クランと呼ばれていたクランのうち「越後商会」はすでに解散した。代わりにのし上がってくるものがあるかと思いきや、互いに牽制しあってそうでもないため、すでに9大クランで定着してしまっている。
「越後商会の件ですか?」
「ああ。それにも狐神が関わっているんだったな」
「はい。その件に関してはご存じの通り、超人連盟絡みでもあります」
「あいつらか……アレも頭の痛い問題だ」
超人連盟。世界的規模で存在し、各国の覚醒者協会にも潜んでいるのではないかとされている覚醒者集団だ。その目的は「覚醒者による完全なる世界掌握」であり、ハッキリ言って今で充分だろうと御堂は思うのだが……どうにも連中はそうではないらしい。
世界規模で結ばれている覚醒者基本条約と、各国である程度内容は違うものの制定されている新覚醒者基本法。要は「覚醒者自治」を定めたものであるが、それ以上を望んでも面倒なだけだろうに、これの支持者はそれなりにいる……らしい。
しかしこれにも「神のごときもの」が関わっているという。本当にきな臭い集団だ。
「まだ地球防衛隊のほうがマシ……いや、どっちもどっちか……」
「神のごときものの関与が判明するまではマシであったように思います」
「まったくだ」
地球防衛隊。こちらも世界規模の組織であり、超人連盟とは逆に非覚醒者こそが生物的に正しいと主張する集団だ。基本的に覚醒者を害する力はないし非覚醒者社会に任せておけばいいと思っていれば、こちらにも「神のごときもの」の関与があるときている。
「神のごときもの、か。本当にどうしたものか。いや、どうにもならんか……何者であるかすらも分からん」
今までに判明……というか報告されているのは【果て無き苦痛と愉悦の担い手】、【深き水底にありしもの】、【語られる形無きもの】、【証明不能なる正体不明】、【終わり告げる炎剣】、そして【邪悪なるトリックスター】。どれも明確に人類の敵らしき行動をしているが、ある意味では人類に力を貸してもいるので明確に「敵」と考えるのも問題である気がする。
そもそも「神のごときもの」とは言うが、神の基準とは何なのか? その辺りを明確に定義づけようというのはあまりに不遜に過ぎるだろうか? 少なくとも日本本部長の立場で迂闊に踏み込んでよいものではない。
「神のごときもの……もっと良い感じに人類に力を貸してくれるなら『あなたこそ神です』と幾らでも崇めるんだが」
「仰る通りかと」
「実はそういうのがもう居るんじゃないか? 問題を起こさないから表面化してないだけで」
「可能性はあります。調査なさいますか?」
「……いや、やめておこう。藪をつついて出てくるのは蛇じゃなくて神だ。冗談じゃない」
「はい」
何処にどんな爆弾があるか、分かったものではないのだ。ここで余計なことをして連鎖爆発でもしては、下手をすれば比喩抜きで日本が沈没しかねない。詰む一歩直前の状況にコツコツと御堂は机を指で叩くが、これはもう本当にどうしようもない。
「あの……僭越ですが、各国の覚醒者協会に情報を共有するわけにはいかないのですか? これは日本だけの問題ではないようにも思われます」
「……どう共有するんだ? 『神のごときもの』とかいう人間にスーパーパワーを与える連中が存在すると?」
「いえ、ですが実際には様々な被害が出ているわけですから」
「自分たちであれば上手く制御できると思うものだ。思わなかったとして、迂闊な連中が変な刺激をして地球滅亡なんてことになる可能性もある」
もっと言えば、すでに『使徒』……神のごときものの契約者に掌握された協会だってあるかもしれない。日本本部ですら、イナリがどうにかするまでは10大クランだった『越後商会』のマスターが使徒だなどということは知らなかったし、草津に、イナリからは謎と報告されているが……神のごときものの使徒がいたこともまた知らなかった。その結果、『巻き込まれた』元3位のタケルのジョブが「クサナギ」とかいうユニークジョブに変わったようだが……草津ファイアドーム事件は謎のまま調査終了している。
「……やはり鍵は狐神イナリ、か」
どういう理屈か分からないが、イナリは「神のごときもの」を撃退できる力を持っている。一応調べたが「狐巫女」なるジョブは他には存在しないユニークジョブであることが分かっている。そして他の巫女職では似たようなこともできないだろうこともだ。
つまり、イナリを手放すことだけは絶対にダメだ。だから今日これから、御堂はイナリに会う。この資料類はそのための最終確認であったわけだが……秘書が覚醒フォンを取り出し、何処かからの連絡を受けていた。
「はい、分かりました。そのままお通ししてください」
「来たか」
「はい。先程受付においでになられたそうです」
そうしてやってきたイナリが秘書室長の青山に連れられてくると、御堂は思わず驚きで目を見開いてしまう。
「美しい……」
「照れるのじゃ」
「あ、いや……ごほん」
思わず口に出してしまったが、御堂の偽らざる感想であった。
事実、狐神イナリという少女は美しい。どうしようもなく美しいのだ。
顔の造作がどうのというレベルではなく、全体的に美少女と呼ばれる要素を兼ね備え、それを人間離れしたレベルで維持している。そこで仏頂面をしている青山などはどうして冷静でいられるのか分からないほどだ。しかし、同時に思う。その美しさと同時に何やら人を安心させる雰囲気をも持っている、と。恐らくはその辺りでバランスがとれているのかもしれない。
「……失礼した。俺が覚醒者協会日本本部長の御堂孝明だ。狐神イナリくん。君には色々と世話になっている。だというのに、たいした時間もとれずにすまなかった」
「狐神イナリじゃ。組織の長ともなれば忙しいのは当然のこと……儂に謝罪する必要など微塵もなかろう」
「そう言ってもらえると有難い。では早速本題なのだが……君に何か報いたい。これは覚醒者協会日本本部としての信賞必罰の方針を示すためと言ってもいい。何でもいいから、何か欲しいものを教えてもらえないだろうか?」
「うーむ。そう言われては断るわけにもいかぬか」
信賞必罰の方針を示す。これは実に重要なことだ。イナリが立派な家への引っ越しを受け入れたように、あるいは生活レベルの向上にチャレンジしようとしたように。そういうのは大事なことだからだ。たとえば月子が様々な面で安全な研究所を保有しているのも、その具体例と言えるだろう。
「ふうむ……さて、どうしたものか」
とはいえ、イナリは欲しいものが本気で無いのだ。炊飯器は物凄く高いものを買った……あくまでイナリの感覚である、イナリの現資産であれば1からメーカーに専用の炊飯器を研究させることだって簡単なものだがさておいて……とにかく、欲しいものがない。ないが、此処で「無いのじゃ」というわけにもいかない。ならばどうするか? イナリは考え……「温泉?」と口にする。
「いいとも。流石に何処にでもというわけにはいかないが、都内で可能性のある場所から選んでくれればすぐにボーリング作業を」
「今のはナシじゃ」
本気でボーリングとやらをやりかねないと気付いたイナリはすぐに撤回するがなるほど、本気度はよく分かった。しかし御堂としてはその方向ではどうかとすでに考え始めていて、1つの案を思いつく。
「そうだ。ならば駒込というのはどうだろうか?」
「む?」
「あの地は新しいダンジョンが出来て開発中だし、武本武士団とも近い。何より温泉が過去に出た実績があるらしい」
そう、実績があるというのは大事なことだ。そしてイナリとしても、武本武士団と近いというのは悪くない。何より秋葉原に行くのにも比較的便利な位置にある。
「よし、そこに君の屋敷を建てよう。それでどうだ?」
「どうだと言われてものう……相当な金がかかるのでは?」
「君に対する褒賞としては安いと言われるのを俺としては警戒しているがね」
実際、イナリのもたらした結果を考えれば温泉付きの屋敷を建てるなど安すぎると言われる可能性が非常に高い。だからこそ、町全体を開発するようなレベルで計画を動かしていく必要がある……が、そこまで言うとイナリが遠慮する可能性があるので御堂は言わない。
「勿論要らないというのであれば別のものを考えよう。しかし、君は物件も探していると聞いた……ハッキリ言って、日本本部ほど君を満足させられる物件を用意できる集団はいないと思うぞ」
「うーむ……」
まあ、断る理由はない。イナリにとって大きすぎるプレゼントだというだけだ。しかしまあ、今回の話に到った背景事情も考えるに、此処で遠慮したところで後々もっと大きなものになっていくだけだ。世の中がそういうものである以上、イナリとしてもここらで受け取っておくべきなのだろう。
「分かった。その提案、受けよう」
「よし、決まりだ!」
そうなれば話は早い。御堂としてはこの後すぐに武本武士団と連絡をとって都市開発に関する計画を立てていくつもりだった。武本もなんだかんだでノリがいいので、あの江戸時代みたいな街並みが駒込まで浸食していくことはもう間違いはないだろう。
そして巣鴨の中心が武本武士団の屋敷群であるように、新しい駒込の中心はイナリの屋敷になるだろう。そういう仕事をしたい建築系の覚醒者はそれこそ大規模オーディションか入札をやらなければならないほどにいる。特に「狐神イナリの」とつくだけで希望者はどれだけ膨れ上がるか分かったものではない。
(何より、こういうしがらみは彼女を縛るだろう。情が深そうだからな)
「何やら悪い顔をしとる……やはり断ろうかのう……」
「うっ! いや、これは……」
確かにちょっと悪いことを考えたかもしれないが、日本本部長として当然の考えしかしていない。そういう意味では悪人の思考ではないはずだ。はず、なのだが……イナリに見つめられると悪いことを考えていたような気分になってきてしまう。
「これは……俺が元々悪人っぽい顔なだけだ……」
「ふうむ? いや、苦労を刻んではおるがちゃんと立派な男の顔をしとるよ」
「ぐうううううう……!」
今まで相手をしたことのないタイプ……本当に純粋に何の媚もなく褒めてくるタイプのイナリに御堂は顔に脂汗を浮かべながら唸る。自分がどうしようもない悪人に思えてくるのは、もはや新手の拷問だ。まあ、御堂が悪人ではない証明とも言えるのだが。
「……いや、まあ。君を東京に留める楔になるとは思った。それだけだ」
「なんじゃ、そんなことか。お主は善人なのじゃなあ」
「勘弁してくれ……もう50も半ばなんだぞ俺は……悪戯坊主の気分になる……」
完全に敗北している御堂を秘書と青山がなんとも珍しいものを見る表情で見ていたが……とにかく、イナリの新居予定地は駒込に決まったようであった。
というわけで、試験的に色々やってみようと思い立った第8章、開始です。
本章でもよろしくお願いいたします!





