お狐様、誘う
「タケル!」
「……ああ、狐神さんか」
「何をしとるんじゃ、お主は……何故逃げんかった」
近くに膝をつき起こそうとするイナリに、タケルは表情を変えないまま……乾いた笑い声をあげる。
「ハハ……逃げてどうなるんだよ。石でも投げられろっていうのか?」
「それは……」
「家に火をつけられたときにさ、思い出したんだよ。俺の居場所はとっくに此処にはないってさ」
その言葉の意味は、イナリには分からない。しかし、恐らくはタケルの根幹に根差す何かであることだけは気付いた。しかし、気付いたとて……今のタケルにそれを問うことなど出来るはずもない。
「だからさ。此処で死んでもいいと、本気で思った。まあ、死ねなかったんだけどさ。ハハ、当たり前なのにさ、そんなのは」
「タケル。儂はお主が望むなら、ではあるが」
「ダメだよ、狐神さん」
東京に連れて行こうと言おうとするイナリの言葉を、タケルは優しく遮る。タケル自身、イナリが何を言おうとしているのか気付いたのかもしれない。
「俺にそんな、優しくしちゃダメだ」
「何を言う。儂はタケルを甘やかすぞ。今のタケルはそうされるべきじゃ」
イナリは言いながら、タケルの上半身を優しく抱き起す。その姿は文字通りの慈愛に満ちていて……だからこそ、タケルはゆっくりと起き上がりイナリから身体を離す。
「ダメだって。見ろよ、あれ」
タケルが視線で示す先。そこには残っていた野次馬たちの侮蔑のような、敵意のような……そんな視線があった。
「見ろよ、土間タケルだ」
「殺人鬼の? うわ、ヤバくね? 通報しようぜ」
「あそこにいるのイナリちゃんだよな? なんであんなところに」
ヒソヒソと囁き合い、写真を撮る者もいる……どれも敵意に満ちている。まあ、こんなところにいるのだから今頃始まっているだろう記者会見のことは知らないのだろう。
「俺と一緒にいるとイメージ悪くなるぞ。早く何処かに行った方がいい」
そう肩をすくめるタケルの表情には、ただ諦めだけがあって。だからこそイナリの中には燃え上がるものがあった。
「タケル。お主はほんに優しい子じゃ」
「え?」
「だからこそ、見捨てはせん。それは儂が一番嫌うものじゃ」
イナリは立ち上がると、野次馬たちへと顔を向け朗々とした声をあげる。
「タケルは犯人ではない! すでに犯人は儂と仲間が打倒し、記者会見も予定されておる! 全ては悪なる者の策謀であったのじゃ!」
それはこれ以上ないほどに分かりやすく要点を伝えるもので。しかし、野次馬たちの反応は芳しいものではなかった。
「悪なるものって……」
「なんでそんなに庇うんだ? なんか怪しい……」
言葉が届かない。その事実にイナリが何を言えば届くのか分からず……けれど、その沈黙は別の「音」で破られる。
―では、今回の殺人事件はその国際組織によるものだったということですか?―
―そうです。超人連盟。そう名乗る国際犯罪組織により引き起こされた、土間さんのイメージを損なうための陰謀です。実際、その作戦は成功しようとしていました。ですが、無事に犯人を倒すことに成功しました―
イナリとタケルの上空に映し出されたテレビの生中継画面。それはどうやら小さなドローンによるもののようで、イナリが視線を向けた先には月子たちの姿があった。
そして、映し出されたテレビ映像は人々を見事黙らせる効果があったようで……誰もが映し出される生中継映像に見入っていた。
―今回の責任は何処にあるとお考えですか!?―
―全員です。土間さんの問題は、この国がかつて覚醒者を弾圧しようとしたときから始まり、その頃から続く『覚醒者をどうにか利用しよう』という考えから発生したものです。超人連盟はその歪みを突き、何処かの誰かに土間さんの家に放火させるまでに至りました。これは彼等にとっては大成功でしょう―
会見が進んでいくに従い、そろそろと何処かに去っていく者が出始める。その数は増え始め……全員が何処かに逃げ去るまでには、然程の時間もかからなかった。
まあ、当然だ……自分が「極悪人に見事コマとして使われ踊らされました」とテレビで指摘されてなお、元の主張を貫き通せる者はそう多くはない。そうして野次馬たちが消えると、イナリはタケルへと向き直る。
「見よ、お主の冤罪は見事証明された。まあ、儂ではなく月子の手柄ではあるがの」
「……ははっ。本当に貴女は……凄いな」
言いながらタケルは立ち上がる。その姿には傷は1つもないが……心はそうではないだろう。だから、イナリはもう1度タケルに提案しようとする。
「のう、タケル。儂と共に東京へ行かんか?」
「いいや、出来ないよ」
しかし、タケルはイナリにそう断りの言葉を告げる。その表情は、やはり諦めの表情のままだ。
「誘ってくれたのは嬉しい。本当に嬉しいんだ。でも……俺にはこの草津でやるべきことがある。だから、そのお誘いを受けるわけにはいかない。ごめん、狐神さん」





