お狐様、草津を出る?
翌日。イナリと紫苑は宿をチェックアウトしてバスターミナルへ向かおうとしていた。群馬第1ダンジョンをクリアして、草津の湯も全てではないが堪能した。草津空港にもやはり覚醒者協会による捜査の手が入っているということで、早々にイナリたちのやるべきことがなくなったからだ。
すでにバスの予約も済んでいて、いよいよバスの乗り込みが始まろうとしていた、そのタイミング。
「あ、よかった。まだいらっしゃいましたか! 狐神さーん! お待ちを!」
「む?」
バスの乗り込み列に並ぼうとしていたイナリを呼びながら走ってきたのは、覚醒者協会の身分証をつけた女だった。バタバタと慌てた様子で走ってくる女にイナリは立ち止まり「何か御用かの」と声をかける。
「は、はい! よかったです……実は当支部から狐神さんに指名依頼がございまして! 是非受けて頂けたらと!」
「ボクは?」
「へ? い、いえ。狐神さんに、と」
紫苑に聞かれて「楡崎 花」と書かれた身分証を下げた女は申し訳なさそうに紫苑へ頭を下げる。
「ふーむ……」
イナリは少し考える。別にこの話は受けなくてもいい。いいが……少し気になることもあるにはある。どうせ急ぎの用事もない。だからこそイナリは肯定の頷きを返す。
「ええぞ。その依頼、受けよう」
「ならボクも」
「これ紫苑。お主は明日から仕事があるんじゃろ?」
「むう……」
イナリはともかく、紫苑は貴重な水中系覚醒者だ。スケジュールはそれなりに詰まっており、今回の草津旅行もそうしたスケジュールを調整してひねり出したものだ。だからこそ紫苑はもう帰らねばならないのだ。
「分かった。戻る」
「うむ。そういうわけじゃから運転手殿、儂のことはええから定刻通りに出発を頼む」
頷く乗り込み案内をしていたバスの運転手に楡崎も頭を下げる。
「こちらの突然の都合で申し訳ございません」
「い、いえいえ!」
そうして出発していくバスを見送ると、楡崎はイナリへと再度頭を下げながら名刺を差し出す。
「改めまして、突然の要請で申し訳ございません……! 私、覚醒者協会群馬支部営業部サポート課の楡崎 花と申します!」
「うむ、儂は狐神イナリじゃ。それで……依頼とは何かの?」
「ええっと……」
周囲の人々から注目を集めているのを見て、楡崎はイナリに囁く。
「……此処でするお話ではございませんので、場所を変えてもよろしいでしょうか?」
「うむ、ええよ」
そうしてイナリは楡崎に連れられて歩いていくが……いわゆる「裏草津」と呼ばれる区域にある2階建ての「覚醒者協会群馬支部草津出張所」と書かれた看板のかかった建物に通されていた。
あまり人の居ない雰囲気のある草津出張所には受付らしき職員などがいるが、一般の覚醒者の姿などはない。そのせいか皆暇そうであった。
「人がおらんのう」
「草津は覚醒者向けの散発的な仕事はあまりないんです。大体は護衛の仕事などですが、そうなりますとかなり長期の仕事になりますので」
なるほど、草津は安全……とはいうが、そうやって覚醒者を護衛に雇う者がいることで散発的な仕事などの仲介業務は出す者も受ける者も減っていったのだろう。そしてそういう仕事を受けると、何かあったときに動ける覚醒者がいなくなる。まあ、そういうことなのだろうが……そうしてイナリは応接室らしき場所へと通される。
特に上司が出てくるわけでもなく、楡崎がそのまま担当のようだが……楡崎は「本当に緊急の話なんです」と語りだす。
「とはいえ、頼りになる覚醒者がそう都合よくは居りませんでして。狐神さんがいらっしゃったのは幸運でした」
「ふむ……」
しかし、とイナリは思う。そうであれば1人いるではないか、と思うのだ。
「タケルを頼れば良かろう。この草津に居る中では最強で、しかも何処に所属はしとらんはずじゃが」
「そ、それは……そうなんですが」
「うむ?」
「その……恥をさらすようで申し訳ないのですが。当支部と土間さんとの関係は、あまりよろしくないんです……」
こんなところにも歪みがある。それに気付き、イナリは頭痛がするような錯覚を感じた。そういう機能はイナリにはないので、本当に錯覚である。
「うむ……うむ。何故そんなことになっておる?」
「えっとですね……草津の現状についてはどの程度ご存じでしょうか?」
「地価が高いのと、安全と言われておる、そしてそれがタケルのおかげということくらいじゃの」
「はい。草津は今や都心とそう変わらないくらいに地価が高いです。そして住んでいる人々も、非覚醒者の立場もお金もある方々ばかりです」
その影響もあってか、草津の観光業にも大分そういった方面からの買収、出資……様々なお金が流れ込んできている。それはもはや止められる流れではなく「昔からいた人々」が草津から居なくなり人が入れ替わる現象が起き始めている。
「かなり乱暴な買収もあったようで、非覚醒者のことに私たちが首を突っ込むわけにもいかず色々……本当に色々あったんです」





